第9話 十一月二日(木)・PM

 目を開けると窓の外に海が広がっていた。雲の隙間から零れた陽射しが、波を金色に光らせている。リューシカは眠っている花の肩をそっとゆすった。見て、海が見えるよ、と。寝惚け眼を擦っていた花もその情景を見て目が覚めたようだ。綺麗。一言そう呟いた。

「もうすぐ最後の乗り換えになるわ。だからこのまま起きていてね」

 リューシカが耳元で囁く。それから二人はずっと、窓の外の海を見続けていた。

 田舎の乗り換えの駅に着くと、そこは初冬の匂いがした。リューシカと花は単線のホームでベンチに座りながら、電車を待っている。次の電車までにはまだ三十分近くの余裕があった。

「今のうちにお弁当を食べましょうか。せっかく花が作ってくれたのだから、ね?」

 どこか遠くで鳶の声がする。首を巡らせる。遥か上空で一羽、滑翔しているのが見えた。リューシカはいつまでも空を見上げている花に苦笑しつつ、バッグからお弁当箱を二つ取り出して、ベンチの上に置いた。俵型のおむすび、玉子焼き、鶏肉の照り焼き、アスパラガスのベーコン巻き、プチトマト、ミックスベジタブルを使用したポテトサラダ……。全て花が作ってくれたものだ。花も自分の鞄から水筒を取り出して、焙じ茶を入れてきました、と言った。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 水筒の蓋をコップ代わりにして、熱い焙じ茶を手渡してくれた花に。リューシカは礼を言う。

 おむすびを一口、頬張る。……あれ?

 リューシカは眉根を寄せる。玉子焼きを一つ口に入れる。……やっぱり。

「どうかしましたか?」

 リューシカの表情を見て、花が心配そうに問いかける。

「いや、いつもより塩辛い気がして」

「そうですか? おかしいな。ちゃんと味見はしたんですよ?」

 花も慌てて玉子焼きを口にする。ゆっくりと咀嚼して、飲み込む。

「いつもと変わらないと思うんですけど。……それともあれですかね。リューシカさん、煙草の吸い過ぎで舌が馬鹿になってしまった、とか」

「ひどい言われようね。でも……そうなのかな」

 何かが引っかかる。何か重要なことを忘れているような気がする。けれどもそれが何なのか、リューシカにはわからない。花が冗談ですよ、そんな顔をしないでください、と笑っている。

 本当に冗談……なのだろうか。

 リューシカが生まれたのは、海沿いの小さな町だった。観光の目玉も主幹となるべき産業もなかった。しかし発電所が出来てからは町の経済も潤っていたらしく、あちこちに大きな公共施設が建った。それらを称して町の誇りだと町長は言った。けれどもそれら全てはあの大きな地震で損なわれてしまった。避難区域が一部解除になっても、街に戻ってくる人は少なかった。

 駅のホームから自分の故郷を見下ろして、リューシカは呆然としていた。記憶の中の風景とあまりにも違っていたからだ。視線を巡らせると更地のままの土地が多い。人が住んでいる気配も、ほとんどない。ただ、真新しいだけの、空っぽの町が眼下に広がっていた。

「……リューシカさん?」

 見ると心配そうに花がリューシカを見上げている。

「なんでもないわ。行きましょうか」

 西日が海と空を優しい色に染めている。海と空との境目が、よくわからない。

 途中の電車では気づかなかった。震災の映像を見てもどこか他人事のように思っていた。ううん、違う。そう思い込もうとしていた。もう二度と来ることはないと思っていたから。

 でも違った。ここはやはりリューシカの故郷だ。それを認めてしまうのが怖かった。だから。

 ……リューシカはあの地震以来、新聞を読むこともテレビを見ることもやめてしまったのだ。

 改札を出て、ぼんやりとした表情で、リューシカは歩いていく。花も慌ててついて行く。

「リューシカさん」

 リューシカの顔は青ざめている。足取りはまるで死者のそれのようだ。リューシカはロータリーに一台だけ止まっていたタクシーの運転手に、この辺りに泊まれる場所はないでしょうか、と訊ねた。平日の、しかも若い女二人の客に、初老の男は戸惑いを覚えている様子だった。

「幾つか営業を再開した宿は、あるっちゃあるんですが……」

「どこでもいいです。お願いします」

 リューシカがそう答えると、運転手はおもむろに電話をかけ始めた。どうやら宿の空きを確認してくれているらしい。何件か電話をかけて、

「一つ泊まれるとこがあったよ。釣り客相手のとこだけど、そこでええかい」

 と訊ねた。だいたいこのくらいの値段だそうだよ、と。相場がわからないが、そんなことはどうでもよかった。どんな宿なのか訊きもしなかった。リューシカはお願いしますと答えた。

