第6話 九月一日(金)

 司法解剖や警察の取り調べがあって、結局葬儀を出せたのは月が変わってからだった。リューシカはじっと、氷のような瞳で、遺影を見つめていた。リューシカの隣では表情を無くした花が顔を俯かせている。泣き腫らした瞳、目の下の隈が痛々しい。

 葬儀会場には新聞社か雑誌社の記者も来ているようだった。警察官の姿も見えた。南からの湿気を含んだ強い風が時折葬儀場の外の黒竹をゆらした。誰も花に声をかけなかった。花の隣には片時も離れずに、冷たい目をしたリューシカが寄り添っていた。誰もが目を惹くほどの美人なのに、彼女が醸し出している雰囲気は絶対零度の断絶を表していた。目を合わせたら凍らされてしまうのではないかと思わせる瞳で、リューシカは花を守っていた。

 あの日。花は目覚めると、昨日のことが夢ではなかったことを知って、静かに泣き出した。リューシカはそんな花をベッドの中でずっと抱きしめていた。花の体はしっとりと汗をかいていた。気持ち悪くないかと訊ねると花は小さく頷いた。大丈夫。気持ち悪くないです。

「……ねえ、リューシカさん。これからどうしたらいいんでしょうか」

「花は夏休みがもうすぐ終わるのでしょう。もしも特に予定が何もないなら、ここにずっと居ても構わないわ。とりあえず今日はわたしもお休みだから。一緒に居てあげられる」

 リューシカは優しく微笑みかける。花は少し顔を赤らめて、ありがとうございます、と小さな声で囁く。そしてリューシカの首筋に鼻を強く押し付けた。花の甘い、髪の匂いがした。

「あんな人間がいるところに帰ることなんてないわ。わたしが守ってあげる」

「でも」

 花が顔を上げてリューシカを見つめる。リューシカも花を見つめ返している。

「お母さんは心配してると思うから」

 ……そうかしら。リューシカは思う。花は昨日の夜のやりとりを知らないのだ。あのあと花の母親はどうしたのだろう。自分の夫を、花の義理の父親を、問い詰めたのだろうか。わからない。わからないけれど、少し環境が落ち着くまで、花を帰さない方がいいような気がする。

 カーテン越しの夏の朝の光が目に眩しい。気の早い蝉が窓の近くで鳴き始めている。

「花は今、飲み慣れないお薬を飲んでいるの」

 リューシカは花の髪を撫でながら、諭すように言う。

「そして二回目のお薬も飲まないといけないの。副作用が出てもわたしなら看護師だから対処できるわ。けれど……お家に帰って急に気分が悪くなったら、きっと困ると思う。わたしも心配だし。ねえ、お願い。わたしも今日は生理の二日目で、不安なの。花と一緒にいたいの。……明日の夜は深夜勤だから日中のうちにお家に送ってあげるから。……ね?」

「うん」

 花が頷く。目を瞑る。リューシカは小さく気づかれないように息をつく。胸を撫で下ろす。

「じゃあ、メールしておきます。さすがに無断で二泊するのはまずいですから」

 するりとベッドを抜け出た花を、リューシカは止められなかった。昨日の夜の通話履歴は消してある。痕跡は残していない。けれど、あのあと何か母親からメールが届いていたら。……リューシカは今更ながらに気づく。自分のしたことが花にバレるかもしれない。どうしよう。

 リューシカはベッドの中で動けずにいる。緩く冷房をかけているはずなのに汗が止まらない。

「……リューシカさん。これ、なんだろう。お母さんから変なメールが入っているんです」

 花がスマホを覗き込みながら怪訝そうな顔をする。リューシカは喉がカラカラになって、咄嗟に返事ができない。心臓が胸の中で暴れている。どうしよう。どうしたらいいんだろう。

