第8話 十一月二日(木)・AM

 モスグリーン色のラグの上に並んで座り、小さな液晶を二人、肩を寄せ合って見つめている。エンドロールが流れると傍らの花が小さくため息をつく。目の端にうっすらと涙が光っている。

「……こんなゾンビ映画もあるんですね」

 花の目はポータブルDVDプレーヤーの液晶画面を、じっと見つめ続けている。

「そうね。とても静かな映画だったわね」

 リューシカとしては屍体の数が少ないし、アーノルド・シュワルツェネッガーが主演なのにアクションも少ないな、なんて思うのだけれど、花は十分満足したようだ。どちらかというと娘役のアビゲイル・ブレスリンの演技が光っていた。少しずつゾンビになっていく人間の悲哀とはこのようなものなのか、と思う。なんとも切ない、印象に残る佳作であった。

「ねえ、リューシカさん」

 花がリューシカのパジャマの袖を、キュッと掴む。不安そうな表情を浮かべている。

「わたしが噛まれて感染したら……ゾンビになりそうになったら、どうしますか?」

 リューシカは煙草を咥えたまま、そっと花の頭を抱き寄せる。

 映画の中で、〝腐歩病感染者〟と称されるゾンビ患者の治療方法は、確立されていない。隔離施設で使用される自我を保つための薬は、一時的なものでしかない。それに自我を保てていても、ゾンビに〝変転ターン〟してしまった人間を救う手立てはないのだ。……だから。

「わたしは躊躇しないわ。花を自殺させたりしない。ちゃんと殺してあげる」

 そっと耳元で囁く。花は安心したように、リューシカの頬に額を寄せた。

「もうこんな時間なのね。歯を磨いたら……一緒に寝ましょう」

 煙草を灰皿に押し付ける。狼煙のように、一筋の煙が天井に昇っていく。

 十一月一日が終わり、時刻は午前零時を回っている。万聖節が終わり、カトリックの典礼に定められた死者の日が始まった。煉獄で焼かれるすべての死者たちのために、祈る日が……。

 深夜。リューシカの傍らでライナスの毛布に包まれて、花が寝息を立てている。リューシカは充電途中の花のスマホを手に取り、掛かっている暗証を解除する。相変わらずメールのやり取りはほとんどなく、ほぼ全てがリューシカとのものだった。ふと何気なくインターネットのブックマークをチェックすると、女性同士の性交の仕方についてのサイトが登録されていた。リューシカは花を見下ろす。切ない気持ちで見つめる。花はそれを求めている。リューシカだって気づいている。でも……怖い。怖くて怖くてたまらない。

 男であれ、女であれ、……ううん、花でさえ。体を重ねるのは、未だに怖いのだ。

 リューシカは目を瞑る。瞼の裏に浮かび上がるのは、子供の頃に通っていた教会の景色。暗い海と潮騒。雪。耳が切れるような冷たい風。なぜだろう。思い出すのは冬の風景ばかりだ。

 物悲しい修道院の鐘。雪の中の聖母像。……あの教会はどうなってしまったのだろう。

 リューシカは花の額に口付けをする。花が僅かに顔を顰める。可愛い、と思う。

 食べてしまいたいくらいに可愛い。……そう、本当に可愛いのに。

 横になり、じっと天井を見つめる。暗がりの中にいくつもの嫌な思い出が浮かんでいる。目を閉じる。けれど花の寝息があまりにも規則正しくて、いつまでも眠くならなかった。


 朝の陽の光がリューシカの瞼の裏に淡い図形を描いている。目を開く。夢を見ていた気がする。よく覚えていない。冷たい手。小さな人影。あれはいったい誰だったのだろう。ううん、本当に人だったのだろうか。リューシカは寝返りを打つ。傍らに花の姿が見えない。起き上がる。部屋の中を見回す。下着姿の花の背中が見える。十一月の澄んだ空気が部屋を浸している。

「おはようございます。お休みだからってお寝坊ですね。毎度のことですけど」

「おはよう花。それから誕生日おめでとう」

「え」

 声をかけると、着替えをしていた花が驚いた顔で手を止めた。リューシカは花にやわらかく微笑みかける。枕元に隠していた小さな紙のバッグを差し出す。花は包みとリューシカを交互に見つめ、慌てて制服に袖を通す。あまりにも不意のことで、声も出せない様子である。

「はい、誕生日のプレゼント。……気に入ってくれると嬉しいわ」

「えっ? あ、あの、えと、……嬉しいです。すごく嬉しい。ねえ、開けてもいいですか」

「もちろん」

 取っ手がついた紙のバッグの中には桐で出来た可愛らしい小箱が入っている。蓋には筆記体で〝Alice Liddell〟と焼印されている。花は何かを思い出そうとして、小さく首を傾げている。

 リューシカはそんな花の顔を静かに見つめている。店のロゴに或いは心当たりがあるのだろうか。花は思案顔のまま、リューシカの表情を窺っている。

「もしかしてあのピアスですか。前に約束してくれたことを……?」

「さあ? どうでしょう。……開けてみて」

 リューシカは曖昧に微笑み、即答を避ける。

 花の耳にはまだピアスの穴は開いていない。リューシカは左の耳朶にだけピアス・ホールを開けている。ただ、持っているピアスは一つだけだった。それにリューシカがそのピアスを身につけることはほとんどなかった。リューシカは母の形見のピアスをとても大切にしている。北の国の海でだけ取れるという、ロイヤルに似た蜂蜜色の、琥珀のピアスを。

 .....このピアスの片割れを、いつか花にあげる。そう約束したあの日のことを、リューシカは忘れていない。

 花が恐る恐る小箱の蓋を開ける。息を飲む。そこには金色の指輪が二つ、静かに並んでいる。

「……これって、……夢、ですか? なんだか嘘みたい」

「ほっぺを抓ってみたら? 夢なら覚めるんじゃないかしら」

 リューシカはくすくすと笑っている。指輪はカラーの花を模している。一輪ずつ互い違いに左右に花を開かせたカラーの花が、アールヌーボー風のデザインで配されている。繊細で、優美で、とても美しい指輪である。赤紫色をした天鵞絨の台座に二つ並んだ指輪は、まるで……。

「なんだか結婚、指輪、……みたいですけど」

「わたしと花の、二人だけの、お揃いの指輪よ」

 リューシカはそう言って指輪の一つを台座から抜き取り、そっと花の左手を取ると、薬指に指輪を滑らせた。よかった。サイズもちょうどいい。夜中にこっそりと糸を巻きつけて、測っておいてよかった。花は目を見開いたまま、指輪が光る自分の薬指を、凝視している。

「お願い。わたしにも……いい?」

 リューシカはそっと左手を花の前に差し出す。花が震える手で、リューシカの薬指に指輪を通す。リューシカは朝の光に手をかざす。ひっそりとした光を放ち、それはまるで枳殻からたちの枝のように、指の上で静かに呼吸をしている。