 そんなやり取りをしているリューシカを、花が不安そうに見つめている。

 車が走り出す。時々無線の音が流れてくる。窓の外の町並みは、まるで歯の欠けた櫛のようだ。見覚えがあるようでもあり、全く知らない場所のようにも思える。リューシカは泣きそうになる。どうして泣きそうになるのか、自分でもよくわからない。

 最後にこの町を訪れたとき、……リューシカはまだ十三歳だった。

「今日は観光ですか? この辺りにゃまだほとんど何もないですけど」

「観光というか、帰郷なんです。……ね?」

 無言のままのリューシカの代わりに花が答える。リューシカは窓の外をじっと見ている。

「そうですか。ここらも津波でやられて随分変わっちまいましたね。今年の三月まで自主避難区域だったから、手付かずのとこも多いですわ。まあ、これからでしょうね」

 花もその言葉につられて窓の外を見る。リューシカが見ている風景を一緒に見ている。

「今じゃ幾つか船宿も再開しましたけど。あの当時は誰も魚なんて、ね。まあ確かに発電所の事故のこともありましたけどね、それだけじゃなくて。……そりゃあひどい状態の遺体が浜に幾つも上がってさ。ああ魚が喰ったのかと思うと、どうしてもね」

 リューシカがぎりっと奥歯を噛む音がした。花はその隣で顔を俯かせている。海岸線の道をタクシーはゆっくりと進んでいく。高く澄んだ空と、銀色に輝く海が、とても綺麗だ。

 車が細い坂道の前で止まるとリューシカは無言のまま料金を支払った。タクシーを降りる。海の匂いが濃くなった気がする。それは懐かしい匂いであり、疎ましい匂いであった。

「……ごめんなさい」

 何に対してなのだろう。リューシカが小さな声で謝る。

「リューシカさんのせいじゃないです」

 花はそう言って、鞄を持っていない方の手で、リューシカの手をきゅっと握りしめた。胸が苦しいくらいの遣る瀬ない空気が、二人の上に重く伸し掛かっている。

 旅館は坂の上に立っていた。新築ではない。ただ補修がしてある様子もない。どうやら先の地震でも損壊や倒壊を免れたらしい。先に坂を登っていくリューシカの背に、花が声をかけた。

「リューシカさん、訊いてもいいですか」

「……なに」

「前に、聖書の授業でわからないところを、教えてくれましたよね。教会には通っていないみたいですけど……リューシカさんはカトリックの信者さん、なんですよね」

「ええ、そうね」

「リューシカさんはまだ、神様を信じていますか」

「……どうかな。よくわからない」

 つなぎ合わせた手が、しっとりと汗で濡れている。微かに震えている。

「ねえ、もしも本当に神様がいるのなら。どうして神様はこの世界で起きているひどいことをお見過ごしになるの? どうして……助けてくれないんですか?」

 花の言葉。それはきっと自分自身のことなのだ。リューシカは振り返り、坂の上から海を見下ろした。穏やかな波の寄せる海が見える。魂さえ飲み込んで帰さない、海が見える。

「フランスの南西部、スペインとの国境付近にはピレネー山脈という山々が連なっているのだけれど、その麓にはルルドという小さな町があるの」

 リューシカは海を見つめながら呟いた。波打つ灰色の髪が、さらさらとゆれた。

「その町外れのマサビエルの洞窟で、一八五八年二月十一日、当時まだ十四歳だったベルナデットの前に、……聖母が現れた」

「聖母って……マリア様のことですよね」

「ルルドの泉の話。もう聖書の時間に習ったかしら?」

 そうリューシカが問いかけると、花は少し考えてから、覚えがないです、と答えた。花は御心女学館に通っているが、別にカトリックでも、クリスチャンでもない。聖書の授業は道徳のそれに等しい。だから一年の授業で習うはずの聖母出現の奇蹟譚も——授業を受けたのかまだ受けていないのかは知らないが——あまり興味がなかったのだろうとリューシカは思う。

「まあ、いいわ。でもそこに姿を現した聖母は、ベルナデットにしか見えなかった。誰もが彼女の言動を疑ったわ。当たり前よね。けれど本当に奇蹟が起こっているのなら、自分も見てみたいと思う人は大勢いた。彼女が聖母と対話をする周りには、いつしか多くの観衆が集まったの。そして三度目の御出現のとき、聖母はベルナデットに洞窟の中に湧き出た泥水を飲むように指示し、そこに生えている草を食べなさい、と言った」