「見せてもらっていいかしら」

 なんとか言葉を紡いで、リューシカは花に手を伸ばす。リューシカの手にスマホが渡される。

【   】

『ごめんなさい』

 サブジェクトもなく、たった一言のメール。これだけでは意味がわからない。リューシカはほっとするが、花は訝しげに首を傾げている。

「あの、やっぱりわたし帰ります。お母さん、もしかしたらわたしのこと……」

 花が顔を上げる。決意に満ちた目でリューシカを見る。それだけで、ただ、泣きそうになる。

「帰ってきちんとお母さんに相談します。そしてあいつにされたことを正直に言おうと思います。お母さんならきっと……わたしのことをわかってくれると思うから」

 花の表情を見てぎりっと奥歯を噛む。そうなのか。やはり実の母親には勝てないのか。わかったわ、とリューシカはできる限り優しい声で言う。自分の内側で荒れ狂う嫉妬は、おくびにも出さずに。でも心配だからわたしも一緒について行ってあげる。そう伝えると、花の表情がほどけてやわらかくなった。……憎い。花の母親が憎い。花の義理の父親が憎い。そして、そんな表情を浮かべる花が……憎かった。母親は家にいるだろうか。義理の父は家にいるだろうか。会いたくない。会えばきっと、感情が抑えられない。……殺してしまうかもしれない。

 タクシー会社に電話をして、二錠目のピルを飲ませる。花は相変わらず青い顔をしている。リューシカがぎゅっと抱きしめると、苦しそうに、けれども嬉しそうに、花は少しだけ笑った。

 花の家に着いたときには時刻は十時を回っていた。今のところ副作用らしきものが見られないことにリューシカは安堵していた。よかった。心配は杞憂だったのかもしれない。あとは薬が効果を表すのを待つだけだ。消退出血が見られれば妊娠は回避できたことになる。あとは花の母親に文句を言うだけだ。今は仕方がない。けれども絶対に花は諦めない。タクシーを降りる。花が玄関の鍵を開ける。扉を開きかけて手が止まる。リューシカも気づいていた。

 これは、

 この匂いは、

「リューシカさん。変ですよね。なんで……」

 玄関から続く薄暗い廊下が、飛び散った「」に染まって濡れている。

「なんで家の中が真っ赤なんですか」

 そこは一面の血の海だった。


 男は玄関の手前、リビングの入り口に倒れていた。全身を滅多刺しにされていた。頬の傷からは黄色い脂肪が見えていた。死んでいる。触れなくてもわかる。男が流した血の量は、致死量に達している。血の匂い。鉄臭い大量の血の匂いがする。何度も何度も刺したのだろう。逃げ回ったのだろう。思わずその光景が脳裏に浮かぶ。背筋がざわっと粟立つ。寒くもないのに震えが止まらない。血の匂いに噎せそうになる。リューシカの足はガタガタと震えていた。

「……おとうさん」

 感情のこもらない声で花が言った。男は返事をしない。見開いた目はもはや何も映していない。リューシカは吐き気が抑えられなくて、慌ててシンクに駆け寄る。そこには血と脂にまみれた刃先の欠けた包丁が無造作に投げ入れてある。リューシカは悲鳴を飲み込みへたり込むと、その場で激しく嘔吐した。胃液が喉を焼く。嘔吐しすぎて指先が痺れる。花、と呼びかけようとして、声が出ないことに気づく。自分の足を叩いてリューシカは立ち上がる。……花がいない。どこにもいない。血溜まりから真っ赤な足跡が続いている。それは階段をあがって二階まで繋がっている。リューシカはなるべく屍体を見ないように顔を俯かせて足跡を追っていく。

 手摺に縋り付き、ゆっくりと階段を昇っていく。花。花はこの先にいるのだろうか。この先に……何があるのだろう。考えたくない。考えるのが怖い。それでもリューシカは昇っていく。

 床に血の足跡が続いている。気づくと一枚の扉が目の前にある。震える手でノブを掴む。夏の眩しい朝の光。木製の太いロフトの手摺りから、ロープが伸びている。女が首を吊っている。ロープはまっすぐに伸びている。まるで空中に一本の線を引いたように。手摺りが頑丈に作られていたのが逆に仇となったのかもしれない。女の足元には尿失禁の跡が水溜りになっている。そのすぐ近くに花が茫然と座り込んでいる。窓から射し込む光が逆光になり、女の顔に暗い影を落としている。女は首をありえないほど長く伸ばし、目を剥き、鬱血して、だらりと舌を半開きの唇から覗かせ、じっとリューシカを、その後ろの何かを、濁った瞳で見つめている。

 花が手を伸ばす。おかあさん、おかあさん、と呼びながら。花が触れると女の体はゆらゆらとゆれた。リューシカはその場にしゃがみ込んだ。これは夢だ。全部悪い夢だ。歯の根があわない。呼吸ができない。息ができない。苦しい。これは夢。全部夢。……そう思えたらどんなにか楽だろう。リューシカは自分がしたことの、その罪の重さを思って慄然とした。本当に死ぬなんて。死んでしまうなんて。自分がこれを望んだ? 自分の悪意が人を殺したの?

