第七話 汚された川

 飛び散る汚泥。肌を突き刺す、凍てついた空気と煙。

 死体は枯れ木のように痩せ細り、墓場で埋葬されぬまま、ある者は路地裏で野良犬に食べられ、またある者は、エルコム帝国の西の山脈から東へと流れる最大の川・マリファスを、茶色く濁った水と共に流れていた。


「昔は、こんな地獄ではなかったんだがなあ。いつから、こうなってしまったのか……」


 シリウスは遠き日々を思い出し、病院の窓から見える朝日に輝くマリファスを眺めながら、ため息まじりに呟いた。


「人間なんて、そんなものですよ。すでに幸せなのに、今以上の幸せを望んで、そして自滅する」

「キラール神父、だがその理論でいくと、教会の本部がある西部地区に死者が少ない理由にはならんぞ。皮肉なことに、教会が一番、世俗的な人の集まりだからな」


 老医師シリウスの言葉に、神父は困ったような笑みを浮かべ、肩を竦めた。


「いや〜反論できない。事実ですし、かく言う私も、貴族の出なので両親が色々とコネを使って、来年か再来年には別の教会に移動させられるするでしょうね」


 医師たちの休憩室で一時の休息を過ごしていた二人の所へ、見回りを終えたモーガンが書類を抱えて訪れた。


「シリウス先生、お話したいことがあるのですが」

「なんだ? 儂は疲れとるから、手短に済ませてくれ」


 モーガンは抱えていた書類を机に乗せ、古びた椅子を老医師の近くへとひっぱり腰掛けた。


「医師団の方々に連絡を取っていて気付いたのですが、西部地区は死者が少ないんですよね?」


 モーガンが半年ほど前の、最初で最後の医師団の会議で失望していたことを覚えていた老医師は、モーガンが医師団に加わっている他の地区の医師たちと連絡のやりとりをしていたことに驚いたが、すぐに気を取り直して肯定を意味する頷きをした。


「きちんと死者の数を数えた訳ではないが、西部地区の墓地は他の地区に比べて───特にここ、東部地区に比べて明らかに余裕があるから、という推測からそう噂されているな。それがどうしたんだ?」


 老医師の回答に確信を得たのか、モーガンは決意を固めたような表情で、次は老医師の右隣に立つ神父に問いかけた。


「キラール神父、あなた、死者の記録を取ってましたよね?」


 突然、問いかけられたことに神父は驚きつつも答えた。


「え、ええ。私の管轄の東部地区だけですが。今も病院前の掲示板に載せています」

「その人たちが生前、どこで暮らしていたかも、当然記録してますよね?」

「もちろん。自室に戻れば、今までの死者の記録全てを書いた書類が管理されています」

「その記録を使って、地図に死者たちの家に、バツでもなんでもいいので印を書き込むことは可能ですか?」


 奇妙なことを言い始めるモーガンに、老医師も神父も、怪訝な顔をした。


「できますが……モーガン、あなた一体何を?」

「あることを検証しようと思っているんです」

「───あること?」


 はい、とモーガンは肯定し、抱えてきていた書類の中に含まれていた帝都の地図を取り出し、広げてみせた。


「実は、ずっと不思議に思っていました。東部地区は死者が多いのに対し、北部地区と南部地区、そして特に西部地区は少ない」


 帝都の太字の黒い線で分断された地区を指で差し、モーガンは説明を続ける。


「そこで思ったのですが、もしかしたら、コレラの原因が川から流れてきているのではないでしょうか?」

「コレラが、川から流れて?」


 モーガンは書類の山から、また一枚の地図を手に取った。そこには、帝都の下水道が描かれていた。

 帝都の西から東へと流れる川の水は、それぞれの地区に水が行くように、下水道が築造されている。


「僕たちの生活用水は、川からの水で賄われています。西部地区は川の上流、北部と南部は中流、そして東部は川の下流から水を引いていることが、この地図で分かりますね?」

「お前は、コレラが川上から流れてきている、とでも言いたいのか?」


 膝の上で広げた地図を見つめたまま、モーガンは静かに頷いた。


「匂い、ではなく?」

「瘴気の可能性もあります。でも、まだ分かりません。今はまず、地図を作り上げて、それを基に様々な仮説を立てていく必要があります」


 モーガンの話を聞いた二人の目には、混乱の色が微かに伺えた。

 ペストが大流行した中世の頃に比べて、この十九世紀は科学は発展してはいたが、生物学に関しては真偽が不確かな宗教や主観をベースにした知識が信じられていた。

 数学や化学、物理学に比べ、数値による実証を行うことが非常に難しかったためであると、モーガンは後に語る。

 そのため、今までに彼らが思い付きもしなかった、自分たちの生活用水にコレラが潜んでいるかもしれないという事実に驚愕したのである。


「た、大変だ! 大変だ、叔父さん!」


 慌ただしく、東部地区の新聞社に勤めているという老医師の親類が駆け込んできた。

 走ってきたせいで、息が荒い。老医師は、先ほどまでの困惑した様子を消し、男を叱責した。


「なんだなんだ、落ち着かんか! 落ち着いてから話をせい!」


 何度か深呼吸をしてから、記者の男が口を大きく開いた。


「陛下が医師団を解散するって!」


 その手に握られた号外には、確かに彼が伝えた通りの言葉が連なっていた。

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