「……それで?」

「彼女は吐きそうになりながらも泥水を啜り、雑草を食べたのよ。それを見ていた観衆は、あいつは気が狂ったと言って嘲笑し、失望したわ」

 花が悲しそうな顔でリューシカを見上げていた。この話になんの救いがあるのだろう、とその目が訴えていた。リューシカは静かに微笑んで、花の髪を優しく撫でた。

「けれどこの泥水は滾々と湧き出して、いつしか澄んだ泉になった。それが病を治す奇蹟の泉、ルルドの泉と呼ばれるようになったの」

 花がリューシカを見つめている。じっと見上げている。その目に映っているのはリューシカの寂しそうな微笑みと、どこまでも青い初冬の空だった。

「以来大勢の人がこの場所を訪れるようになり、ルルドは聖地となったわ。大きな聖堂が建てられ、泉の前には蝋燭の灯が絶えることなく今も輝いている。何千人という医者に見放された患者がここで癒されたわ。それこそ脇腹が腐って腸がはみ出ているような患者さえ癒された。奇蹟と認定されたものも五十をくだらない。もっとも、ルルドがここまで大きな巡礼地になるまでには色々と紆余曲折があったのだけれどね」

 ルルドの泉には年間五百万人もの旅行者、巡礼者が今も訪れる。病を得ている者、その家族、健康な人、ただの物見遊山の人。キリスト教徒、仏教徒、無神論者に至るまで。

「ここで起こる奇蹟は神様の救いの先取り。神様が決して人間をお見捨てにはなっていないことの証明だとも言われているわ。……でもね」

 リューシカは一旦そこで口を噤み、花の頬に手を当てた。肌は思いの外、冷たかった。

「ルルドで聖母に出会ったベルナデットはのちに修道女になるのだけれど、指導係の修道女からは冷たくされ、自身も持病の喘息や結核で苦しむの。そして病に苦しみ抜いたまま三十五歳という若さでこの世を去るわ。大勢の人々を癒したルルドの泉はその最大の功労者であるベルナデットを救うことはなかったのね。今現在起きている奇蹟にしてもそう。ルルドの泉を訪れる全ての人が癒されるわけじゃない。癒される人と癒されない人がいる。救われる人と救われない人がいる。神の奇蹟がもしも平等なら。どうしてこのようなことが起こるのでしょうね」

 リューシカはそう言って微笑んだ、シスター茅野の顔を今でもよく覚えている。……同じ台詞を吐いた、義姉のことも。

「それに癒されたとしても永遠に生きられるわけじゃないわ。聖書の中の主の奇蹟を見てもわかるでしょう。主は重い皮膚病を癒し、目の見えない人を助け、人の体から悪霊を追い払う。名もなき少女やラザロのように死から甦らせることさえ行う。けれども皆、最後には死んでしまったでしょう。聖書のどこにも彼らが永遠に生きたとは書いていないもの」

 冷たい風が吹く。西日が花とリューシカを、淡いオレンジ色の光で染めている。

「なら、今存在している奇蹟とは、救いとは、一体なんなのかしら」

 花はしばらく考えている。リューシカの視線を追って海を見つめる。

 ルルドの泉の話が本当なら、そこに集うのは医者に見放され、最後の望みを託しにきた人たちだ。きっと藁にも縋る思いでやってきたのに違いない。では、どうして皆が癒されないのだろうか。救われる人と救われない人がいるのは何故なのだろうか。花はリューシカを振り返る。

「ねえ、リューシカさん。ベルナデットという人は、自分の病を癒してもらうように願ったりはしなかったんでしょうか」

「しなかったと言われているわ。彼女が恐れたのは、死後煉獄で焼かれること。彼女が願ったのは、楽になることよりも苦しみに耐え忍ぶ力だった」

 ……奇蹟って一体なんなのだろう。もう一度坂の上から町を見下ろす。震災で死んだ人と生き残った人は何が違っていたのだろう。津波に流されて倒壊した建物があり、この旅館のようなほぼ無傷なものもある。その差はなんだろう。それはどうやって分けられたのだろうか。ある人は死に、ある人は生き延びた。けれども生き延びた人も、百年経てば皆死んでいるはず。泉の水で奇蹟的に治癒した人にしてもそうだ。誰の上にも平等に、避けられない死が訪れる。

 この世界に神様は本当にいるのだろうか。花は再び考える。学校に行けば朝拝があり、毎日のように聖歌も歌う。主を讃え、神様を賛美する歌を。その祈りは二千年繰り返されてきた。それでもまだ、足りないのだろうか。映画の予告編のような救済にどのような意味があるのだろう。わたしたちの主が万人を永遠に救ってくれる日は、果たして本当に訪れるのだろうか。

