3 日本橋通り町・能登屋
佐吉が鍖衛と語りあった翌日……。
佐吉の姿を、日本橋通り町に見いだすことができる。
日本橋通り町といえば、江戸を代表する繁華街である。
賑わいこそ両国に劣るが、越後屋、白木屋など、江戸有数の大店が並ぶその様子は、両国が現在の新宿、渋谷だとすると、さしずめ銀座といった雰囲気だろうか。
通り町は、江戸の目抜通りといってよかった。商人や武士、職人や折り助、人足から大工、はては遊び人から物乞いまで、あらゆる種類の人びとが、せわしなく行き交っている。
もちろん佐吉も、昨夜の粗末な木綿の着物などは着ていない。
ぱりっとした縞の
しかし、鍖衛の前で見せた精悍な表情はどこにもなく、締まりのない口元に、へらへらと軽薄な笑みを浮かべ歩くさまは、まるで、どこぞの大店の道楽息子のようである。
眉尻を下げるように眉墨を引いているのが、その軽薄な印象に拍車をかけていた。
佐吉は軽い足取りで、
「ごめんよっ!」
と、『能登屋』の暖簾をかきわけた。
「いらっしゃいませ」
佐吉が店に入ると、番頭や手代が素早く品定めの視線を送る。身なりで上客かどうかを、一瞬で見分けるためだ。
その眼光が、まるで箱根山で獲物を探す雲助のようで、思わず佐吉の口元がほころんだ。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか……」
もみ手をしながら、年配の番頭が、佐吉に近づいてくる。どうやら、上客と判断されたようだ。
「実はね、あたしの金主が、このところご機嫌斜めでね……今日は、ちょいと……その、ご機嫌をとるようなものを、見つくろいにきたのさ」
普段からは想像もつかない軽い調子で佐吉が言う。
「へっ……き、きんしゅ……で、ございますか?」
「いやだね番頭さん。金主ってのは、うちの恐ろしい、おっ母さんのことだよ。は、はは。――なにね……あたしが、こないだ
早口でまくし立てる佐吉に、番頭は口をぽかんと開けている。
「うちはね。親父殿は入り婿でね……つまり、なんだ。家付き女房には頭上がらずってやつさ。だから、おっ母さんのご機嫌が斜めだと、あたしの小遣いも、干上がっちまうんだよ」
どうこたえたものか、番頭も困り果て、曖昧な笑みを浮かべていると、そこに小僧のひとりが、気をきかせて、お茶と茶菓子を持ちよった。
佐吉は、遠慮なく茶菓子を口にほうりこみ、茶をひと口すすると、
「おっ、気がきいてるね。あたしは、子どものころから、この守口屋是秀の柚餅が好物でね」
そう言いながら、運んできた小僧に、小粒の心付けをわたす。
大店の小僧とはいえ、このような過分なこづかいなどもらったことがない小僧は、目を丸くした。
番頭や、手代、小僧たちの視線が、さりげなく小粒に集まったのを見て、
(かかったな)
佐吉は心のなかでほくそ笑んだ。
庶民の口には決して入ることのない、市ヶ谷田町の菓子司・守口屋是秀の菓子を子どものころから……などと言ったのも、効いているはずた。
しばらくあれこれと品定めしたあと、佐吉は鼈甲を使った帯留めを購った。地味だが二分もする品物だ。
佐吉は、店にいる間、奥女中については、ひとことも口にしない。
これが十手持ちならば、お上の威光をちらつかせ、嚇しつけて聞きだすところだが、佐吉は、十手など持ってはいない。あくまでも、鍖衛個人の密偵だからだ。
佐吉は、もっとスマートに事を運ぶつもりだった。
「ありがとうございます」
深々とあたまを下げる番頭に送られ、佐吉は店を出る。
そして、番頭が店に戻った頃合いをみはからい、『能登屋』の入り口が見張れる茶店に入った。
佐吉は草団子をかじりながら、ぼんやり通りを見ているふりをして、能登屋を見張る。
すると……。
小半刻もしないうちに、小僧が店から出てくるのが見えた。
先ほど小粒を与えたのとは、別の小僧だ。
大事そうに、風呂敷包みをかかえているところをみると、顧客のもとへ、使いにでも行くのだろう
佐吉は、さりげなく茶店を出ると、小僧のあとを尾けはじめた。
小僧は、とぼとぼと、芝口橋のほうに向かって歩いてゆく。
そして、守山町の『まるふじ』と紺地に白で書かれた暖簾を出した店に入っていった。