「Alice Liddellは花をモチーフにした……ブライダル・ジュエリーのお店なのですって」

 ブライダル、という言葉を口にするときに、リューシカがわずかにはにかむ。

 先月、同僚のまどかに花に送る誕生日のプレゼントを相談した。今までアクセサリーに興味なんてなかったのだが、花と二人、ペアで身に着けられるもので何か良いものはないだろうか、と。まどかは何を血迷ったのか、病棟に重たいブライダル誌を何冊も持ってきた。ブライダル誌。……ブライダル誌? リューシカはあきれて、いったい何を考えているのだろうかと目が点になった。でも、どうせなら二人を強く結びつけてくれるものがいい。そう思うことにした。

 リューシカは物珍しそうに、まどかに借りた分厚い結婚情報誌を車の中で開いてみた。家にはこんなもの、持って帰れない。何気なくパラパラとページをめくっていたら花をモチーフにした指輪が幾つか出ていて、その中の一つに一瞬で目を奪われた。紹介記事は簡素で写真も小さかった。けれどもリューシカはこれだ、と思った。花には花を。美しい花の指輪を。そう思った。花の指に、そして自分の指にその指輪が光っているさまを想像した。悪くなかった。

「ブライダル、って……本当にこれ、結婚指輪だったんですか?」

 そうよ。と呟いて、リューシカは花の左手に自分の左手を重ね合わせる。指輪と指輪が重なって、乾いた小さな音がする。それはまるで小鳥同士が口付けしたような、淡く儚い音だった。

「モチーフになっているのはカラーの花よ。花言葉は〝乙女の淑やかさ〟〝清浄〟そして〝夢のように美しい〟……。花に、花嫁にふさわしい指輪だと思わない?」

 リューシカが歌うように囁く。嘯く。

「……嬉しいです」

 花が指と指を絡ませる。見つめ合う。そっと唇を交わす。舌と舌が絡まり合う。

 花の指がシャツの上からリューシカの胸に触れる。下着をつけていない、リューシカのやわらかな胸に。唇から漏れる震える甘い吐息。花がそれを耳にして、こくんと喉を鳴らす。恐る恐る、リューシカのシャツをたくし上げる。硬くなった胸の先端に花の指先が触れる。

 ……駄目。リューシカは花の手を押し留め、じっと花の顔を見つめる。花の瞳はなぜ、と言っている。どうして、と。キスより先を許してくれないのは、なぜなの、と。

「せっかくだから今日は学校をサボタージュして、わたしと出かけましょう」

「……え?」

 どこに? 花が首を傾げ、小さな声で問いかける。リューシカは花の額に口付けて、

「わたしの故郷に。そこで全部、話してあげる」

 硬い、囁くような声だった。


 十一月になるとさすがに肌寒い。日も短くなった。朝の光はぼんやりとしている。イチョウの葉が金色に輝いている。きっとそのうちに寂しく散るのだろうが。……花の元の家は、義理の父親の親族が処分したらしい。詳しいことは知らない。興味もない。だからリューシカはあえて花に訊ねたりしない。花も話さない。もう、そこは花の居場所ではないのだから。

 花はこまごまとした私物をリューシカの元に運んできた。私服、制服、生活用品。学校に関係したもの、そうでないもの、諸々。がらんどうだったリューシカの部屋が満たされていった。それは目に見える幸せの形だった。花も、リューシカも、二人の生活に少しずつ慣れていった。

 時々つまらないことで喧嘩をした。下着をネットに入れずに洗った、畳んだ洗濯物が裏返しになっていた、いつまでも食器を貯め置いて洗い物をしない……そんな些細なことで。でもそれだって幸せだったのだ。他人と一緒に過ごすことの幸せと安寧を、リューシカと花は初めて知った。もっとも先ほどの些細な喧嘩の原因は、すべてリューシカにあったのだけれど。

 花はリューシカさんがそんなにずぼらだったなんて知りませんでした、と言った。

 リューシカは花がそんなに細かいなんて知らなかった、と言った。まるで小姑みたい。

 そして二人で見つめ合い、くすくすと笑い合う。抱きしめ合う。一緒に生活していると匂いまで似てくるのだろうか。花の髪からは、リューシカと同じ甘い匂いがした。

 リューシカがシャワーを浴びているあいだに花がお弁当を詰め直している。俵型のおむすび、玉子焼き、鶏肉の照り焼き、アスパラガスのベーコン巻き、プチトマト、ミックスベジタブルを使用したポテトサラダ……。どれも今日のお昼用に、朝早めに起きて作っていたものだ。食事やお弁当の支度をするのはいつも花の役割だ。自分のお昼のお弁当用、それと今日はお仕事が休みのリューシカの、朝兼昼ご飯のために作ってあったもの。それを詰め直している。

 リューシカは下着姿のまま浴室から出てきて、美味しそうね、と花に言う。花はお弁当の中身はいつもと一緒ですよ、と苦笑した。……もっと早く言ってくれたら色々と用意できたのに。

 花を引き取って以来、いつも菓子パンを齧るだけのリューシカがお弁当を持ってくるようになって、職場の人間はあのリューシカがいったいどう言う風の吹き回しだろう、と言い合った。好きな人でもできたの。そんな風に声をかけられたことも一度や二度ではなかった。けれどもそんな冷やかしに、リューシカは曖昧に笑むだけで何も答えなかった。まどかは事情を知っているからか、時々痛々しいものを見る目でリューシカを見た。リューシカはこれも無視した。

「お出かけ前に風邪をひいてもつまらないですよ? 早く支度をしてきてください」

 リューシカのキャミソールはさらさらとゆれた。癖のある、暗灰色の彼女の髪と共に。

 寝室に戻って服を着始める。ハイネックのクリーム色のニットに、葡萄色のロングスカート。髪を整え、化粧をし、ショールを肩にかけ、コートの用意をする。そして、左耳に琥珀のピアスを吊るす。それは義姉のところに行くときにも身に着けていったもの。それはバルト海沿岸で打ち上げられる珍しい色の琥珀。色はロイヤルに近い蜂蜜色で、石は小ぶりだがとても希少で珍しいもの。交通事故で亡くなったリューシカの母が最後に身に着けていた、その片割れ。

 リューシカはこの琥珀のピアスが好きだ。母がリトアニアの海辺の町で購入したそのピアスはリューシカの宝物だ。リューシカという自分の名前が、東欧由来のものだったらよかったのにと思うほどだ。リューシカは自分の名前の由来になった瞽女のことを、よく知らないのだ。

「もう支度はできましたか?」

 花が寝室に向かって声をかける。リューシカは旅行鞄にこまごまとした雑品を詰めている。その中にはもちろん、母が身につけていたもう片方のピアスも、入っている。

「あれ? ずいぶん大荷物ですけど……え? お泊まりするんですか?」

 台所から顔を覗かせた花が、下着や替えの衣類をカバンに詰めているのを見て、目を丸くしている。リューシカは小さく微笑んで見せ、でも、何も答えなかった。

 花は白いブラウスの上に灰色のベストを着ている。下は膝丈の黒い無地のスカートで、白い素足に朝の光を受けている。リューシカにはそれが制服姿よりも健全で、健康的に見えた。