 花はリューシカの暗い、灰色の目を見つめる。左耳のピアスがちらちらと光っている。

「リューシカさんはどう思いますか? ルルドの泉の奇跡の意味を。……この世界に神様の救いはあると、本当に思っていますか」

「それがわからないから」

 リューシカは唇を噛み締めながら言った。

「わたしは教会に行けないの」


 旅館のフロントで記帳を済ませ、花とリューシカは部屋に入る。記帳の名前は月庭流柿花、月庭花の連名にした。花はそれを見て嬉しそうな笑みを浮かべていて、それに気づいたリューシカも、少しだけ気恥ずかしそうな表情を浮かべた。……月庭の苗字は嫌いだったはずなのに。

 二人が通された部屋は和室で、普段はあまり嗅ぐことのない畳の青い匂いがした。床の間の掛け軸には達磨の絵が描かれていた。行儀悪く寝転んだリューシカの横に、花も体を横たえる。

「煙草、吸ってもいい?」

「いつもそんなこと訊かないじゃないですか」

 変なリューシカさん。そう言って花はくすくすと笑っている。リューシカはポケットから取り出した煙草に火をつけ、大きく吸い込む。肺から溢れた煙はまるで魂のようだ。ゆっくりと天井に昇っていく。けれど部屋の中に囚われてどこにも辿り着けない。ただ消えていくだけ。

「ねえ、地獄ってあると思う?」

 リューシカは隣で寝転んでいる花に、小さな声で訊ねる。

「地獄は脳の中にあるそうですよ。大脳皮質の襞の中に」

 自分の頭を指差して、以前読んだ小説にそう書いてありました、と花は言った。

「なら、天国は?」

「それを望む人の心の中に、あるんじゃないでしょうか」

 心。リューシカは胸の中でひっそりと思う。心だって脳の産物なのに。でも、それならば。

 天国と地獄は同じ場所にあるのだろうか。

「花はそれを……天国を望む?」

 花はごそごそと起き上がると、覆いかぶさるようにリューシカの顔を覗き込んできた。花の黒いやわらかな髪がゆれている。蛍光灯の光を受けて、黒い天使のように。きらきらと。

「わたしは望みません。信じていませんから。天国も、……地獄も」

 そう呟いて、花は自分の唇をリューシカの唇に重ね、小鳥のようなキスをした。

「リューシカさん。煙草の匂いがしますね」

「……くさい?」

「ううん。わたしの一番好きな匂いです」

 もう一度。冷たい唇を割って舌を差し出すと、花が嬉しそうに自分の舌を絡めてくる。花の唾液が口の中いっぱいに広がる。甘く蕩けるような体液に、リューシカは溺れそうになる。

 けれども花の手がリューシカの胸に触れたところで、駄目、と拒む。顔を背ける。

「……どうしてですか」

「煙草の灰が……」

 リューシカは起き上がり、卓上に置かれた灰皿に煙草を押し付ける。その仕草はひどくわざとらしい。煙が目に沁みる。断末魔のような煙が胸の中でたゆたっている。

「わたし、リューシカさんと旅行に来られて、すごく嬉しいです。でも、不安なんです。何を考えているのか、よく……わからない」

 リューシカの背中に縋り付き小さく震えている花が、愛おしいと思う。申し訳なく思う。

「この町がリューシカさんの生まれ故郷なのはわかりました。けれど、わたしに何を見せたいんですか? わたしはどうしたらいいんですか?」

 正直……苦しいです。そう呟いた花の声音は、とても悲しい色をしている。リューシカは振り向いて花を抱きしめ、ごめんなさい、少し出かけましょうか、と呟いた。


 ——呼んだ覚えもないタクシーが、坂の下に停まっている。けれどもリューシカはその不自然さには少しも気づいていないようだった。花は不安げな表情のままリューシカの後ろをついていった。日が暮れかけている。夕日が海を赤く染めている。二人でタクシーの後部座席に乗り込む。夜になると冷えるから、と言われて着てきたコートも、車内では暑いくらいだ。

「花。暑かったら脱いでしまっていいよ。汗をかくとよけいに冷えるわ」

 リューシカが住所を告げると、運転手は怪訝な顔をした。たぶん無理じゃないかな、と。

「ゲートは四時で閉まっているはずですし。一時帰宅の証明証も……持ってないですよね」

「近くまででいいです。お願いします」

「そう言われれば行きますけど。……警察沙汰だけは勘弁してくださいよ」

 ずいぶん不穏当だな、と思いつつ、花は黙っている。リューシカは一体どこに向かおうとしているのだろう。寂しげな通りが続いている。車の量も多くない。商店街はシャッターを開けている店舗の方が少ないくらいだ。リューシカは来たときと同じように窓の外を見ている。

