4 陰陽師・篁薫(たかむらかおる)
それから二刻(四時間)近く経った、四つ半(夜十一時半)、すっかり夜更けてから佐吉は、鍖衛の役宅の居間を訪れた。
曲者の尾行を警戒して、大きく回り道をした上に、居酒屋で時間を潰したからだ。
しかし、男が再び姿を現すことはなく、尾行もつかなかった。
佐吉が船橋からの顛末を話すと、鍖衛は、煙草盆を引き寄せながら、
「ほう……そいつは、ますます怪しい雲行きになってきたな」
「根岸さま。やつらは、おおっぴらに松兼を見張っていました……それに、さっきの一件。
これがあっしには、どうにも盗人のやり口とは思えません」
「たしかに盗人にしては、やることが垢抜けねえな。松兼の金蔵が目当てなら、もう少しやりようがありそうなものだ。
――ということは……狙いは、娘のほうなのかもしれん」
「へい……もしくは、娘が勤めていた大名屋敷に何かあるのか……」
鍖衛は煙管に達磨刻みを詰めると、火を移し、旨そうに烟を吐く。
そして、煙管の雁首を手首に軽く打ちつけ、灰を落とし、
「小笠原家は、礼法の宗家というだけではなく、西国(九州)の外様に睨みを効かせる譜代の大名だ……いったい、その何を狙う?」
独り言のように呟いた。
「これは、あっしなんぞではなく、奉行所の仕事なんじゃあ……」
「いや、大名家のことだ。もしゴタゴタがあったとしても、口を突っこむわけにはいかん……
松兼も船橋宿。これも代官の縄張りだ……表だって動けばいろいろ角がたつ……」
佐吉は、焦れて、
「なら、いっそのこと、すっぱり忘れちまえば……」
なげやりに言った。
「佐吉……お前、このまま何もわからねえうちに、ほうり投げて、ぐっすりと眠れるかい?」
鍖衛が佐吉の眼を見る。
「いいえ。そいつあ、なんとも寝つきが悪うござんすね」
すかさず佐吉がこたえると、鍖衛は、不敵な笑みを浮かべ、
「やっぱり、この親分にしてこの子分あり……俺もおんなじさ」
と、笑った。
「では根岸さま……このあとは、どういたしましょう」
「船橋のほうは、飴売り三吉を張りつかせよう。
何かあったら、船橋の問屋場から
飴売り三吉も、佐吉と同じように、鍖衛の手下としてはたらいている男である。
ただし、こちらは佐吉とちがい十手持ちだ。
「へい。承知しました……あっしは……」
「おまえには、話に出た、陰陽師の篁薫(たかむらかおる)に会ってもらう」
「篁薫って……根岸さま、ご存知なんで?」
「いや、一度も会ったことはない……が、噂には聞いている。
なんでも、お祓いには、最低でも十両という、べらぼうな高値にも関わらず、客足は絶えないそうだ」
「薫……なにやら、女みてえな名前ですね」
「ふふ、ふ……噂では、役者も裸足で逃げ出すような美形らしいぞ」
「堪忍してください。あっしは
「はは、は、冗談だ……」
鍖衛は、再び煙管を手にとった。
――翌日。
佐吉は、根岸の里へ向かった。
根岸の里は、上野の山の北東にあたる田園地帯である。
江戸市中からさほど離れているわけではないが、足を踏み入れたとたん、深い山里にいるかのような
見渡すと、どこまでも田圃や畑がひろがり、ところどころに見える、こんもりとした森や竹藪が、田圃の海に浮かぶ島のようだ。
町屋は、奥州、日光街道に続く道沿いに、茅葺き屋根の家々が並ぶだけで、あとは農家と風雅な寮があるばかりである。
陰陽師・篁薫の屋敷は、根岸に点在する、金持ちの好むような風雅な寮ではなく、茅葺きの古い農家を改築した家だった。
その周りには、音無川から引いた水が、城の掘のようにめぐらされている。
家に門はなく、周りを生垣が囲っていた。
佐吉は、堀に架けられた、幅一間ほどの木の橋を渡り玄関に向かった。
すると、ふしぎなことに、すでに玄関は開け放たれ、上がりかまちには、小さな置物のような老人が、ちょこんと座っていた。
老人の背丈は子どものように小さいくせに、あたまだけは、成人のものとかわらず、栗の実か、おにぎりを思わせた。
しかし、太い眉の下の円らな瞳が、どこかちぐはぐな印象であった。
一種の異相といってもよいだろう。
佐吉があっけに取られていると、
「お待ちしておりました。ご案内いたします……どうぞ」
にいっ、と笑い、身振りで奥を示す。
佐吉は、ここを訪ねることを、先方には知らせていない。
なのに老人は、佐吉を待っていたことが腑に落ちないが、とりあえず老人にしたがって農家にあがりこんだ。
老人は、よろよろと頼りない足取りで、佐吉を先導する。
「こちらでございます」
老人が障子を開けると、風が通り抜けた。
そこは、ひろびろとした居間で、庭に面した障子は、すべて開け放たれ、芝を植えただけの庭と、その向こうには雑木林が広がっていた。
雑木林を見渡せる、開放的で明るい部屋だが、その見事な眺めよりも、佐吉の目を奪ったのは、座机の前に座る男の姿だった。
総髪を結うこともせず、肩まで垂らした姿は、いかにも陰陽師然としているが、なによりも目を惹くのは、その美貌である。
