第7話 十月十三日(金)

 院内緊急発報コード・ブルーのアラートがけたたましく鳴り響いている。血塗れの患者の周囲をバタバタとスタッフが走り回っている。リューシカは少女の足を押さえながら滴り落ちる汗をナースウエアの肩で拭う。強く押さえ過ぎると忽ち皮膚の色が変わっていく。濡れたスポンジを押すような、とても嫌な感触が手に伝わる。こんなに暴れているのに彼女の足は驚くほど冷たい。まるで屍体のように。違う。そんなことない。リューシカはかぶりを振る。まただ、という思いとまだだ、という思いが激しく交錯する。

「馬鹿っ、胸の上に乗るなっ。呼吸が、……内臓が潰れるでしょっ!」

 リューシカが叫ぶ。馬乗りになって肩を押さえつけようとしていた柳田やなぎだに早く退くように指示をする。押さえつけられている少女は依然として激しく抵抗している。暴れている。何かを叫び、喚いている。自分で傷つけた首と手首の傷からは血が流れ続けている。暴れて手を振り払う度に、どす黒い血が飛散し、病室の壁を汚していく。

「頭押さえて、頭っ、まどかっ」

 リューシカが叫ぶ。額から汗が飛び散る。まどかはやってるわよっ、と怒鳴り返す。

「バイタルは? モニターはちゃんとついてる?」

 孝太郎の緊迫した声が響く。

「ちょ、ちゃんと押さえててっ、ivのルート取れないじゃないっ」

 三上みかみ先生の苛ついた声が飛ぶ。

「噛まれないように気をつけてっ、リントンとロヒプノールの準備まだなのっ?」

「先生っ、早く沈静かけてっ、……アラート鳴ってんのにまだ人が足りないよっ、誰か手が空くならもっと応援呼んできてっ、ねえ、早くしないとまたっ」

 まるで戦場のよう。美弥子はおろおろと立ち尽くしているだけで、使い物にならない。

「みやちゃん何してんのっ、ぼーっとしてんじゃないのっ」

 まどかが少女の頭を押さえたまま叱りつける。美弥子がビクッと肩を震わせる。まだまだ新人の美弥子は泣きそうな顔をしている。柳田が起き上がろうとする少女の肩を必死に押さえつけている。でも、けれど、少女の瞳が白濁していく。濁っていく。大きく開けた唇からごぼごぼと黒い血が溢れてくる。まずい、まずい、まずい、スタッフの顔が蒼白になっていく。

 ——がふっ。音を立てて大きく咳き込み、大量の血を吐いて、少女は動かなくなった。

 まただ。いつもと一緒だ。あっけないくらい簡単に、少女たちが死んでいく。スタッフ総員、すべての手が一瞬止まる。言い知れない罪悪感が皆の心をよぎる。まるでそうと気づかずに、道端の虫を踏み潰してしまったあとのように。

 こんなはずじゃなかった。数秒間嫌な空気が流れる。思い出したようにACLSの資格を持ったリューシカが少女の胸に手を当てる。CPRを開始する。でも、腐った胸骨が折れる音が響き渡り、リューシカはのろのろと手を退けた。自分の手を見つめる。少女の口からは、こぽこぽと血が溢れ続けている。違う。こんなの絶対に間違っている。リューシカは震える手を握りしめ、目を瞑る。孝太郎はそんなリューシカを見つめて、ため息をつき、

「みんな、ご苦労様。ここまでにしよう」

 と言った。少女は甦らない。腐った死者は生き返らない。そう判断したのだ。孝太郎が死亡時刻を読み上げるのを聞きながら、リューシカは硬く閉じた瞳を開くことができずにいた。

 誰もが茫然自失になっていた。美弥子が啜り泣く声と、誰かの荒い息遣いが処置室に満ちていた。血の匂いがする。腐った血の、腥い匂いがする。今月だけでこれでもう三人目だ。