「リューシカさんがピアスをしているの、久しぶりですね」

「そうかしら。ほら、先月の……」

 そこまで言って、リューシカは気まずくなり、鞄のファスナーを閉めた。

「……文化祭の日、以来ですね。もう、行きましょうか」

「ねえ、花」

 花がリューシカを見つめる。

「いつかこのピアスの片割れを、あなたにあげる」

「約束、ですもんね」

 ……花が苦笑する。リューシカも苦い笑みを返す。花はリューシカの頬に口づけをする。リューシカも返礼にキスを返す。花が母親の骨壷に手を合わせているのを、リューシカは黙って見つめている。そして二人、手をつないでアパートを出る。

 するとそのときだった。白い野良猫がするりと花に近づいてきて、足に頭を擦り付けてくる。花によく馴れている。時々餌をあげているからだろう。花は猫を抱き上げて、頬擦りしている。

 リューシカは猫を見下ろしている。全身が真っ白な毛で覆われている。目が深い緑色をしている。なんだかそれが一花の恋人を思い起こさせて、リューシカは少しだけムッとする。

「そんなにベタベタ触って。毛がついても知らないから」

「……妬いているんですか。ふふっ、可愛い」

 十一月の空がどこまでも青く、晴れ渡っている。


 最寄りのターミナル駅で電車を待つ。この駅から花は学校に通っている。……サボタージュすることもままあるけれど。リューシカの隣で花が複雑な表情で電車を待っている。本来ならばもう少し早い時間に家を出て、学校に向かっていたはずだ。花が見ているのは、或いは制服姿の自分なのかもしれない。リューシカは所在無さげな花の様子をじっと見つめている。

 花を見ていると胸が苦しい。いつからだろう。いつから自分はこの子を好きになったのだろう。どうしようもなく好きになってしまったのだろう。……わからない。本当にわからない。

 リューシカは人間が嫌いだ。男も女も大嫌いだ。それは今も変わらない。でも。……花は?

 ……リューシカは隣で佇む花を、じっと見続けている。小柄で、胸も小ぶりな少女を。心細げで、どこかあどけない表情を浮かべている花を。……苦しい。花を見ていると、胸が苦しい。

 もしも。あのとき……リューシカが子供を、

「……なんだか変な気分です」

 花がぽつりと呟く。明日なら文化の日でお休みなのに。花の顔にそう書いてある。

「こんなに堂々とサボるの、久しぶりですよ」

「わたしは最初から連休を取っていたわ。だって、花の誕生日なんだもの」

「……計画的だったんですね」

 リューシカは答えない。ただ、小さく笑っている。花の髪を撫でる。指通りの良い、やわらかな黒髪。冷たくて気持ちがいい。どうして自分の髪に触れても温度を感じないのに。他人の髪は冷たく感じるのだろう。花が擽ったそうに身を捩る。手に、持った鞄の重さを感じる。

 今の自分たちは、端からどう見られているのだろうか。姉妹、それとも……。

「どうしてわたしだったの?」

「え?」

「あの日。花がわたしに最初に声をかけてくれた日。どうして……花はわたしを選んでくれたのかなって。どうして……好きになってくれたのかなって」

 ずっと訊きたかったの。リューシカは再び花を見つめる。花は唇に指輪を当てて考えている。それはあの日の、パーカーの袖に鼻を寄せていた花の姿を、リューシカに思い起こさせた。

「匂い、ですかね」

 花が小さな声で呟く。リューシカは意味がわからない。……匂い?

「それは……煙草の匂いのことかしら?」

 それとも、まさか死臭がするのだろうか。

「ううん。違います。もっと、なんていうか……」

 懐かしい匂いです。


 ——ミラ・マリア・ステーシーがその短い生涯の中で物した長編小説は、『腐りゆく少女たち』ただ一冊だけだった。

 けれどもそれとは別に、生前の彼女は文芸誌に幾つかの短編を寄稿していた。それらの小説は蝟集されて死後一冊の本になった。ただ商業的にはあまり成功したとは言えず、日本では出版されることもなかった。もっとも日本語に翻訳された『腐りゆく少女たち』もすでに絶版になっていて、当時の出版社が倒産した今では版権がどうなっているのかもよくわからない。

 もちろん生まれ故郷である本国アメリカでもすでに彼女の本は流通していない。二冊とも古書として出回ることもほとんどない。ミラ・マリア・ステーシーの名は奇妙な疾患の発見者としてのみ、ごく狭い範囲で知られているだけである。結局のところ彼女は精神科医であり、小説家ではなかったということなのだろう。

 そんな彼女の不遇な短編集である『眠れる美女たちの書』の中に、『琥珀とリューシカ』という或いはタニス・リーあたりに影響を受けたのではないかと思われる幻想的な物語が収められている。それは彼女の小説にしては珍しく——と言っても収められた他の短編と比較して、という程度の意味だが——東欧のとある古城が舞台となっている。

 時代背景はよくわからない。時代背景的な描写はほとんどない。

 古城を取り巻いているのは暗く沈んだ森と、暗く沈んだ水辺である。針葉樹の森はどこまでも深く、古城近くのその湖は時の止まった鏡のようであり、どれほどの深さなのか、知る者は誰もいない。古びた城には冬枯れした茶色い蔦が絡まっている。雪がすべての音を吸収して深閑としている。鳥の鳴き声さえ聞こえない。獣たちは冬の眠りについている。

 描かれているのは若い女主人と召し使いの少女の甘く退廃的な会話の遣り取りである。

 季節は極寒の冬。古城の周囲は雪に包まれている。礼拝堂はあまりの寒さに凍りついている。厨房の火も落とされている。暖炉に薪をくべながら、召使いの少女は女主人のためにお茶の用意をしている。城の中で唯一温かみがあるのはこの部屋だけだった。城の中には少女と女主人の他に誰もいないようだった。

「リューシカ。雪はまだ降っていて?」

 暖炉の側の安楽椅子に座っていた女主人は、読んでいた古めかしい書物から目をあげ、少女に訊ねた。少女の名前はリューシカという。

 リューシカはそっと微笑む。眉の濃い、鼻梁の通ったとても美しい少女である。

 彼女の暗灰色に波打つ髪はまるで冬の海そのものだった。同じ暗灰色に冷たく光る瞳はまるで古城の上空を覆う曇天そのものだった。彼女はこの小説の中では、灰色に輝く美しい宝石なのである。

 リューシカは春に城の奉公の年季が明ければ、村に帰る。そして生まれ故郷で誰かに娶られ、子を為すのだろう。或いはこれだけの美貌だ。城にいるあいだに地方領主や下級貴族の目に止まる可能性だってあった。リューシカは今が盛りの花である。そのまま枯らしてしまうのはあまりにも惜しい。ただ、誰かと結婚することも妾になることも、リューシカは望んでいない。

