第九話 一粒の麦

 二月の冷たい夜風が肌に触れる。

 汚泥の匂い、磯の香り、人の汗と体臭、工場や家の煙突から吐き出される石炭の匂い、全てが入れ混じって頭に響いた。

 至る所で人が倒れている。子供も、大人も、老人も。枯れ木のように干からびて、ごろごろ転がっている。

 ハエの煩わしい羽音、蛆虫が人の肉の上を這う音、我が物顔で夜の路地を歩く野良犬の唸り声が反響した。

 酒場や商館、ありとあらゆる店が並ぶ繁華街は、本来ならば多くの客で溢れているはずが、活気はなく、ほとんどが取り壊されている。店主が死んだのか、客が減ったせいなのか、理由はなんであれ、続けることが難しくなったことは確かだ。

 悲惨な街の現状は、書物や報告で知っていたものの、話聞くだけでは匂いや肌を撫でる風の冷たさは分からない。


「ここです」


 モーガンは立ち止まり、目の前に建つ古びた建物を指差した。


「ここで、僕たちは毎日、病人の治療にあたっています。でも、コレラは治し方も何も知らないので、何もできずにただ死ぬのを待っています」


 段差が僅かにずれた石階段を、一歩ずつ踏みしめて登る。

 呻き声が聞こえる。

 体の芯が凍るような恐怖に襲われた。手の震えは止まらない。息ができなかった。

 この病院の中に立ち入れば、院内の汚れた空気が吸ってしまうと、私は死んでしまうかもしれない。


「モーガン!」


 病院の玄関へ足を踏み入れようとした時、中から一人の女が現れた。修道女の服を着ていないため、教会の者でないことだけは確かだった。

 切迫した表情で、モーガンの腕を強引に引いた。状況を掴めずにいるモーガンは、混乱した面持ちで、


「な、なに? どうかしたの?」


 と問いかけた。病院の玄関口で一人取り残される訳にもいかなかった私は、静かに彼らの後を追う。


「シリウス先生がコレラに罹った」


 モーガンの動きが遅くなったのが、後ろからでも確認できた。

 廊下の奥には、木製の古びた扉が開かれていた。


「あんなに元気だったのに?」


 モーガンの吃った声が、病室から響く病人の呻き声や泣き声と重なり、壊れたピアノが奏でる不協和音のように轟く。


 廊下の先にあった病室は人で溢れていた。

 明らかに病人と分かる者から、修道服を着た老人や若者が立ち並び、部屋の中央に置かれたベッドを囲んでいる。顔には不安の色が浮かび、ロザリオを握って祈っている者までいた。

 彼ら、彼女らの不安や焦り、悲しみが一気に私の体に押し寄せ、今すぐに逃げ出したかった。


「手は尽くしましたが、もう無理でしょう」


 ベッドで寝かされている老人の枕元に立つ男が言い放つ。人々は息を呑んだ。


「蜂蜜は?」


 問いかける。首を横に振る。


「瀉血は?」


 問いかける。首を横に振る。


「水は?」

「新人、現実を受け入れろ。もう無理なんだ」


 男の言葉に、モーガンは項垂れた。私は咄嗟に目を逸らし、黄ばんだ薄い布の下から覗くシワだらけの痩せ細った老人の足を見た。誰も私の存在にまだ気付いていないことが唯一、安心できることだった。


 冷たく重い霧が、私の上にのしかかる。

 臆病な私を、弱い私を、苦しみ死んでいく人々を見て見ぬふりして逃げる私を責めるように。

 

 老人の口から、呻き声のような最期の息がこぼれる。吐き出されたそれは、私の顔に触れた。

 熱い息。

 体温を失う病に罹ったのだから熱い訳がなく、何より私は彼の足元に立っているのだから、私まで届くはずがない。

 だが私は確かに、それを感じた。熱いの息は私の顔を撫で、口に触れた。そして腹の内に宿り、小さな炎となった。

 訳も分からず、涙がほろりと零れ落ちる。

 私は誰にも気付かれぬよう、隠れて涙を拭いた。

 一体何が起きたのか、私は何一つ理解できなかった。だが確かに分かっていることは、この時、私の上に重く覆い被さっていたヴェールのような霧が、綺麗さっぱり消え去ったことである。

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