 街中に入っていく。けれども辺りは次第に寂れていく。迫る夕暮れがそれに拍車をかける。人が誰もいない。ここは一体どこなのだろう。花は心細げにポーチの紐を握りしめる。

「……これ以上は無理ですね」

 運転手が車を止め、後ろを振り返ってリューシカに告げる。花はフロントガラスの向こう側を見る。道の真ん中に車止めが施されていて、防犯カメラとフェンスが設けられている。その向こう側は立ち入りが禁止になっているらしい。リューシカがありがとうございます、と言って、料金を支払っていた。タクシーから降りると冷たい風が二人のあいだを吹き抜けていった。

 タクシーが去ってしまうと、途端に心細くなる。見るとリューシカが車止めを乗り越えようとしている。花は慌てる。看板には『この先帰宅困難区域につき進入禁止』と書かれている。

「ちょ、な、何をしているんですかっ」

「おいで。花」

「おいでじゃないですよ。危ないですから戻って……リューシカさんっ」

「大丈夫よ。手を貸してあげるから。ほら?」

 向こう側に立ったリューシカが、微笑みながら手招きしている。花はリューシカを見て、それから防犯カメラを見て、もう一度リューシカを見た。そして意を決したように車止めに足をかけた。スカートなんて履いてくるんじゃなかった。緊張のせいかうまく力が入らない。それでもなんとか向こう側に降り立つ。アスファルトの隙間から、枯れかけた雑草が生えている。

 リューシカが花に手を差し伸べて〝……行きましょう、わたしたちだけの世界へ〟と言った。


 人のいない街を小一時間ばかり歩いた。道の端に打ち捨てられた錆びの浮いた看板には、『原子力は、明るい未来のエネルギー』と書かれている。花はそれを横目に見て、ちらりと傍らのリューシカを見上げた。リューシカは看板には目もくれなかった。まっすぐ前を向いて歩いていく。道の端に放射線量を測る機械が置かれている。信号が黄色のままずっと点滅を続けている。花は冷や汗をかきながら思う。ここは、本当に、人が立ち入っていい場所なのだろうか。

 目的地にたどり着いたときにはすっかり夜になっていた。日が沈み、空に星が瞬いていた。

 リューシカが黒いシルエットのその建物を静かに凝視している。街灯も何もない夜に、屋根の上の十字架がひときわ大きく見えた。花は震える手でリューシカの袖を掴みながら。リューシカの見ている建物を、一緒に見上げていた。

「ここって……」

「ええ。わたしが子供の頃に通っていた教会よ。最後に訪れたのはわたしが十三歳の冬だから……十五年ぶりになるかしら」

 ここに来るのが目的だったの。そう呟いたリューシカの顔は夜の闇に黒く塗り潰されている。花は混乱する。リューシカは教会に行けないと、確かにそう言っていたはずなのに。

 辺りを見回す。エントランスの植木は伸び放題になっていて、その中に隠れるように両手を広げたイエス・キリストの像が立っている。変色した芝生が雑草に覆われ、無残な姿を晒している。でも、なぜだろう。誰もいないのに。確かに人の気配がする。それも、大勢の気配が。花は額の汗を拭った。寒くもないのに気持ちの悪い汗が止まらない。

 リューシカが教会に向かって歩いていく。リューシカの袖を掴んでいた花も引き摺られるように教会の入り口に向かう。開いていないことを願ったのに、入り口の扉はあっさりと開いてしまった。聖堂は闇に包まれている。リューシカの小さなライターの光だけが二人の周囲をほんのわずかに照らしている。花はポーチの中に手を入れて、……スマホを旅館に忘れてきたことに気づく。でも、スマホのライト機能とライターと、どちらが明るいのかよくわからない。

 リューシカはそんな花の不安な気持ちを知っているのか。壁に取り付けられている蝋燭に一つずつ火を灯していく。聖堂のどこに何があるのか、リューシカにはわかっているのだ。

「ちょっと、リューシカさんっ。そんなことしたら、人が来ちゃいますよっ」

 潜めた声で、花が小さく叫ぶ。

「人? ここに? 誰が? ……誰も来たりしないわよ」

 十二本の蝋燭に火を灯し終わると、聖堂の中は淡い光で満たされる。埃っぽいのは変わらないがどことなく清浄な空気に満たされている。ステンドグラスの向こう側で影がゆらいでいる。それが風にそよぐ雑木なのか、それとも別の何かなのか。深く考えると恐ろしかった。