 花の切迫した呼吸が聞こえる。荒い呼吸を繰り返している。リューシカは慌てて花を見る。青ざめた顔で、花は自分の胸を押さえている。過換気症候群かもしれない。最近ではペーパーバッグ法なんてしない傾向にあるけれど。でもこんなとき、咄嗟のときにはどうしたら……。

「花っ」

 リューシカは掠れた声で呼びかける。どうしよう。自分自身のことなら対処も容易いのに。

「花、落ち着いて。ゆっくり呼吸をして。大丈夫。大丈夫だから」

 リューシカは花の下に這っていく。花は返事をしない。リューシカを見ない。おかあさん、おかあさん、と呟きながら切迫した荒い呼吸を繰り返している。リューシカが花の体を抱きしめる。ぎゅっと、強く、抱きしめる。お願い、わたしを見て、そう呼びかけながら。

「わたしを見て。わたしだけを見て。ゆっくり、ゆっくりと呼吸をして。お願いっ」

 花の目は何も映していない。それは死者の目だ。リューシカは口元を手の甲で拭う。嘔吐してすぐなので口の中が気持ち悪い。でも、そんなこと、構っていられない。

 リューシカは自分の口で花の口を塞ぐ。舌と舌を絡ませ合う。貪るように口づけを交わし、花を床に押し倒す。リューシカは自分自身の体を花に預けた。それが最良の方法だと信じて。

 花の目に涙が浮かんでいた。一瞬正気に戻り、そして狂ったように泣き叫んだ。

 花の母親が虚ろな瞳で、そんな二人を見下ろしていた。ゆらゆらと、小さくゆれながら。


 そのあとどうしたのか、リューシカは覚えていない。自分のスマホから警察に通報したような気もするが、それだって確かとは言えない。しばらくするとパトカーのサイレンが近づき、周囲の家々から人が出てきて、家の周りを取り囲んだ。それも本当にあった場景なのかどうか、よくわからない。覚えているのは震えながら花をずっと抱きしめていたこと。ただそれだけだ。

 それに続く一週間は目まぐるしく過ぎていった。警察の事情聴取があった。司法解剖があった。よくわからない色々なことがあった。リューシカは調書を取られ、読み聞かせられた上で署名と捺印をさせられた。けれども自分で喋ったことも聞かされた内容も、まるで現実味がなかった。自宅から押収された男のパソコンには花の下着姿や入浴時の様子を隠し撮りした画像が大量に保存されていた。乱暴されたときの様子を映したビデオやカメラも見つかった。花が義理の父親を刺した場面も映っていた。花はそれを逐一見せられたらしい。警察は母親が写真やビデオを見つけて逆上し、夫を刺したのだろうと結論付けた。そして自殺したのだろう、と。それに花には不在証明があった。事件が起こったとき、リューシカとずっと一緒だったのだ。

 リューシカは花との関係を訊かれた。事件があった日、リューシカのアパートに花が泊まった理由を訊かれた。花が学校をサボってリューシカのアパートに度々訪れていたこともなぜか警察は知っていた。リューシカは一瞬言葉に詰まり、それでも、

「家に泊めたのは花がわたしの友人だからです」

 と答えた。事件前夜に母親のスマートフォンに電話をかけたのはあなたですか、と訊ねられ、リューシカはそうです、と素直に答えた。けれど、それに続く言葉は嘘だった。

「花は誰にも何も告げず、着の身着のままでわたしのところに逃げて来ました。だからお母様がきっと心配していると思って、電話をしたんです。そのときにお母様には、花は今ぐっすりと眠っているから心配しないでください、とお伝えしました」

 そのときに花さんが乱暴されたことを言いましたか。

 いいえ。リューシカは首を横に振る。そんなこと、話せるわけがないじゃないですか。

 着信履歴を消したのはどうしてですか?