 女主人がリューシカの返事を待っている。リューシカは窓の外に目を向ける。窓の桟に雪が白く降り積もっている。

「……雪は降り止みませんわ。ずっと降り続いております」

 リューシカは唇の端に、雪の結晶ほどの小さな笑みを浮かべていた。

「けれどもわたしの主様あるじさま。この雪は永遠に……止むことがないのでしょう?」

 リューシカは微笑みながら、女主人に訊ね返す。そしてティーポットにコゼーを被せる。コゼーには金糸の刺繍が入っている。ティーセットは支那の国の青磁である。

「なぜ?」

 女主人は手にしたその重たげな本を閉じる。本の背表紙に指先を這わせる。

 正体不明の皮で表装された本の題名は『キタブ・アル=アジフ』という。アラビア語ののたうつような文字と、奇妙で奇怪な図形が読む者を狂気の世界にいざなう。それは狂える詩人によって書かれた古い禁書の一つである。

 ……なぜ? という女主人の問いかけに、リューシカは困ったように眉を寄せ、悪夢を見たあとのような、触れれば壊れてしまいそうな声音で答える。

「それはわたしの主様が一番よくおわかりのはずでは?」

「……わたしが?」

 リューシカは唇を噛み締め、静かな口調で語り始める。

「どうか意地悪をなさらないでくださいませ。わたしの主様。本当のことをおっしゃってくださいませんか。……本当は雪解けも春も、永遠にこなければいいと考えていらっしゃるのではないのですか。止まない雪の中に……わたしをここに閉じ込めて、世界を永久に凍らせてしまいたいと、そう思っておいでなのでは……ないのですか」

 暖炉の火が音を立てて凍りついていく。女主人は黙っている。

「わたしを愛してくださっているのならば、お願いです。どうかずっと、わたしをここに閉じ込めてください。わたしも……主様を愛しているのです」

 リューシカの頬を涙が伝う。それは氷の結晶となって、真珠のように床を転がる。七色の光を放ちながら。きらきらと。

 女主人が右手を差し出す。薬指には雪をモチーフにした銀の指輪が光っている。リューシカはそれにすがりつくように頬を寄せる。女主人の指先は、氷のように冷たい。

「いつから?」

 リューシカが左耳に触れる。そこには北の海でのみ採れるという、不可思議な色の、大振りな琥珀が光っている。それはロイヤルに近い蜂蜜色。城に古くから伝わる宝石である。女主人が自らの手でリューシカの耳に穴を穿ち、そこに吊るしたのだった。

 血の滴が頬を伝ったあのときの感動を、リューシカは今も、片時も忘れていない。

「そう、あのときから」

「女でありながら、召使の身でありながら……主様、お許しくださいまし」

「……本当に、あなたはそれでいいのかしら?」

 女主人はクスッと嗤うと、体を硬くしたリューシカを、そっと、優しく抱きしめた。

「永遠は死よりも永いものよ。世界が壊れてしまうまで、あなたはどこにも行けなくなるのよ」

 リューシカの体は氷のように冷たい。女主人の手は雪のように冷たい。

「構いません。元よりそのつもりです。わたしの主様」

「愛しい子。ならば……行きましょう。わたしたちだけの世界へ」

 そっと唇が重なる。

 唇は玻璃でできた精緻な細工のようだ。絡み合う舌は凍える寸前の雛鳥のようだ。

 窓の外は雪に覆われている。灰色と黒と白の世界。果てしなく続く針葉樹の森が、喪に服したようにひっそりと静まり返っている。

「愛していますわ。いつまでも。愛しておりますから」

 リューシカが囁く。

「……わたしもよ」

 女主人が答える。

 御伽話は言う。物語の最後の情景はいつだって薔薇色に染まり、そして二人はいつまでも幸せに暮らしました、で終わるのだと。いつまでも。いつまでも。いつまでも。いつまでも。

 それは規定された時間を超えて永遠を生きる。ただ、永遠とはひとつの禁忌である。大いなる災禍である。それ以外のなにものでもない。人が手にするには、あまりにその代償は大きい。

 リューシカは跪き、女主人の足に口づけをする。

 靴に唇をつけ、静かにそれを取り去り、靴下留めを外し、絹の靴下を脱がせ、爪先をそっと口に含む。指の一本一本に至るまで優しく舌を這わせていく。

 女主人は凍りついた暖炉の傍らで再び禁書を読み耽っている。足元ではいつまでも灰色の宝石が蠢き、輝いている。耳飾りの煌めきが世界を幻惑する。

 女主人のために用意された紅茶のセットはいつまでもテーブルの上に留め置かれている。ティーコゼーは取られない。閉じ込められた黄昏に似た色だけが青磁の茶器から滲み出し、世界を覆っていく。まるで広がり続ける疫病や、全てを腐らせる呪いのように。世界は雪によって永遠に閉じ込められている。

 いや、その世界を閉じ込めているのは二人の想いそのものだ。雪の世界は今や耳飾りの琥珀の中に存在している。樹液に飲み込まれ、宝石の中に封印された、哀れな太古の蟲のように。

 ……少女の名前はリューシカという。女主人の名前は書かれていない。


 在来線のターミナル駅で特急列車に乗り換え、花とリューシカは北に向かう。暖房の効いた車内は暑いくらいだ。リューシカはショールを解き、それを鞄の上に乗せる。北上するにつれて乗客の数が減っていく。席にも空白が目立つ。それに伴って窓から見える景色も変化していく。ビルがなくなり、民家もまばらになって、木立の色も初冬のものへと変化していく。落葉樹が色付いた葉を落としていき、骨ばった寒そうな枝を、乾いた風に震わせている。

 ぼんやりと外を見ているリューシカの隣で花が小さく欠伸をしている。

「眠い?」

「少し。ごめんなさい」

「まだしばらくかかるから。寝ていていいわよ。ちゃんと起こしてあげるから」

 リューシカがそっと花の肩を抱く。花はリューシカに身を預け、目を瞑る。単調な電車の音。人の気配が染み付いた、古い車内の温もり。……やがて花が寝息を立て始める。

 そういえばあの日もこんな風に、花はリューシカに寄りかかって眠っていた。

 御心祭が終わって帰路に着く、そのタクシーの中で。


「……学校、行きたくない」

 花の呟きに、焼きたてのトーストにバターを塗っていたリューシカの手が止まる。

「昨日何かあったの?」

「……何もないです」

 昨日は夜勤から帰っても花は家にいなかった。夕方になって戻ってきた花は、制服姿だった。てっきり御心祭に参加していたのだとばかり思っていたが……違ったのだろうか。それとも何かあったのだろうか。あの、祝祭の場で。昨日は何も訊かなかった。花も話さなかった。