「いいんですか、勝手にこんなことをして」

 リューシカが振り返り、花に向かって微笑んでいる。言い知れない不安が怒りに変わる。

「ねえ、本当にどうしっちゃったんですか。どうしてわたしをこんなところにまで連れてきたんですか? 昨日の夜、リューシカさんの故郷で全部話してくれるって、そう言ってくれましたよね? 一体ここでどんな話をしようっていうんですか?」

 リューシカの後ろには聖壇があり、その向こう側に大きな磔刑の十字架が、壁に掛かっている。リューシカは何も答えない。ただ静かに笑みをその唇に湛えているだけ。

「……答えてくださいっ」

「わたしは告解をしに来たの」

「告解って、懺悔をしに来た……ということですか?」

「懺悔って元々は聖公会の用語らしいわね。カトリックでは、今はゆるしの秘蹟というの」

 そう言ってリューシカはくつくつと喉を鳴らした。

「わたしはね、母親が交通事故で亡くなるまで、この街にいたの。母子家庭で父親がいなかったから、わたしは施設に入れられそうになった。母の遠縁の月庭の家に引き取られたのはだから幸運だったのだと思う。……そうかな。本当に幸運だったのかしら。よくわからないわ」

 リューシカの言葉は高い天井に反響して、いろいろな方向から聞こえてくるように思えた。花はじっとリューシカを見つめていた。リューシカの顔には、もう、表情と呼べるものは一つも浮かんでいなかった。作り物のような。……ううん、違う。まるで偽物のような顔だった。

「わたしね、十三歳のとき、子供を堕ろしたの。何度も強姦されて、妊娠しちゃった」

「……え」

 花は自分の耳を疑う。言葉を失ってしまう。自分の口を両手で抑える。義理の父親の……あいつの死に顔が瞼の裏に浮かんで、思わず目を瞑ってしまう。奥歯がかちかちと鳴った。

「……そんな冗談、やめて」

「義理の姉の一花はね、初等部の頃から御心女学館に通っていたわ。わたしは姉と一緒の学校になるのがどうしても嫌で、地元の公立中学に転入させてもらったの。けれどもわたしはそこに馴染むことができなくて、……担任の教師だけが味方をしてくれた。親身になってくれたの。けれど、二人きりになったある日、車の中で、わたしは無理やり犯されたの。その後も何度も、何度もされて、気づいたら生理がこなくなっていた。誰にも言えなかった。月庭の……今の両親にも、もちろん義理の姉にも、そんなこと、言えるわけがなかった。学校には友達なんて一人もいなかった。転校してきたことと、この髪のせいで……いじめられていたから。でもそれもその教師がわたしを孤立させるために仕組んだことだとあとで知ったわ。もちろんそのときはそんなこと知らない。絶望と孤独で気が狂いそうだった。だからわたしは、月庭の家に引き取られるまで住んでいた街の、この教会の神父様に会いに来たの。神父様はいつも優しかった。母親の葬儀をしてくれた。月庭の家に引き取られるときも、ずっと見守っているよって、そう言ってくれたもの。だから神父様ならわたしを救ってくれると思ったの。信じていたの」

 気がつくとすぐ後ろにリューシカが立っている。背後から花を抱きしめて、リューシカは囁くように昔語りを続ける。リューシカの白い吐息が、花の耳元をゆっくりと撫でていく。

「雪が降っていたわ。お庭のマリア様の像も白く覆われていたわ。神父様は告解室でわたしの話を聞いてくれた。そして心からわたしに同情してくれた。けれどね、神父様はおっしゃったの。子供を殺してはいけない。宿った命には何の罪もないのだから、大切に守りなさいって。わたしは絶望したわ。わたしはまだ中学一年生だったのよ? 誰かの庇護の下でしか生きられない人間が、どうして子供を産み育てることができるっていうの? わたしは月庭の両親に正直に言えばよかったのかしら。中学校の教師に犯されて妊娠しましたって。……できるわけないじゃない。それができないから、神父様を頼ってここまで来たのに。カトリックが堕胎を許さない宗教だってそのときはまだ知らなかった。わたしは失望した。失望して、この街を去ったの。以来教会には行かなくなったわ。神様はわたしを救ってくれないって、わかったから。月庭の家に戻ったあと、わたしは一人で処理しようとした。とある本にね、鬼灯の毒が堕胎に効くのだと書いてあって。幾つも幾つも食べて、気持ち悪くなってトイレで吐いていたら。机の上の鬼灯の実を、義姉に見つけられてしまったわ」