「……もうやだ」

 美弥子が小さく泣き言を漏らした。誰もがそう思っていた。

「リューシカ、あんた今日深夜でしょ? あとの処理はしておくから、先上がっていいよ」

 まどかが疲れた声で言う。他のスタッフは黙々と物品の片付けを行っている。

「ねえ、阪上さかがみ先生」

 聞いているのかいないのか、リューシカはぼんやりとした声で孝太郎に訊ねる。

「みんな、どうして死んでしまうの」

 生きながら腐っていく少女は、寂しい、寂しいと言って錯乱した少女は、最後には血を吐いて、あっけないくらい簡単に死んでいく。まるで何かの呪いのように。

「……さあ、どうしてなんだろうね。でも——」


 ——これはリューシカが死んだあとの話。

 〝病気〟についてはまだ、そのほとんどがわかっていない。ICDの診断コードも依然としてF99のままである。あくまでも特殊な精神病であるというのが公式な見解になっている。

 そもそもICDにおける〝Fコード〟は〝精神と行動の障害〟とされており、特にその中でもF99は〝特定不能の精神障害〟が分類されている。以下、〝病気〟について簡潔に記す。

 精神病、特に統合失調症は自己と他者の境界が曖昧になる病態を呈するものを指す。いつも誰かに見張られている。悪口を言う不特定多数の声が聞こえる。自分の考えが周囲に漏れている……。ミラの発見したこの〝病気〟に特徴的なのは、その脳内にある他者と自分とを隔てる壁の崩壊が、人体レベルでも起きていることだった。最終的には代謝機能をグズグズに壊し、自己免疫機構までもを破壊してしまう。〝病気〟は多種多様な精神症状を呈して前頭前野から発症する。脳幹にまで症状が及ぶとひどく体温が低下していく。病変が辺縁系に至れば通常の食欲が失われる。普通の食事を口にしてもまるで砂を噛むように味を感じなくなってしまう。それらが最初期の身体症状であり、やがて体全体の細胞にも影響を及ぼし始める。本当の意味で自己を保てなくなり、結果、急激に体が腐っていく。そして命の炎が消えてしまうように、あっけなく腐った黒い血を吐いて死んでいく。精神を侵された彼女たちは自分の症状に最後まで気づかない。血を吐きながら暴れまわる様は、さながら燃え尽きる前の蝋燭のようだ。しかしどうして〝病気〟がこのような形で発症するのか、なぜ年若い女性にしか発病しないのか、依然として不明なままだった。掘り起こされたミラの過去の症例も、特に役には立たなかった。

 ただ、彼女たちの目的だけは判明している。やはりそれは同化の窮極なのだ。自分の寂しさを埋める為に他者と、……愛しい人と、完全に同化しようとする。通常の食欲が失われ、その代わりに同化への、身を焼き尽くすような、どうしようもないほどの飢餓感が彼女たちを支配する。それが、相手を食べるという行為に直接繋がっていくのだ。

 あなたたちの罹患したこの〝病気〟が世間に知られるようになって、随分時間が経った。リューシカが生きていた頃はその存在自体が謎に包まれていて、王寺謙也の小説が流行り、身勝手な憶測やオカルトめいた流言飛語がSNSを飛び交っていた。慌てた政府が火消しを図った。けれどもそれは完全に後手に回っていた。悪意に満ちた噂は瞬く間に拡散していった。だから少女たちが殺される事件はあとを絶たなかった。少女たちの起こす事件も、あとを絶たなかった。そしてこのことに関しては今現在も多くの禍根が残っている。東京の近辺は未だに発症者も多く、その災禍——或いは呪いと呼ぶべきなのだろうか——は、より激しいとも聞いている。

 ——呪い。それは本当に呪いだったのかもしれない。なぜなら、この〝病気〟は……。


 リューシカはのろのろとナースウエアを脱ぎ、更衣室のシャワールームで汗と付着した血を洗い流した。胸を伝う水滴を見つめる。気持ちと体が弛緩して、涙が出そうになる。

 先ほど亡くなった十六歳の少女は、境界型人格障害と診断されていた。左手には数ミリ刻みでリストカットの痕があり、今日も発見されたときには左手首と首の右側が自傷で血だらけになっていた。凶器は自分で折った歯ブラシの柄だった。両手の拘束をすり抜けて、事に及んだらしい。彼女は死んでやると叫んでいた。馬鹿みたい。……本当に死んでしまうなんて。