「リューシカさんは昨日夜勤明けだから、今日はお休みですよね」

「そう、だけど」

「……一緒にどこかへ出かけませんか」

 リューシカはパンを一口齧る。パン屑がテーブルの上にぱらぱらと落ちる。

「駄目、ですか」

「……あなたは学校があるじゃない。学業は学生の本分なのだから。行かないわけには」

「文化祭は学業じゃない」

 珍しく花が強い調子でリューシカの言葉を遮る。リューシカはもう一度パンを齧る。

「学校行事は学業の一環だわ」

 花が冷たい目でリューシカを見ている。嫌だ。そんな目で見ないで欲しい。そう思う。そう思うのだけれど、リューシカも引くことはできない。少しだけ怒っている。むきになっている。

 別に学校なんて行きたくないなら行かなければいい。けれどもそのことにリューシカを巻き込むのは、リューシカを理由にするのは、違う。違うと思う。どこかへ一緒に出かけたいと言うのなら、リューシカは花と御心祭に行きたい。あの学校にはもう何の愛着も未練もないけれど、花がいる今の学園ならば、見てみたいと思う。それに。

 ……わたしに来るなって、言ったのに。リューシカはそのことを少しだけ根に持っている。

「学校に行きたくないならそれでもいい。学校に行くことは義務ではないのだから。けれど、今のあなたは女々しいわ。わたしの顔色を窺うような真似はしないで。迷惑よ」

「……そんな言い方をしなくてもいいじゃないですか」

 ここまで険悪な雰囲気になったことがこれまでにあっただろうか。朝の食卓に隙間風が吹き込む。部屋の温度が急に下がっていく。口の中に残ったパンとバターの味が、何かひどく苦いものに変わっていく。花がリューシカを睨みつけている。リューシカは無言で立ち上がると、座っている花の頭を抱いた。ぎゅっと。思い切り。花は驚いて、目を瞬かせている。

「え、あ……リューシカ、さん?」

「……ごめんなさい。言い過ぎたわ」

 花が恐々とリューシカの腕に触れる。

「あなたが感じている生きにくさを、わたしはきっと全部理解できない。それでもね、わたしは花には……後ろめたい気持ちでいてもらいたくないの。あなたはわたしに似ているから」

「リューシカさん」

「帰ってきたら美味しいご飯を食べましょう。今日はわたしが作ってあげる。何か食べたいものはない?」

 リューシカの腕をほどき、花は潤んだ目でリューシカを見つめた。

「——を食べたい」

「花……」

「なんでもないです。ごめんなさい。ええと……じゃあ元気が出るように、その……キス、してもらっても……いいですか」

 リューシカは目を瞑る。自分の唇をそっと花の唇に重ねる。

「行ってらっしゃい」

「……行ってきます」

 玄関先で花を見送る。花が出てしまうともう、リューシカにはやることがない。ううん、違う。本当はやらなくてはいけないことなんて掃いて捨てるほどある。洗濯だってしなければならないし、このあいだの研修レポートだってまとめなくちゃいけない。本当は夜勤中に終わらせるはずだったのに。相馬と話していたらやる気が失せてしまった。……それも嘘だ。最初からやる気なんてなかったくせに。リューシカの目の前には茫漠とした時間だけが広がっている。

 ため息をつきながらポケットをまさぐり、皺くちゃの煙草に火をつける。紫煙を燻らす。ライターを弄ぶ。そして花の言葉を思い出す。


「リューシカさんを食べたい」


 わたしを食べたい。花は確かにそう言った。それは聞き間違いでも空耳でもなかった。咄嗟に花は誤魔化してしまったけれど……どう答えればよかったのだろう。リューシカはライターの火をつけたり消したりしながら考える。本当に、それは正しいことなのだろうか。

 煙草を揉み消す。そしてまた新しい煙草を唇で抜き取る。けれども結局火はつけず、そのまま自室に戻っていく。今日は日曜日。ゴミの日は明日……だったかしら。リューシカは咥え煙草のまま思案する。変則勤務だと曜日の感覚が狂う。ただ、ゴミの日を覚えていないのはリューシカがずぼらだからだ。家にはテレビも新聞もない。カレンダーすらかかっていない。

 ふと何気なくベッドわきのゴミ箱の蓋を開けると、丸められた紙屑の隙間に細長い紙片が挟まっていた。リューシカはなぜだかそれが気になって、手を伸ばし、取り出してみる。

 あ、と声にならない声をあげると、唇の端から煙草が床に落ちていった。

 それは御心祭の招待状だった。カトリックのミッションスクールであり、歴史ある伝統校を標榜する御心女学館は、何かと規律が厳しいことで有名だ。文化祭……御心祭には招待状が必要で、それがなければたとえ親といえども門前払いされる羽目になる。リューシカは招待状を裏返す。但し書きを見る。御心祭へのご参加は、男性は血縁のあるお父様、お爺様のみに限らせていただきます。身分を証明できない場合、入校をお断りすることがあります……。昔と一緒だ。何も変わらない。この招待状を発行してもらうには担任の先生への申請が必要だったはずだ。なら……花はリューシカのために、これを用意したことになる。でも、あれだけ嫌がっていたのに。今日だって来て欲しいなんて、一言も言わなかったのに。……どうして。

 リューシカはかぶりを振る。わからない。リューシカは花が何を考えているのか全然わからない。或いは……本当は来て欲しかったのだろうか。それともそう考えるのはリューシカの願望なのだろうか。リューシカは逡巡しながらじっと招待状を見つめている。……そして。

 知りたい、と思った。花が何を思っているのか、何を考えているのか、知りたいと思った。

 切実な思いに駆られてリューシカはきびすを返す。服を全部脱ぎ捨て、シャワールームに入っていく。熱いお湯を浴びながらリューシカは思う。あの祝祭の場に乗り込むための力が欲しい、と。……裸のままリューシカは寝室に戻る。クローゼットを開ける。そこには義姉の一花からの贈り物が放り込んである。クローゼットの扉に備え付けられた鏡には、炎のようなリューシカの顔が映っている。御心女学館。リューシカの母校。生徒会長にまでなったのに、いい思い出が一つも浮かんでこない。あそこに通わされたのは義姉が通学していたからだ。あんなことがあったからだ。だから。……義理の両親がヒステリックになっていたのは無理もないと思う。けれど、それでも、リューシカの〝痛み〟は少しも癒えやしなかった。乙女のような少女たちの中で、花のような少女たちの中で、自分が汚れていると思い知らされただけだった。

 リューシカは思い返す。白いワンピースの制服。編み上げのショートブーツ。御機嫌ようの挨拶。穏やかなクラスメイトと厳格なシスターたち。五月さつきの庭を覆う白いシャムロックの花。

 まるで温室のような世界。それでも……花もそんな世界に苦痛を感じているのだ。かつての自分と同じように。ううん、きっと、それ以上に。花は苦痛を感じているに違いなかった。