 花に内緒にしておきたかったんです。リューシカは俯きながらそう言った。それだけは本当のことだった。

 二人の関係に曖昧な点や不審さがないとは言い切れなかったが、結局事件の帰結を変えるほどのことではないと判断された。瑣末なことだと思われたのだ。そして花とリューシカは解放された。でも、身も心もボロボロになっていた。疲れ果てていた。特に花は憔悴しきっていた。花への事情聴取はリューシカに対するそれよりも、よほど辛かったに違いない。

 花には類縁がいない。母方の血は絶えている。義理の父親側の親族はいるが、今回のことで絶縁となった。義理の父親の遺体の受け取りも拒否した。九月一日の葬儀には母親の遺体だけが棺に収められた。これはあとでわかったことだが、母親は妊娠していたらしい。だからそれは花の弟、或いは妹の葬儀でもあった。もっとも、弟妹は骨の欠片すら残らなかったが。

 ……葬儀は滞りなく終わった。花は自宅に帰るのを拒んだ。そこにはまだ血の匂いが染み付いていて、壁や床は汚れたままだった。そんな家に帰りたくない花の気持ちは痛いほど理解できた。でも、どうしたらいいのだろう。どうするべきなのだろう。リューシカは悩む。これから何をしたらいいのかわからない。考えがまとまらない。手続きは山のようにあった。やらなくてはならないことは山ほどあった。でも、今は何も考えたくなかった。

 結局花はリューシカのところに戻ってきた。タクシーの後部座席に並んで座り、大事そうに母親の骨壷を抱えて。ただそれだけを持って。花の着替えはリューシカが見繕って鞄に詰めてきた。花のお気に入りの古びた毛布と一緒に。花のライナスの毛布。それがないと花はうまく眠れない。花に毎回眠剤を飲ませるわけにはいかない。リューシカはそっと毛布の匂いを嗅ぐ。花の匂いがする。花そのものの匂いがする。ガラス窓の外を見ると、空は重く曇っていた。

「お母さんが一緒で……リューシカさんはいいですか。その、気持ち悪くないですか」

 玄関先で花が立ち止まる。俯いている。リューシカは腰を屈めて花の顔を覗き込み、小さく頷いてみせる。大丈夫、気持ち悪くないよ。だって花のお母さんだもの。

 いっそ呪ってくれた方が楽になれるのに。リューシカは罪悪感で押し潰されそうだった。


 夜。夕食の頃にパラパラと降り出した雨は、二十二時を過ぎると叩きつけるような激しさに変わった。トイレから戻ってきた花が、生理がきました、と小さな声で言った。

「いつもより出血の量が少ない気もしますけど」

 ……リューシカは花を抱き寄せ、ベッドにいざなう。花はされるがままになっている。人形みたいに。大丈夫。全部忘れてしまいなさい。わたしが側にいるわ。花の耳元でそっと囁く。

「リューシカさんはいつも、煙草の匂いがしますね」

「……くさい?」

「ううん。いい匂いです」

 リューシカを見つめている。煙草って美味しいんですか。花が静かにそう問いかける。

「吸いたい?」

 リューシカが訊ねる。煙草に手を伸ばす。花は静かに首を横に振る。リューシカの手を絡め取る。体と体が重なる。窓ガラスが風に吹かれてガタガタと鳴る。雨が世界を包んでいる。

「味見だけ、させてもらってもいいですか」

 花の唇がリューシカの唇に触れる。花とリューシカは同時にそっと目を瞑る。大丈夫。ちゃんと鼻で呼吸できる。吐息が舌と一緒に絡み合う。やわらかい。ううん。ざらざらしている。

 口の中でくちゅくちゅと音がして、それが頭の中で反響している。

「——リューシカさんは、おいしいですね」

 唇から銀色の糸を垂らして花が笑う。ぽたぽたとリューシカの頬に、涙を落としながら。

「花」

 リューシカは自分に覆い被さっている花の頬をそっと撫で、囁く。

「わたしと家族にならない? あなたさえよければ、ここでずっと一緒に暮らしましょう」

 花はそれを聞くと顔をくしゃくしゃにして、涙を手の甲で拭いながら、

「どうして家族なんですか? どうして……恋人って言ってくれないんですかっ」

 と、咽びながら泣き続けた。もう嫌っ、もう家族なんて欲しくない、そう叫んだ花の声は、あまりにも悲痛で、痛切で、切実だった。

 風の音がする。雨が世界を覆っている。まるで世界の終末を告げる、天使の喇叭のように。

 嗚呼。リューシカは思う。

 ……このまま世界が、終わればいいのに。

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