 彼女は家出少女のスレッドで知り合った男性とホテルに入ろうとしていたところを巡回中の警察官に見つかり、補導された。その際に急に暴れ出し、一緒にいた男性や警察官に文字通り噛み付いたことでリューシカの病院に搬送されてきた。大声で喚き続ける様子から急性の精神症状が疑われ、緊急入院になったケースである。彼女も入院してからは食事を摂らなかった。

 シャワーを止める。タオルで体を拭う。またのろのろと私服に着替える。病院を出ようとして、ふと、さっきの孝太郎の様子が少し奇異だったことを思い出す。何か知っているような、何かを隠しているような……いや、思い過ごしだろうか。でも。リューシカはきびすを返す。医局のドアが開いている。そっと中を覗く。誰もいない。諦めて帰ろうとした、そのときだった。

「僕に会いに来てくれたのかな?」

「きゃっ」

 後ろから急に声をかけられて、リューシカは小さく悲鳴をあげる。

「やめてよ。心臓が止まるわ」

「心臓が止まる? じゃあリューシカは今、生きていると証明されたわけだ」

 孝太郎がプリントアウトした紙片を抱えて笑っている。リューシカは眉を顰め、孝太郎が手にしている用紙を見つめた。それはどこか海外のサイトのもののようで、英字で書かれているためリューシカにはよくわからない。ただそこに『アーカム・アサイラム』や『ミラ・マリア・ステーシー』の表記を見つけて、どうして、と震える声で呟く。なぜそれが孝太郎の手の中にあるのだろう。義姉の言っていたことは、嘘や戯言ではなかったのだ。

「ねえ、孝太郎。その用紙には何が書かれているの? 今、この病院で亡くなっている女の子たちは、本当にミラの病気と一緒なの?」

 血相を変えたリューシカの声に、今度は孝太郎が戸惑う。

「なんだい急に。僕は古い文献に同じような症例があったのを思い出して、少し調べていただけだよ。……リューシカもミラ・マリア・ステーシー女史を知っているのか? それほど有名な精神科医ではないはずなんだけど」

「……ミラはどうやってこの病気を治療したの? 治るの?」

「治る。うーん、どうなんだろうね。アメリカではミラ女史が診察中の患者に殺されて以来、ぱったりと新しい患者が現れなくなってしまったらしいから。どうして集団発生したのかも、何が原因で収束したのかも、治療法があったのかも、よくわかっていないんだ。一説によると……ミラを殺した患者がこの〝病気〟の少女だったって話だけれど」

 リューシカは黙り込む。じっと何かを考えている。孝太郎が心配そうに顔を覗き込む。

「リューシカ?」

「孝太郎は『腐りゆく少女たち』という小説を知っている?」

「いや、知らないな」

「……『ステーシーの頌歌』は?」

「ん? そっちなら知っているよ。王寺謙也の新刊だろ? 随分売れているって聞いたけど」

 リューシカは爪を噛む。なんだろう。とても嫌な予感がする。胸がざわざわする。義姉の予言が本当に正しいのなら。……この世界はいったいどうなってしまうのだろう。

「それよりもリューシカが預かることになった子、大丈夫なのかい?」

「……え?」

「あのときの、あの子なんだろ? ほら、玄関に置いてあったショートブーツの」

 リューシカは心臓を鷲掴みにされた気がして、慌てて孝太郎の口を手で塞ぐ。

「その話はしないで。お願い」

 孝太郎はリューシカの手を取り、大丈夫、あの夜のことは誰にも言っていないから、と苦笑した。リューシカは孝太郎の手を振り払い、足早に医局から去っていった。孝太郎がその背中を見つめていることにも、少しも気づかずに。

 駐車場で自分の黄緑色の軽自動車に乗り込む。エンジンをかける。小さく息を吐く。リューシカは滅多に車の運転をしない。運転が下手なのを自覚しているから尚更である。……病院にも仮眠室があることはあるし、以前は利用していたこともあるのだが。でも、あんな場所で眠るくらいなら、僅かな時間でも家に帰りたい。リューシカには帰る理由ができたのだから。