四半刻も待たずに小僧が店から出てくると、佐吉は、さりげなく後ろから小僧を追い抜きながら、ふと気付いた態で声をかけた。
「おや、おまえさんは、能登屋さんにいた小僧さんじゃあないのかい?」
「はい、さようでございます。先ほどは、お買い上げいただき、ありがとうございます」
まだ十四、五のわりには、大人びた受けこたえに、さも感心したように、
「おお、まだ若いのに、しっかりしていなさる。さすが一流の店はちがう」
と、持ち上げる。
褒められてまんざらでもないのか、小僧は小鼻をひくひくさせている。
「どうだい、ここでばったり会ったのもなにかの縁。あたしに、そこの饅頭でも奢らせておくれ」
佐吉が言ったとたんに、小僧の目に欲の光がさした。
小僧は、先ほど別の小僧が小粒をもらったところを目撃している。自分も……と、思うのが当然だった。
そのためには、なんでもしゃべるにちがいない。
そして小僧を饅頭屋に連れこむと、佐吉は聞きたいことを、すっかり聞きだしていた。
小僧には小粒を握らせ、帰りが遅れた言い訳がたつように、ほかの店の連中への土産まで持たせてやった。
もちろん、なにを聞かれたのかに対しては、しっかり口止めしたことは、言うまでもない。
こうして、昼前までに佐吉は、知りたいことをすべて調べあげていた。
その夜……。
佐吉は再び奉行所を訪れた。
鍖衛からの達しがあるので、門番も何も言わずに佐吉を通す。
「おお、佐吉、早かったな。もう探ってきたか」
「へい、とりあえず女の名前と在所はわかりました。
女の名は、おすが。能登屋の親戚筋で、船橋の
干鰯とは、カタクチイワシを干した高級肥料である。
「ほほう、船橋とな……てっきり池袋の女かと思ったわ」
「根岸さま、お戯れを……」
池袋の女とは、この当時に流布した噂話である。
当時、江戸の町には、池袋出身の女を下女として雇い、その女が誰かと情を通じると、女自身ではなく、雇った家に祟るという噂が広がっていた。
このことは、鍖衛の「耳袋」だけではなく、旗本出身の我が国初の時代小説家・
「は、はは、戯れ言じゃ。では佐吉、明日はその船橋の……」
「へい、松兼にいってまいります」
「うむ。たのむぞ」
翌朝早く……。
佐吉は日本橋小網町にきていた。
小網町三丁目の行徳河岸から、船で行徳に向かうためだ。
船橋に行くには、千住から
佐吉が、より早く到着する水路を取ったのは当然であろう。
行徳は、たいへん賑やかな町だ。
かつては塩田で栄え、
河岸に着くと、佐吉は、まだ朝飯も食べていなかったので、立ち並ぶ何軒もの茶店を通りすぎ、うどん屋の『笹屋』へ入る。
笹屋は、江戸にまで名前が知られた店なので、成田山へ向かう旅人たちで、朝から大賑わいだ。
うどんで腹をふくらませると、佐吉は、山徳寺の前を通り、船橋へと向かった。
船橋宿は、
江戸中期以降、成田山への参詣が、江戸っ子の間で隆盛をきわめたこともあり、行徳を凌ぐ繁栄ぶりだった。
そして、もうひとつの繁栄の理由が「八兵衛」と呼ばれた飯盛女の存在だろう。
つまり、女房には、成田山にお参りにいくなどと殊勝なことを言っておきながら、その実、女を買いにゆくのだ。
しかし、さすがに昼前なので、まだ飯盛を買うような雰囲気ではなく、船橋宿は、ただの賑やかな宿場町の顔を見せている。
なにかの講の仲間なのか、騒がしい江戸っ子の一行、荷車を押す人足、棒手振りの物売り、馬を曳いた百姓、真っ黒に日焼けした漁師、忙しそうな商人。さまざまな人びとが通りすぎる。
『松兼』は、船橋・海神宿の西向き地蔵からすぐの、船橋宿の中心に近い一等地にあった。
上総、安房の干鰯問屋は、かつて不漁で壊滅的な打撃を受けて衰退し、江戸の問屋に取ってかわられたが、近年また勢いを盛りかえしており、そのせいか、うだつも上がり、たいそう立派な建物だった。
この日佐吉は、行商人を装いながら、松兼のことを近所で聞きこむため、固い身なりをしていた。
身なりから相手を信用させるためだ。
ところが、周りの店を何軒まわっても、たいした話を聞くことができない。
聞きこみをはじめて、一刻あまりが無駄にすぎ、疲れた佐吉は、ちょうど目についた『佐倉屋』という煮売り屋で、
これが幸いした。