 リューシカは静かな目で誰もいない告解室を見つめている。ステンドグラスがカタカタと鳴っている。そんなに風が強く吹いていただろうか。花は不思議に思う。窓の外に奇妙な影が踊っている。教会を取り巻く木立にしては、どうして影が……人の形をしているのだろう。

「一花はわたしに呪いの言葉を吐いた。そう、あれは確かに呪いだった。義姉は両親に告げ口したりはしなかったけど、そうね、きっとわたしにさほど興味がなかっただけなのよ。その後もわたしは自分のお腹に秘密を抱えたまま、教師に抱かれ続けた。写真やビデオに撮られていたからわたしはその教師から逃げられなかった。あいつはことが終わったあとで、必ず愛しているよって、耳元で囁くの。愛。愛? そんなものは嘘っぱちだわ。そんなものが愛であるはずがないわ。わたしはそいつに言ったの。もしもわたしが妊娠していたら、どうしますかって」

 リューシカが花の右耳を噛む。鋭い痛みに花は顔を顰める。リューシカの腕の力はとても強くて、逃げ出すことができない。ううん、違う。花の逃げる気力を奪っていく。蜘蛛がその糸で、彼岸花の上を舞う嫋やかな揚羽蝶を絡め取るように。そんな情景が花の脳裏に浮かぶ。

「そのときのあいつの顔。今でも忘れないわ。あいつが何か言いながら煙草に火をつけたとき、わたしは近くに置いてあった陶器の灰皿で、思いっきりそいつの頭を殴ったの。花は刃物だったわね。わたしは鈍器だった。頭蓋骨陥没骨折と脳挫傷。長いあいだ意識を取り戻すこともなく、あいつは死んだわ。わたしは情状酌量の余地ありとされて罪には問われなかった。わたしの写真やビデオが残っていることも、わたしが妊娠していたことも、全部証拠になったから」

 右の首筋を、耳朶から流れ出した血が——それともリューシカの唾液だろうか——垂れていくのがわかった。花は混乱していた。何も考えられなかった。何も、考えたくなかった。

「事件が発覚して、わたしは子供を堕ろしたの。月庭の両親にはもっと早く相談してくれたらって、泣かれてしまったわ。義姉は何も言わなかったな。あの人はわたしを呪うだけ呪って、最後まで無関心だったのね。でも、それはそれで構わなかった。腫れ物を触るようにされるのも案外苦痛なのよ。わたしは公立の学校から、結局姉と同じ御心女学館に移ることになった。無垢なあの地獄に。あの子。……あの子供。生まれていれば花と同い年になるのね。でも、わたしは殺してしまったのね。忘れようとした。ずっと忘れようとしたわ。けれど義姉の呪いはいつまでもわたしを縛って、自由にさせてはくれなかった。わたしは生理が来る度に殺してしまった子供のことを思い出したわ。自分が死に追いやったあの教師のことを思い出したわ。そしてわたしは生理の度に、血を見る度に、自分が生きている人間なのだと、どうしても思えなくなってしまったの。性犯罪は魂の殺人だと言われているけれど、わたしは死んでしまった魂を抱えて、人を殺して、それでも生きている。でもそれって何? わたしが生きていていいわけがないじゃない。今も生き続けているわたしは……本当は死者なの。歩き回る死者なのよ」

 花はリューシカが哀れに思う。けれど。

 本当の告白は、まだ、始まってもいなかった。


 いつの間にか隣の席に、滅多刺しにされた義理の父親が座っている。反対側の席には首に青黒い縄跡をつけた母親が、手を合わせて祈っている。花は目を見張る。恐怖で声も出ない。気づくと聖堂を死者が埋め尽くしている。皆席についてこうべを垂れ、静かに目を閉じている。神様に祈りを捧げている。誰も花とリューシカには関心を示していない。死者の姿はまちまちだ。何か重いものに押し潰されたのか、全身の骨がひしゃげている人。顔の半分を無くした人。魚に食べられて、ほとんど骨だけになった人。焼け焦げて皮膚をだらりと垂らした人……。花は震えながら思う。自分は今、何を見ているのだろう。いったい何が見えているのだろう。

「わたしは死者でいい。歩き回る死者でいい。もう、誰も助けてくれなくていい。そう思っていたわ。けれどね、そんなある日。雨が降る外人墓地で……わたしは一人の少女に出会ったの」