 カーステレオからは聴いたことのないJポップが流れていた。女の子たちが個性のない声で早く君に会いたい、と歌っている。君。……君? 君って誰だろう。君という誰かは現実には存在しない。あるのは無個性な個の塊だけ。名前もない、どこにもいないその誰かを、ファンは自分だと勘違いしているだけ。自分に微笑んでくれているのだと錯覚しているだけだ。そんなものにいったいどれほどの価値があるのだろう。リューシカはラジオを消す。ため息をつく。前の車のテールランプを見つめる。気づくと手に汗をかいている。……運転は苦手だ。


「……ただいま」

 リューシカは玄関から部屋の奥に声をかける。秋の日は短くて、アパートに辿り着く頃にはすっかり夜になっている。台所に明かりが灯っている。スパイスのいい香りが漂ってくる。

「あ、お帰りなさい。……リューシカさん、どうかしました? 顔色が悪いみたいですけど。お仕事大変だったんですか」

「ええ。ちょっと、色々あって」

 台所から玄関まで迎えに出てきたエプロン姿の花が、心配そうな顔で見つめている。リューシカはぎこちなく笑うとそっと花の髪を撫でた。

「花は何でもわかるのね。隠せていると思ったのだけど」

 花は苦笑して、

「わかりますよ。だって、……一緒に暮らしているんですから」

 リューシカの背中にそっと腕を回した。リューシカも手を伸ばし、花を抱き寄せる。小さな花の吐息がリューシカの胸に吸い込まれていく。花の情愛がチクリとリューシカの胸を刺す。

 本当に全部わかっているのなら。花は絶対にリューシカを許さないだろう。

「もうすぐ出来上がりますから。先にお風呂に入って。お風呂は沸かしてあるから」

「……うん」

「あれ? 石鹸の匂い、ですか。もしかしてシャワー浴びてきました?」

 花が不思議そうな顔をして、リューシカを見上げている。リューシカは一瞬言葉に詰まる。

「……患者さんの血が着いちゃったの。それで」

「そうだったんですね。ごめんなさい。変なことを訊いちゃって。今日はカレーライスにしたんです。だからいっぱい食べて。そして夜のお仕事まで、ゆっくり休んでください」

 花が少しだけぎこちなく、小さく笑う。

「あ、そうだ。リューシカさんに荷物が届いていましたよ? えーと、月庭……一花さんて方から。そういえば確か、リューシカさんが七月に……」

 リューシカが表情を硬くしたのを見て、花が慌てて口を噤む。リューシカはごめんね、ありがとう、と呟いて、唇を強く噛み、花の唇にそっと自分の唇を重ねた。いつかこの罪悪感が消えますように。心の中でそう願いながら。

 やわらかな唇。舌先に前歯が触れる。ゆっくりと押し開くようにすると、花の舌がリューシカの舌を迎え入れてくれる。花の舌は少しざらざらしている。蕩けるように温かい。不意にリューシカの心に激流のような何かが生まれる。荒々しくて、激しい何かが。

 リューシカは唇の隙間から、自分の唾液を、少しずつ花の口に注いでいく。花は苦しそうに、それでも嬉しそうに、混ざり合った二人分の体液を、ゆっくりと飲み込んでいく。どのくらいそうしていただろう。唇を離す。花がぷはっと大きく息をする。

「……リューシカさんは意地悪ですね。でも、嬉しい」

 口の周りがベトベトになっちゃったじゃないですか、と笑う花が、無性にいじらしい。

 お風呂から上がるとローテーブルの上に食事が並べられていた。花の料理はどれも美味しい。独創的ではないけれど、優しい味がする。花と同じ味がする。だからリューシカは花の手料理を食べていると、花を食べているような気分になる。そしてそんな自分を浅ましく思った。

 帰り際に孝太郎と医局で、二人で会っていた後ろめたさからか、リューシカはつい何気なく、

「学校はどう?」

 と訊ねた。花は途端に表情を陰らせ、小さな声で、別に、と答えた。

「別にって……」

 心配そうなリューシカに、花は目を伏せて、勉強は普通です、ただわたしには友達もいないし、グループも嫌なので、お昼どきにはいつも森に避難しちゃうんです、とぎこちない笑みを浮かべてみせた。リューシカは〝森〟と聞いて、胸の奥がざわりとするのを感じている。