たおやかで中性的な線の細い顔立ちに、陶器のような白い肌が、博多人形を想わせる。
そして、名状しがたい気品が身体から漂っており、佐吉は、思わず息を呑んだ。
しかし、こけおどしめいた陰陽師らしい格好はしておらず、川越唐桟の縞の木綿をさらりと着こなした姿は、浪人か剣客のようにも見える。
「ごめんなすって。あっしは佐吉と申しまして、南町奉行・根岸鍖衛の手のものでございますが……」
「篁薫です……佐吉殿。まあ、そこにお座りください」
佐吉は、薫の腰の低さに戸惑いつつ腰をおろす。
「奉行所が手前などに用事とは、珍しい……おそらく船橋の件ではありませんか?」
いきなり薫が言った。
「へえ、そのとおりで……でも、勘違いなさっては困ります。
こいつは、今のところ御用の筋ではなく、お奉行の道楽みたいなもので……」
「根岸さまは、巷の噂話をあれこれ集めるのが趣味と聞いております……これも、そのひとつでしょうか?」
「まあ、そう思ってくださって結構です……ところで、奥女中が狐に憑かれて死んだっていう話、あれは本当なんですかね?」
佐吉が単刀直入に切り出した。
「さて……手前がたのまれたのは、姉の憑き物落とし……
妹の件は、まったくあずかり知らぬことゆえ、なんとも言えませんね」
「では、聞き方をかえます。狐憑きというのは、実際に狐がとりついて、なるもんなんでしょうか?
あっしにはどうも、頭の
佐吉がそう言うと、
「ふ、ふふ……佐吉殿は正直ですね。手前のことが、よっぽど胡散臭いらしい」
薫が楽しそうに笑った。
「い、いや、そういうわけじゃあ……」
図星を突かれて、佐吉があわてる。
「かまいませんよ。平安の昔ならばともかく、江戸の世に、陰陽師などというのは、たしかに胡散臭い。
しかし……佐吉殿も、その陰陽師の世話になっているはずなんですけどね」
「あっしがですか? たしかに町内にひとり売卜(うらない)がおりますが、手相なんぞ見てもらったこたぁ、ありませんぜ」
「佐吉殿は、
「へえ、江戸暦なら毎年買っておりますが……」
「その暦を作るのが陰陽師の仕事です。
まあ、貞享の改暦からは、幕府(おかみ)の天文方が作るようになりましたが、今でも解説をつけているのは、京の土御門家です。
――その土御門家というのが、安倍晴明の子孫で、陰陽師の元締めなのです」
日本の文化は、その多くを中国から輸入していた。暦もそのひとつである。
しかし、唐代に編成された宣明暦は、誤差が生じるようになり、幕府の囲碁方に所属していた、渋川春海が、時差などを考慮して新たに作ったのが貞享暦である。
貞享暦以降、暦は幕府が作成するようになったが、その暦は、幕府の暦官が編成して京へ送り、土御門家が註をつけ、町奉行・町年寄を経て、江戸の暦屋に下附する……。
という、たいへん複雑な経路をたどり出版されていた。
「ほう、陰陽師が暦を作っていたんですか。しかし、幕府が作るようになっちまったら、土御門の儲け口がなくなっちまやしませんか?」
「佐吉殿は、江戸にどれだけ陰陽師がいると思いますか」
「さあて……うちの町内にもいるぐらいですから、百や二百じゃあ、きかねえでしょうね」
「おおよそ千人です。そのすべてが、陰陽師を名乗るために、土御門家に運上金を納めて、免許をもらっているのです」
「陰陽師は、江戸にだけじゃなく、京にも大阪にもいるわけだから……そいつは、たいしたあがりでしょうね」
「それだけではありません。流し巫女や、三河漫才などの免許も土御門が下附します。江戸の名物、正月の三河漫才も、土御門の許しがないと、江戸までの道中手形がもらえないのです」
「なるほど……」
佐吉が感心していると、
「ところで、さっきの
という話ですが、手前共に相談にやってくる狐憑きの十に九つは、佐吉殿がおっしゃるとおり、気の病で、祟りなどではありません」
「じゃあ、残りひとつは……」
「そう……狐かどうかは別にして不可解なものの仕業です。
――ところで、佐吉殿。
そろそろ、今日やって来た
「ふふ……お見通しですか。実は、船橋でお祓いをするときに、あっしも同行させていただきたいんでさ」
「それはかまいませんが、先方にはどのように紹介しましょう?」
「篁殿の弟子という触れ込みでいかがでしょうか」
「わかりました……では、そういたします。手前は、明日船橋宿にゆく予定ですが、よろしいですか?」
「けっこうです。 ――ところで、もし身体が空いていたら、一度、奉行にも詳しい話をしていただきたいのですが……」
「そうですね。手前も風流なお奉行様には、一度お目通り願いたいと思っておりました」
そして、細かい当日の打ち合わせを終えると、この日は、鍖衛の帰りが遅くなるので、佐吉はそのまま帰路についた。
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