 目の前の鏡には、裸のリューシカが映っている。美しい裸体が濡れて上気している。リューシカはおもむろに一花から送られた包みを取り出す。そこに入っているのは着物の一揃え。リューシカはそれをベッドの上に解いて置き、床に座り、自身を装い始める。

 髪をシニョンにして細かく編み込んでいく。仕事のときのような雑な引っ詰めにはしない。シニョンからほつれた後れ毛が肩に掛かる。灰色の髪はまるで雪雲を紡いだよう。濡れた髪はまるで冬の湖面のようだ。それから香水を手首と耳の後ろに染み込ませる。トップノートは白い花。ミドルノートは琺瑯と教会のステンドグラス。ラストノートは少し焦げた糖蜜と黒胡椒、擦りたての墨の匂い。独特で、それはまるでマザーグースの歌のように、不思議の匂いがする。

 立ち上がり、ベッドの上を見つめる。そこには着物の一揃えの全てがある。肌襦袢、裾除け、長襦袢、伊達帯、胸紐、帯、帯揚げ、帯締め、帯板、帯枕……。一花がなぜこんなものを自分のところに送ってきたのか、リューシカにはわからない。添えられた手紙にはただ一言、「これはあなたにあげる」としか書かれていなかった。一花らしいといえば、確かにそうだった。

 それとも、これすら何かの罠なのだろうか。

 リューシカは顔を顰める。罠でもいい。何でもいい。力を貸してくれるのなら、喜んで地獄にだって堕ちてやる。リューシカは思い出す。美しく着飾った夜々子さんのことを。

 ……肌襦袢と裾除け。襦袢、伊達帯。リューシカは慣れた手つきで着付けていく。着物は赤と黒の見事な市松で、裾に銀糸で蜘蛛の巣の刺繍が施されている。裏地には十二単姿の檀林皇后の刺繍が、大きく取られている。その艶やかで、楚々とした姿を見ながら思い出す。七月の、一花の家に泊まった、あの日のことを。忌々しい一花とその恋人の様を。

「……またいらっしゃいね」

 朝。帰り際にそう囁いた一花の頬を、リューシカは思い切り引っ叩いた。

「……ふふ。痛い」

 一花が頬に手を当てたまま、濡れた瞳でリューシカを見上げている。夜々子さんがその傍らで、心配そうな表情を浮かべている。暗い緑色の瞳が二人のあいだをゆれ動いている。

「なんだか怒らせてしまったみたいね。何かお詫びをしなくちゃね。……何がいい?」

「何もいらない。あんたから貰うものなんて、ひとつもないわ」

「そんな寂しいことを言わないで。……またね、リューシカ」

 この女とはもう顔を合わせていたくない。言葉を交わすと死んだ魂すら汚れていく気がする。きびすを返し、リューシカは朝の打ち水がしてある玄関先に出て行く。憤り。怒り。深い虚脱感と絶望。目の前が真っ黒に染まっていく。……やっぱり来るんじゃなかった。目尻に浮かんだ涙を拭うこともできず、リューシカは足早に去ろうとする。そんなリューシカの背に、悲しそうな、淋しそうな声がかかる。夜々子さんの声だった。

「一花がなんぞ気に障るようなことしやしたか? ……堪忍してもらえへんやろか」

 夜々子さんが少し困ったように笑っていた。この人も狂っている。十分狂っているのだ。一花に……あんなことをされたのに。どうして傍らで笑っていられるのだろう。彼女は一花に受けた昨夜の仕打ちをなんとも思っていないのか。それとも……いつも、二人はあんなことを。

 嫌だ。もう二度と京都になんか来るもんか。そう心の中で吐き捨て、リューシカは何も言わずに立ち去っていく。そして、その想いの通りに、……これが一花との最後の別れになった。

 ——最寄りの駅まで歩いていく。編み上げのブーツがかつかつと乾いた音を立てる。

 街行く人が振り返る。特に、男が。和装のリューシカはただただ美しい。帯締めは淡い緑色。帯の表には彼岸花。浅葱色の裏地には黒揚羽の刺繍。それが同時に見えるように帯を片蝶にゆわえている。リューシカは一つの絵画だった。まるで時忘れの揚羽が彼岸花の上を飛んでいて、今にも蜘蛛の巣にかかってしまうような、不安と、どこか淫靡な雰囲気を漂わせている。

 改札を抜ける。電車に乗る。視線を感じても、リューシカは気にしない。じっと窓の外を見つめている。赤と黒の市松に、白いストールが美しい。シニョンに編んだ髪、編み上げのブーツも異国情緒を感じさせる。その不思議な取り合わせはリューシカによく似合っている。アナウンスが流れる。懐かしい駅で降りる。客待ちしていたタクシーに声をかける。

「御心女学館まで」

 香水がリューシカの匂いと混ざり合い、運転手の男を幻惑する。唇の色が艶かしい。男は慌てて車を走らせる。何度かバックミラーでリューシカの様子を伺う。本当にそれが人なのかどうか、確かめるように。リューシカは一言も喋らない。じっと窓の外を見ている。車内のトランジスタ・ラジオから、古いジャズのアレンジが、小さく、幽かに流れている。それはどこか懐かしい、不思議な女性の声で、わたしを月に連れて行ってと歌っている。


 Fly me to the moon,

 (わたしを月に連れて行って)

 and let me play among the stars.

 (星々に囲まれて遊んでみたいの)

 Let me see whet spring is like on Jupiter and Mars.

 (木星や火星にどんな春が訪れるのか、見てみたいの)

 In other words, hold my hand!

 (つまりね、手をつないで欲しいってこと)

 In other words, daring kiss me!

 (だからその……ね。キス、してよ)


 正門が白い薔薇の生花で飾り付けられている。身なりの良い大人たちが門に吸い込まれていく。それを捌いているのは生徒会の役員か、それとも御心祭の実行委員か。十月のやわらかい光が周囲を穏やかに包んでいる。けれども華やいだ空気は一瞬で壊れる。リューシカがタクシーから降り立つと、そこにいた全員の目が釘付けになる。タクシーの中で左耳にピアスを吊るしたリューシカは、一際美しかった。あまりに美しすぎた。人の心を狂わせるほどに。狂気の果てに追いやるほどに。凍りついた秋日の中で、それはまるで空間に穿たれた暗黒の穴だった。

 リューシカは腕章をつけた学生に、ちらりと視線を送る。少女がびくっと肩を震わせる。

「……招待状。これで中に入れる?」

 袂から自室で捨てられていた招待状を取り出し、腕章の少女に手渡す。女の子は涙目になりながら、こくこくと小さく頷いてみせる。リューシカを素通りさせる。……本当は来客者には記帳してもらわなければならないのだが、リューシカにそれを告げることはできない。