「特に今は御心祭……文化祭の準備でバタバタしていて、浮ついていて、あの雰囲気、嫌いです。今日だって授業があるわけでもないからわたし一人くらいが居なくても……」

 リューシカは花の言葉を耳にしながら考える。御心女学館の文化祭。御心祭。リューシカはその祝祭の場で〝花の君〟になったのだ。もう、十年以上も前の話だけれど。……目を瞑る。

 みんなからのお祝いの言葉、祝福。ただ、一花だけは冷たい嘲るような視線を向けていて。……過ぎ去って仕舞えば取るに足らない記憶も、忌々しい思い出も、全部が懐かしい。

「生徒会長を花の君なんて呼んで。あの学校のああいうお嬢様趣味なところが嫌いなんです」

「そんなことを言うものではないわ。……花の君は今もあの壇上に立つのかしら」

「……え?」

 花が訝しげにリューシカを見つめる。小さく苦笑を返す。

「ううん。何でもない。それよりいつから? わたしも遊びに行っていい?」

「文化祭は明日からです。親族、父兄の観覧は明後日です。でも、……来ないでください」

 花が顔を俯かせて視線を逸らす。リューシカは花の硬くて強い言葉に驚き顔を覗き込む。

「……花? どうして?」

「ごめんなさい。……リューシカさんには学校でのわたしの姿、見られたくないんです」

 消え入りそうな声で呟く花に、リューシカは何も言えなかった。


「今日は静かだな」

 救急カートのチェックを終えたリューシカに、相馬そうま勇一ゆういちが声をかける。相馬は四十になるベテランの看護師だ。よくわからない古武術の段位を持っていて、暴れる患者を押さえつけるときには的確に関節をホールドし、動けなくさせる技術を有している。身長も百八十を超えている。背の高いリューシカでも大きいと感じてしまう。そんな相馬は娘二人の父親でもある。

「日中は凄かったんですよ。これで夜まで忙しかったら、わたしが参っちゃいます」

 リューシカは記録の手を止め、苦笑する。今夜の夜勤スタッフは女性二名、男性二名の半々だった。リューシカは人間が嫌いだ。男も女も大嫌いだ。ただ、……どちらかといえば男の方が苦手だ。仮眠の時間帯になって男性スタッフと二人きりになると、余計に意識してしまう。

「大変だったらしいね。俺は深深だったから送りで聞いただけで詳細は知らないけど」

 マスク越しの相馬の声は、リューシカの耳に擦れて聞こえた。

「月庭さんも処置に入ったんだろ?」

「ええ。でもいつもと一緒です。暴れまくった挙句に、真っ黒い血を吐いて亡くなりました。なんだかあっけなさ過ぎて、無駄に徒労感だけが残る感じです」

 リューシカは苦笑を浮かべて、話を合わせる。そのくらいのことはできる。本当は少しだけ冷や汗をかいているとしても。誤魔化すことはできるのだ。……今、病棟に若い女性患者はいない。そのことに安堵しながらカルテをめくる。眠っていなかった患者をチェックしていく。

「急に増えたよな、あの手のよくわからない死に方をする患者。俺も長いこと精神科の看護をやっているけど……今までなかったな、こんなこと。何が原因なんだろう」

「……王寺謙也の書いた小説のせいですよ」

 ぽつりとリューシカが呟く。

 いつもは生真面目なリューシカが冗談を言ったのかと、相馬は驚いている。

「あのグロい内容の小説? 若い女の子がゾンビになって甦り、男たちに再び殺される……だったか。あんなのが売れるようじゃ世も末だな」

「相馬さんも読んだのですか?」

「いいや、読書は苦手でね。新聞の書評でちらっと見ただけ」

「……機会があれば読んでみるといいですよ。嗜虐心が唆られますから」

 相馬は何を思ってか、くつくつと笑っている。リューシカも空っぽの笑みを浮かべている。

「月庭さんよっぽど疲れているんだな。冗談を言うなんて珍しいんじゃないか?」

「冗談くらい普通に言います。それから、わたしのことはリューシカでいいです。月庭って苗字は嫌いなので」

「ん? そうなの? でも就業規則には苗字で呼び合えって書いてあるだろ。というかだいたい馴れ合うみたいで好きじゃないんだよ。名前呼びって奴が」

「お固いんですね」

 リューシカがため息まじりに言うと、相馬は再びくつくつと喉の奥で笑った。

 寝静まった病棟は息苦しい。時計がチクチクと夜の帳を縫い合わせている。強化ガラスに囲まれたナースステーションからはデイルームの暗がりしか見えない。ナースコールも鳴らない。