 リューシカが目の前に立っている。花の頬をぽろぽろと、勝手に、自然と涙が落ちていく。

 死者たちが歌っている。静かな声が聖堂を満たしていく。『聖母は悲しみに沈みぬ《スターバト・マーテル》』の混声合唱が滔々と流れていく。オルガンを弾いているのは、首に鉄の杭が刺さった少女の亡骸だ。

「わたしが出会ったその女の子はね、ひとりぼっちのわたしに声をかけてくれた。すげなくしても、わたしを好きだと言ってくれた。嬉しかった。とても嬉しかった。その子はわたしによく似ていたわ。わたしと同じ魂を持っていて、そしてわたしと同じように、魂を殺されてしまった女の子だった。わたしは彼女を好きになった。とても、とても大切な人になった」

「……リューシカさん」

「だから。わたしは彼女が欲しくなった。わたしはその子の全てが欲しくなった。……わたしはそんなことを望んでいい人間じゃなかったのに。どうしても欲しくなってしまったの。わたしの欲望が彼女を傷つけた。わたしの欲望が……その子の母親を殺してしまった」

「りゅ……し、か?」


「わたしが、あなたの母親を殺したの」


 リューシカは話し続ける。あの日の夜、花のスマホの暗証番号を解除し、花の母親と話したこと。その際に花が乱暴されたとばらしたこと。それがきっかけであの事件が起こったこと。その後も度々花のスマホを覗き見ていること……。リューシカの犯した罪を、花は茫然とした表情で聞いている。ううん、蕭然とした表情で聞いている。違う、もはや耳には届いていない。

 死者たちの合唱に聖堂が満たされている。蝋燭の炎がゆれる。嫌だ。この歌は、いやだ。自分を何処かに連れて行こうとする。花は震える手で、ぎゅっと自分の胸元を握りしめる。

「暗証番号って、どうして……」

 嘘だ。リューシカの言っていることは全部嘘だ。……嘘だと言って欲しかった。

「わたしの誕生日に設定してくれていたのよね。ありがとう。とても嬉しかったわ。ごめんね。でも許してほしいなんて言わないわ。憎んでくれて構わないわ。わたしはわたしに似た、死んだ魂を持ったあなたにわたしを殺して欲しかったの。動き回る死者であるわたしを、罪深いわたしを、殺して欲しかったの。わたしがあの子を殺したように。わたしを殺してほしいの。……ずっと、ずっとそれだけを待っていたんだもの」

 だから。

「お願い、わたしを殺して。……ね?」


「——人殺しっ、許さない、絶対にゆるさないからっ」

「きゃっ」

 リューシカは急に花が大声をあげたので、びっくりして自分の口に手を当てた。心臓が凍りついたように全身に、粟が立つのを感じた。壁の時計は日付を跨ぐ、その少し前を指している。

「な、何? どうしたの? いきなり大きな声をあげたらびっくりするわ」

「……え」

 焦点の合わない目で花がリューシカを見つめている。リューシカは早くなった鼓動を落ち着けようと右手を自身の胸に当てた。

「え? ここ……どこ、ですか? わたしどうして……裸なの?」

「どこって、旅館に決まっているじゃない。服だって、……ねえ、いったいどうしたの?」

 旅館? 小さな声で呟く花はやはりどこか違う世界を見ている。リューシカにはそう思えた。

「教会は、あの死者たちは……」

「……何を言っているの?」

 花の目に涙が浮かぶ。顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣いている。口を覆った指の隙間から、嗚咽が漏れる。リューシカは裸の花をそっと抱きしめる。大丈夫? そう声をかける。花が涙を拭うと、右耳のピアスがちりちりとゆれた。先端の琥珀が夜の中で、瞬くように光った。

「ピアス? いつ? わたし……?」

 花がピアスを引っ張ろうとするのでリューシカが慌てて止める。駄目、引っ張っちゃ駄目。まだ痛む? あとでちゃんと消毒してあげるからね。花は茫然としている。透明な涙を流し続けている。リューシカはどうして花がこんな不安定な状態にあるのか、理由がわからない。

「本当にどうしたの? さっき声が聞こえるって言っていたけれど。怖い幻でも見た?」

「……幻」

 花が鸚鵡返しに、掠れた声で呟く。わからない、わからない。どうして、なんで……。小さな声で呟き続けている。リューシカも泣きそうになりながら花を見つめている。

 何がいけなかったのだろう。人殺し、という花の言葉が胸に刺さったまま、いつまでも抜けずにリューシカを苛んでいた。唇を噛みしめる。せっかく二人で肌を重ね合わせることができたのに。初めての夜なのに。やっと、……花にあげることができたのに。


 ——花はいったい、何を見たのだろう。

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