 御心祭は他校の文化祭に比して緩やかで、静かな雰囲気の中で行われる。それは招待状を持った人間にしか入校を許していないからだ。しかも家族といえども年若い男性が学内に入ることは禁じられていた。模擬店や保護者によるバザー、クラスごとの展示や文化部の発表など文化祭の体裁を成すものは多岐に渡るが、本来御心祭は生徒会長である花の君の名の継承と、そのセレモニーの意味合いが強い。公開日前日に行われる式典で任命を受けた新しい生徒会長は、花の君というその優美な名に恥じぬよう、父兄たちの前で最初の演説を行うことになっている。

 昔。リューシカも大勢の前で所信表明を行った。あのときは心臓が張り裂けそうだった。

 でも、あの祝祭の場で、一花だけは……自分を嘲笑っていた。そうに違いなかった。リューシカは当時のことを思い出して、奥歯をぎりっと噛みしめた。その顔には凶相が浮かんでいた。

 勝手のわかる校舎の中を、ゆっくりと歩いていく。一年椿組。花の教室まで。リューシカが通るとまるで海が割れるように生徒も保護者も道を開ける。口を閉ざす。目を見開いたまま動きが止まる。それが彼女の威厳なのか、それとも死者の瘴気のせいなのか、誰にもわからない。

 一年椿組の教室は建物の四階にある。リューシカは静かに、あくまでもゆっくりと、階段を上っていく。それはまるで死者を引き連れて歩く、禍々しい魔物の女王、そのものみたいに。

 教室の前で足を止める。仰々しい書体の看板が出ている。それは占いの館と書かれている。リューシカは少し呆れた表情で看板を見上げている。占い? なにそれ。彼女に気づいた受付の少女は顔の色を失ってしまう。つい今し方まで、クラスメイトと楽しく談笑していたのに。

「……あなたがクラスの受付ね。花は? 遊崎花はこの中かしら」

「え、え? 遊崎……さん?」

「いるの? それとも今はいないの?」

「いや、えっと、あの」

「……答えて」

 リューシカが目を細めると少女は塩の柱に変わってしまう。旧約聖書にあるロトの妻の逸話のように。堪りかねたクラスメイトが朝から姿が見えないんです、学校には来ていると思うのですけど、と震えながら掠れた声で呟く。リューシカはそれを聞くと小さくため息をつき、教室を離れた。

 困ったな、どこに行こう、どこに行けば花に会えるのかしら、そう思って思案していると、

「リューシカ? あなたリューシカよね?」

 不意に声をかけられた。驚いて振り返ったその先には、灰色の衣を纏った女が立っていた。

「……シスター茅野かやの?」

「あら、嬉しいわ。わたしを覚えていてくれたのね。ごきげんよう、リューシカ」

「ごきげんよう。……忘れるはずがないじゃないですか。在学中はお世話になりました」

「ふふ。見違えたわ。あの問題児がこんなに綺麗になって」

「問題児って」

 シスターはリューシカをそっと抱きしめ、耳元で、

「今だって廊下に悪魔がいるって、わたしのところに駆け込んできた子がいるのよ?」

 笑いを含ませた声でそっと囁いた。リューシカの左耳のピアスがちりちりとゆれた。

 腕を解くとシスターはリューシカの手を引き、歩き出した。リューシカはため息をつく。乙女の妄想は逞しく、非現実的で面白い。悪魔。悪魔か。そんなに立派なものならこれほど悩んだりはしないだろうに。リューシカは思う。わたしはせいぜい動き回る死者がいいところだ。

「それで、わたしはどちらに連れて行かれるのでしょう。懲罰室ですか」

「馬鹿。わたしたちのところにいらっしゃいな。他のシスターたちもきっと懐かしがるわ」

 シスターたちは例年手作りのガレットやクッキーを販売している。いつもは厳格であまり笑顔を見せないシスターたちも、このときばかりはにこやかに応対する。一階の教員室の隣がシスターたちのブースになっているのは、十年以上変わっていないようだ。

 シスター茅野は年齢不詳だ。リューシカの在学中からほとんど外見が変わっていない。或いはその修道服が、年を取ることの意味を曖昧にしてしまうのだろうか。リューシカはそんな他愛もないことを思いつつ、手を引かれて歩いていく。それにしても、とリューシカは改めて思う。周囲からは今の状況は、どう見えているのだろう。

 ブースの中はひと気がなく、幾人かのシスターが静かに過ごしている。シスター茅野が声をかけると灰色の衣を着た女たちが皆振り返る。懐かしそうに柔和な表情を浮かべ、リューシカを見る。けれども見知ったシスターたちの顔は、誰も彼も、歳を経ていないように感じる。

「あら、噂の御仁は誰かしらと話していたのだけれど……いやだわ。リューシカだったのね。ごきげんよう。ふふっ、相変わらず人騒がせな子ね」

「本当に。いつまでたってもあなたたち二人は問題児姉妹のままね。あの頃が懐かしいわ。ねえリューシカ、いままでどうしていたの? 元気にしていたの?」

「ええ。恙無くおりましたわ。ごきげんよう、シスターの皆様。ご無沙汰してすみません。ただ今年はもう、何回かこちらを訪ねてきていたんですよ? 色々と手続きがあって……」

 リューシカはそう言って、シスターたちに囲まれながら、肩の力が抜けていくのを感じていた。それは今日御心女学館を訪れてから、初めて浮かべた人間らしい顔だった。


 御心女学館は初等部、中等部、高等部に分かれており、それぞれを分断するように敷地中央には森が広がっている。生徒からはマリア様の森と呼ばれているが正式名称は誰も知らない。

 リューシカは枯れかけた下草に足を取られないように着物の裾を持ち上げつつ、森の中を慎重に歩いていく。どこからか山鳩ののどかな鳴き声が聞こえて来る。わざと足音を立てて進み、左右を見回す。そして一昨日の、夜勤前に聞いた花の言葉を思い出す。花はいつもこの森に避難していると言っていた。逃げ込む場所だと話していた。もしかしたら今日もこの森にいるのではないか。寂しい思いをしているのではないか。そう思いながらリューシカは歩き続ける。

「花? どこにいるの? いるなら返事をして」

 リューシカが木立に向かって声をかける。返事はない。諦めて引き返そうか、それとももっと先に進もうか、と悩んでいると、

「……リューシカ、さん?」

 がさがさと下生えを踏みながら、純白の制服に身を包んだ女の子が現れた。花だった。

「え? ……え? どうして? というか、あの、その格好……嘘、すごく綺麗」

「朝からずっとここにいたの? 体、冷えていない?」

 樫の木、櫟、楢……。雑木の梢から、陽の光が降り注いでいる。花の髪の上でゆれ動いている。リューシカはそっと花を抱きしめる。制服の上からでもわかる。花の体はひどく冷たい。

「リューシカさん、不思議な匂いがしますね」

「……くさい?」

「ううん。……なんだか溶けちゃいそう」

 見つめ合ったまま口づけをする。舌と舌とが絡み合う。花はリューシカの匂いに酔いそうになる。ラストノートは少し焦げた糖蜜と黒胡椒、擦りたての墨の匂い。独特で、それはまるでマザーグースの歌のように、不思議の匂いがする。


 What are little girls made of?