「……さっきの話に戻るけど、うちの下の娘も今年十七なんだよ。ああいう死に方をする子供を見るのはやりきれないよな」

 リューシカは相馬の話を聞きながら指を折る。

「相馬さん、確か今年で四十ですよね? 上の娘さんも成人されたって聞いていますし、どちらもお若い頃のお子さんなのですね」

「いや、両方ともかみさんの連れ子。俺の子じゃないよ」

 ふうん。なるほど、そういうこともあるのだろう。リューシカは心の中で独り言ち、納得する。

「そういえば」

 相馬の座っていた椅子が、ギシっと音を立てる。

「月庭さん、女の子を引き取ったって聞いたけど。どうだい。うまくやれているの?」

 リューシカはどうでしょうね、と曖昧に苦笑する。うまくってどういう意味だろう。二人の関係性のことなのか、それとも別の何かなのか。リューシカにはよくわからない。

「相馬さんの下の娘さんも高校生ですか」

「そうだよ」

「文化祭って、相馬さんは行きますか」

「文化祭? 娘の学校の?」

 相馬は自分の顎を撫でる。マスクの下の無精髭が、ざらりと音を立てた。

「……もう終わったんじゃないかな。興味がないから一度も行ったことがないけど」

「そうですか」

「それが?」

「……日曜日、うちの子の文化祭なんです。それでちょっと訊いてみただけで……」

 ナースコールが鳴る。受話器を取ると眠たげな声で追加の眠剤を希望してくる。だいぶ眠そうだから少し横になってみてください、と返す。どうしても眠れなかったらそのときはまたコールして、と。そんなやり取りをしているリューシカを、相馬が見つめている。

「誰?」

金森かなもりさん。多分そのまま寝ると思います」

 リューシカはステーションの机に突っ伏し、ため息をつく。

「……文化祭に来てほしくないって、言われちゃった」

 そしてぽつりと呟く。相馬はさっきの患者の、中途覚醒の記録を書いている。

「思春期の女の子は難しいよ。血が繋がっていなければ尚更だ」

 ぱたんとカルテを閉じる。

「でも、月庭さんの雰囲気は変わったな。ちょっと丸くなった」

「太っていませんよ?」

 体のことじゃないよ。わかっているくせに。そう言って相馬はくつくつと笑う。

「通り一遍で人を避けるところは変わらないが。けれど仕草がやわらかくなった。隠しきれない刺々しさも減った。きっと、その女の子のことが本当に好きなんだな」

 リューシカは苦笑する。曖昧に頷くだけ。余計なことは何も言わない。……だからこの男は嫌なのだ。心の中で悪態をつく。古武道なんてものを修めているからだろうか。人の有り様というか……機微に妙に聡いところがある。うんざりだ。

 時計の針が三時を指した。

「ラウンドに行ってきます。金森さんもあのあとコールがないから、様子を見てきます」

「了解。保護室側は月庭さんが戻ってきたら俺が行くから。……ゆっくり廻っておいで」

 相馬がくつくつと笑っている。全部ばれている気がする。そう思うと口惜しい。癪に障る。忌々しい。男なんて大っ嫌いだ。ナースステーションを出る。思わずちっと舌打ちする。懐中電灯を片手に廊下を歩く。少し早足になり、リノリウムの床に足音が反響する。緑色の非常灯が不気味に光っている。どこもかしこも施錠されていて、精神科の夜はひどく息苦しい。

 最初、花を引き取るという話をしたとき、義理の両親は勿論のこと病棟の看護師長である飯田いいだ章子あきこにも難色を示された。子育ての経験もなく、ましてや結婚もしていないリューシカに、養子縁組など出来るわけがないではないか、と。