佐吉が、イナダの塩焼きに根深汁と沢庵の定食を食べていると……。
「おい、聞いたかよ。松兼の娘のはなし」
「なんだ、狐憑きになって帰ってきたとおもったら、ポックリ逝っちまったあれかい?」
「莫迦、そっちじゃねぇ、姉のほうだ」
という、会話が耳に飛びこんできた。
佐吉は、後ろから聞こえた、松兼という言葉に、一瞬、表情を引き締める。
そして、振り向きたいのを我慢し、素知らぬ顔で意識を耳に集中した。
「なんでも姉のほうも、狐が憑いたってんで、嫁ぎ先の木更津から出戻ってきたらしいぜ」
「ほんとうかい!」
「しっ、声がでけえ」
男たちは、声を落としたが、真後ろにいる佐吉には筒抜けである。
会話の内容からすると、どうやら男の片割れが、松兼に出入りの建具屋の兄で、情報は正確なようだ。
捜査をしていると、たまさかこうした幸運に出くわすことがある。
先ほどまでの空振りが嘘のようだった。
「なんでも江戸から偉い陰陽師を呼んで、お祓いをするそうだ」
「陰陽師? あの辻占みたいに、当たるも八卦ってやつだな」
「そんな安っぽいやつじゃあねえよ。呼んだのは、なんでも江戸でも指折りの陰陽師で、
「へっ、なんだいそりゃ……やけにふんだくるな。おいらなんざぁ、十両稼ぐのに、どんだけ苦労していると思ってやがる」
「へっ、おまえみたいな
「おきゃあがれ」
ふたりの話が、それからお互いの仕事の愚痴になりだしたので、佐吉は金をおいて店を出た。
西向き地蔵の周りには、屋台商まで出て、船橋宿は、相変わらず賑わいを見せている。
佐吉は、八つまで近所を回ったが、建具屋の雑談より耳寄りな話を聞けず、江戸に向かう人びとにまじり、行徳の町へと急いだ。
船が出る。波に揺られ、七つ発ちで、夕べからほとんど寝ていない佐吉は、こくりこくりと、こちらも舟を漕ぎだし、いつの間にかぐっすり寝入ってしまった。
佐吉が眼を覚ますと、すっかり陽は傾き、船はもう、大川にさしかかるところだった。
佐吉は、ぼんやりと船の乗客を見渡した。
多くは成田山へ参詣して、江戸に帰る旅人たちだが、佐吉の扮装と同じような
佐吉は、縞の着物を着たひとりの商人の姿に、
(はて、あの船縁の男、どこかで見たような……)
と、違和感を感じた。
佐吉は元は盗人である。こういったときの勘ばたらきの鋭さは、常人のおよぶところではない。
船が小網町に着き、船を降りる。しかし佐吉は、奉行所には向かわず、北神田のほうに歩きだした。
すると……。
商人が、佐吉の後を尾けはじめたではないか。
佐吉は、気づかぬふりで歩き続ける。
陽が暮れたばかりの町には、帰りを急ぐ仕事を終えた職人や、一杯飲みにいくひとたちが行き交っているが、武家屋敷が多く建ち並ぶあたりまで来ると、それも絶えた。
佐吉が酒井雅楽守の中屋敷の長い塀の続く道を、戸田大学邸の門の近くにさしかかる。
この辺りは、辻番の灯りも届かない。
佐吉は提灯に火を入れようと立ち止まった。
その瞬間……。
後ろから、いきなり鋭い殺気が佐吉に押し寄せた。
佐吉は、振り向くこともせず、いきなり左手に大きく飛んだ。
佐吉がいた空間を短刀が切り裂き、男が駆け抜ける。先ほどの商人だ。
かわされた男は、素早く向きを変える。向かいあった佐吉が、
「へっ、てめえ、さっき西向き地蔵の前にいた辻売りだな。どうして俺をつけ狙う」
それにはこたえず、男は二度、三度と短刀を突きこむが、佐吉は、右へ左へとかわす。
しかし、何も武器を持たない佐吉は、刃物を持った男になかなか近寄ることができない。
男も油断がならない佐吉を、攻めあぐねているようだ。
向かいあったまま、じりじりとした
――そのとき。
佐吉の後ろのほうから、酔客の話し声が聞こえてきた。
このあたりの武家屋敷に奉公する中間たちだ。
「ちっ」
男は鋭く舌打ちすると、いきなり佐吉に短刀を投げつけた。
間一髪で避けた佐吉が、態勢を立て直したときには、男は闇の中に走り去っていた。
佐吉は、着物の裾についた砂を払うと、長いため息を吐き、
「おもしろくなってきやがった」
と、つぶやいた。
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