 (女の子ってなんで出来てるの?)

 What are little girls made of?

 (女の子ってなんで出来てるの?)

 Sugar and spice

 (砂糖と香辛料)

 And all that`s nice.

 (それと素敵ななにか)

 That`s whet little girls are made of.

 (そういうもので出来てるよ)


 リューシカはそのとき不意に、歌声を聞いたような気がした。タクシーの中で聴いた、あの不思議な歌声と同じ声を。……花の唇が離れていく。けれども離れるのを惜しむように、銀色の糸が二人の唇を繋いでいる。花が間近からリューシカを見上げて、もう一度、綺麗、と呟く。

「いつもすぐ近くにいるから逆に気づきませんでした。リューシカさん、綺麗だったんですね」

「その言い方だと、あんまり褒められている気がしないわね」

 リューシカはくすくすと笑う。そして不意に花の唇を見て、

「あ、口紅がついちゃったわ」

「……いいですよ。このままで」

 花が自分の舌で付いた口紅を舐めとっていく。ちらちらと唇を這う赤い肉片がまるで蛭のようで、リューシカの頬が熱くなる。何かいけないものを見ている気がしてひどく悩ましい。

「リューシカさんがわたしを見つけてくれたのは、これで二度目ですね。でも、どうやってこの学院に入ることができたんですか? ええと、……もしかして」

「招待状、ゴミ箱に捨ててしまうなんてあんまりだわ。だってわたしのために申請してくれたのでしょう?」

 リューシカがムッとした表情を浮かべると、花は小さな声でごめんなさい、と謝った。

「ここではわたし、居場所がないから。だから……本当は、リューシカさんにだけは、見られたくなかったんです。でも、……側に一緒にいてくれたらなって、そう思ったのも確かで」

 悲しげな表情を浮かべている花が、たまらないほど愛おしい。ぎゅっと抱き締める。強く。想いと力を込めて。花は目をしばたいて、あの、その、と口の中で繰り返している。

「おいで」

 腕の力を解き、花の瞳を見つめてリューシカが囁く。リューシカの目には涙が浮かんでいる。

「秘密の場所に案内してあげる」

 花の手を引いて歩き出す。森の中央に向かって。その足取りは確固としている。迷いがなさそうに見える。今まで森の奥まで分け入ったことのなかった花は不安そうにリューシカについていく。そこに何があるのか、見当もつかない。

 下草を踏みつけながら、道のない場所を歩きながら、進んでいく。どのくらいそうやって進んだだろう。気づくと開けた場所に出ていた。そして花は、目の前の光景に目を丸くしていた。

 蔦の絡まった古いルルドのマリア様の後ろには、それよりもさらに古い墓石が立ち並んでいる。そのどれもが苔むしていて、いったい誰の墓なのかも判別できない。十字架、ケルト十字、石版を模したもの……。数は二十基を超えている。そこは神聖でありながら朽ちていて、静謐な空気が流れる異界だった。リューシカの隣で、花が喉を鳴らした。

「ここ……お墓、ですか?」

「ええ。誰が葬られているのかは知らないけれど。……ここはわたしの、秘密の庭だったの」

 リューシカの言葉に花が驚きの表情で振り返る。

「え、と……。その、リューシカさんは御心女学館の……?」

「卒業生よ」

「どうして? どうして最初に教えてくれなかったんですか?」

 眉根を寄せてぎゅっとスカートを握りしめている花に、リューシカは苦笑を返す。

「わたしもここでは生きづらかったから。あまり触れたくなかったし、知られたくなかったの」

 そしてむくれている花の頬を、きゅっと摘んでみせる。そんな顔をして、元に戻らなくなっても知らないわよ、と。花はそれでも納得がいかない様子で、リューシカをじっと見ている。

「わたしは嫌なことがあると、いつもここに隠れていたわ。そしていつかこの墓地に眠る死者たちが甦って、わたしを国へ連れて行ってくれるのを夢見ていた。そんな日はもちろん来なかったけれど。……ここの秘密を知る生徒は少ないわ。この森は原則立ち入り禁止になっているから。だからこれからは……学校で嫌なことがあったらここに逃げてくればいい。わたしが今も墓地でそうしているように。死者たちはあなたをきっと迎え入れてくれるから」

 ……リューシカがあの場所にアパートを借りたのは、似たような場所が近くにあったからだ。

 気づくと花がぽろぽろと涙を流している。声を殺して泣いている。嗚咽が森に、静かに染み込んでいく。リューシカはそんな花を痛切な気持ちで見つめながら、先ほど交わしたシスターとの会話を思い出していた。

 リューシカが花を引き取ったこと、一緒に暮らしていること、そして手続きの関係で何度かこの学院を訪れていることを話すと、シスター茅野は愁眉の表情を浮かべて、十字を画した。

「そう、あなたがあの子を。これも神様のお導きなのかしら。……あの子はあなたと同じ痛みを受けているのね」

 同じ痛み。そうだろうか。シスターはリューシカの髪を撫で、その手にクッキーを握らせた。

「これはあの子と一緒にお食べなさい。でも、無理はしないでね。あなたは昔から……」

 リューシカさん、と声をかけられて我に返る。花が手の甲で涙を拭っている。リューシカの身に起きた不幸を知る生徒は、あの当時義姉以外には誰もいなかった。けれども花の事件はきっと全校生徒に知れ渡っている。どちらが生きにくいかなんて、比べるべくもない。この温室のような学院の中で、花が心休まる場所なんて、今までどこにもなかったはずだ。

「花って、耳の形が綺麗ね」

 リューシカは花の涙を一緒に拭ってあげながら、小さな声で囁く。花は紅く濡れた瞳でリューシカを見ている。リューシカは自分の左耳からピアスを外すと、それを花の右耳に当ててみた。金の鎖がゆれて、先端の琥珀が秋の陽射しをちらちらと反射させている。

「よく似合うわ。いつかこれの片割れをあなたにあげる。わたしの本当の母の形見を。花に貰ってほしいと思うの」

 同じピアスを半分ずつ、分け合ってつけましょうね。リューシカが生前の母と交わした果たせなかった約束は、花と叶えたい。そう思った。花は涙でひりひりする頬を赤らめて、小さく頷いてみせた。それは誓いの約束。母と娘の、……約束。

「ねえ、シスターからクッキーをもらったの。一緒に食べましょう?」

 包みを開けて、中身を取り出す。花もそれを一つつまみながら、

「わたしがもっと早く生まれていたら。……リューシカさんをこの学院で一人きりにさせなかった。わたしも、リューシカさんも、一人きりにならなかった。わたしたち……」

 姉妹にだってなれたのに。そう、囁くのだった。

 鬱蒼とした森の中、佇む墓地には冷たい秋の風。学園に眠る死者たちが、じっと二人の様子を窺っている。見つめ合う二人はそのことに、少しも……気づいていないのだけれど。

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