「申請段階で弾かれるのは目に見えているわ。子育てはあなたが思っているような生易しいものではないの。他人の子を育てることがどれほど大変か、そんなこともわからないの?」

 飯田は眼鏡の奥から、じっとリューシカと机の上に置かれた書類を見つめている。

「養子縁組はあくまでも方法の一つです。一緒に暮らさなければ、そうしなければならない理由があるだけです。……彼女はわたし自身ですから」

 飯田はさらに渋い顔をした。そして声のトーンを落として言った。

「あなたのことも、今回の彼女の身に起きたことも、理解しているつもりよ。そう思いたくなる気持ちもわかるわ。でも、それがあなたにとって本当に正しいことなのか、よく考えて」

「考えました。考えたから、申請の書類を医事課から回してもらったんです」

 深いため息が聞こえた。飯田がリューシカの手に渋々書類を渡す。

「……どうしても困ったら相談には乗るけれど。あまり期待はしないで。仕事に戻っていいわ」

 ナースステーションの隅で行われていたそんなやり取りをまどかが心配そうに見つめている。看護記録の記載用テーブルに戻るとまどかがそっと隣に寄って来て、大丈夫だったの、と小さな声で訊ねた。リューシカは苦笑を返す。まどかは呆れた顔をしている。書類を大事そうに抱えるリューシカを、得体の知れないもののように見つめ、眉を顰めている。

「前々から思ってはいたんだけど」

 カルテに記入するふりをしながらまどかはリューシカに話しかける。ちらりと振り返ると、師長が苦虫を噛み潰したような顔をして、再びため息をついている。

「……あんたって、やっぱり変わり者よね。どんな関係なのか知らないけどさ、義理の父親にレイプされた上に母親がその父親を刺し殺して自殺した、……って新聞に出ていた曰くつきのあの子供でしょ? そんな子を引き取って本当に大丈夫なの?」

「まどかはわたしよりも事件に詳しいのね。わたしは新聞なんて読まないから、そんなふうに報道されているとは全然まったく知らなかったわ」

「またそんなこと言って。わたしはあなたがてっきり阪が……いや、やっぱりいいや」

 リューシカはちらりと横目でまどかを睨みつける。まどかが深いため息をつく。大丈夫。何を言われても気にしない。もう決めたのだから。自分の命は花の為にあるのだから。一緒にいることができるなら何を捨てても構わない。どんな障害があっても。誰が妨害したとしても。

 ……リューシカはラウンドの途中で立ち止まる。窓の外には大きな半月が浮かんでいる。

 リューシカと交代でラウンドに出た相馬が戻ってくると、再び時間の流れが緩やかになる。リューシカは退屈まぎれに首を回す。ゴキッと嫌な音がする。何かが、壊れる音みたいに。

 自分の肩に手をやり、ぼんやりと花のことを思う。もうさすがに寝ただろうか。明日は——日付が変わっているから本当はもう今日なのだが——ちゃんと学校に行くのだろうか。

 思わずため息をついたとき、相馬がリューシカに声をかけた。

「考え過ぎても仕方がないさ。子供を取り巻いている状況や関係ってのは結局のところ、親の思い通りにはならないんだ。子供には子供の世界がある。ルールがある。ただ、弱い子は目を付けられやすいんだろうな。そういう子が生きていく為には周囲と同調して、身を隠さなきゃならない。それができなきゃこんな精神科みたいなところに連れてこられる羽目になる。あの腐っていく女の子たちのように。……子供の世界に大人は干渉できないんだ。いや、本来干渉しちゃ駄目なんだろうな。親としては甚だ残念なことだけど」

 リューシカは無言で相馬を睨みつけている。

「自分にも子供時代ってやつがあったはずなんだけどな。いつの間にか忘れちまう」

「……わたしは親失格ですか」

「一ヶ月やそこらの経験で失格も何もないだろうに。肩に力が入り過ぎなんだよ月庭さん」

 それに。と相馬は言った。

「月庭さんが成りたいのは、本当は親じゃないだろ」

 病棟はひっそりと夜の闇に沈んでいる。いくらナースステーションの中から目を細めて見ても、向こうとこちらを隔てる強化ガラスは冷たく、無機質なだけだった。

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