第5話 八月二十四日(木)

 どこかで近所の子供が遊んでいるのだろうか。夜空に花火の閃光がパッと散った。リューシカはハードカバーの本から視線を上げ、夜空を見つめた。次の花火は上がらなかった。見間違いだったのだろうか。ううん、違う。違うと思う。ただ飽きてしまっただけかもしれない。

 リューシカは枕元に置いてあった煙草を一本引き抜き、火をつけた。小説の続きを読み進めようとして、手元に灰皿がないことに気づいた。少し離れたテーブルの上にそれは置いてある。手を伸ばしかけて、でも、なぜだろう。この前死んだ少女のことを思い出した。

 三人目。彼女もまだ十六歳だった。不潔恐怖から手洗いがやめられなくなり、学校にも通えなくなった典型的な強迫症で、毎日お風呂に六時間も入り続けた。人が触ったものには一切触れられず、頻回な手洗いのせいでその手指は荒れに荒れ、ガサガサに乾いてひび割れていた。抜毛してしまうため頭皮の状態もひどかった。児童思春期病棟に入退院を繰り返していたのだが、今回は高校生になったので第五病棟に——リューシカの病棟に——入院する予定だった。

 その彼女がなぜか突然両親を刺し殺した。

 玄関の隙間から血が川のように流れていて、不審に思った近所の人の通報で警察が出動した。彼女は玄関で泣きながら切断した母親の腕を食べていた。錯乱していたこと、入院歴があることからリューシカの病院に搬送されたが、その途中警察車輛の中で暴れ、警官が押さえつけると真っ黒な血を吐いた。内臓が潰れたらしい。病院に到着したとき、既に彼女は死んでいた。

 リューシカは考える。三つのケースに共通しているのは全員が若い女性であること、最初は全く別の精神疾患だったはずなのに皆同じ死に方をしていること、あとはなんだろう。何かを見落としている気がする。けれどもそれが何かわからない。ただ、これは本当に自分の知っている精神病の範疇に入るのだろうか。ミラ・マリア・ステーシーが実際に診察し、小説に仕立てたという〝病気〟は果たして現実に起きている事象と同じものなのだろうか。本当にそう言い切れるのだろうか。寂しい。寂しさに耐えきれなくなると誰かの肉体を食べようとする。体が腐っていく……。リューシカはかぶりを振る。そんな精神疾患がこの世にあるとは到底思えない。なのに加速級数的に患者は増えている。ならばそれは精神疾患なのに伝播、もしくは感染するのだろうか。感染するとしたらその源はどこからきたのだろう。感染経路は空気感染なのか飛沫感染なのか、それとも接触感染なのか。どうして若い女性しか罹患しないのか……。

 リューシカはぱたりと本を閉じる。煙草を灰皿に押し付ける。もう仕事のことを考えるのはやめよう。今日は生理の初日で、ただでさえ頭の中はぐちゃぐちゃなのだから。

 目を瞑り、リューシカは息をつく。日中は花が来てくれていた。ずっと側についていてくれた。鏡で自分の顔を見ても生きている人間の顔に思えないのに、花だけは、いつもの花と同じに見えた。そのことにリューシカは安心した。安心して、自分は生きていてもいいのかもしれない、と思えた。お腹がしくしくと痛むのは、生きている証なのだと思うことができた。

 呪い。けれどもこの呪いはいつか本当に、消えてくれるかもしれない。

 リューシカは手にしていた本をサイドテーブルの上に置く。王寺謙也の小説、『ステーシーの頌歌』。それは一花の言葉を裏付けるように、本屋の一番目立つ場所に平積みにされていた。

 小説の中では可憐な少女たちが次々とゾンビ化していく。死んでゾンビになった少女たちは以前の記憶を保っている。けれどその心に巣食うのは、激しい飢えと寂しさだけ。やがて理性を失い、人を襲うようになる。けれども罪悪感を忘れてしまったわけではない。彼女たちは自分をもう一度殺して欲しいと家族に、愛する人に懇願する。——お願い、わたしを殺して。と。

 ただこの小説に出てくるゾンビ像は、少しばかり奇異だとリューシカは思った。発生事由が不確かでパンデミックが起こらない。十代の少女だけがアトランダムにゾンビ化していく。だから男たちは自分がゾンビにならないことを知っている。そして狩る側の男たちは、絶対的な強者として描かれている。リューシカは一花の言葉を思い出す。一花はゾンビとは無個性が個性を駆逐していくメタファーだと言った。けれども少女たちには人格があり、背景と苦悩とがあった。一花はゾンビとは拡散のメタファーだと言った。けれどもここに書かれた少女たちは自分では仲間を増やせない排除されるべきマイノリティーとして描かれていた。小説の中の少女たちは個を持ちながらもそれを黙殺されてしまった他者だった。排斥してもいい、攻撃しても良心の呵責を感じないで済む、弱い他者だった。『ウォーム・ボディーズ』のような近年に見られる共存することのできる相手としては描かれていなかった。どちらかといえばゾンビになってしまったのだから何をしてもいいという男たちの欲望が全面に押し出されていた。

 小説の中で彼らは、少女たちが流すハーブティーの香りのする血に酔って、罪の意識を簡単に捨ててしまう。最初は少女たちが可哀想だという理由で再殺していたはずなのに。いつの間にかその行為に嗜虐的な快楽を見出していく。相手が一度死んでいるから、ゾンビだから何をしてもいいのだ、というこの考え方は、以前に観た『Miss ZONBIE』に少しだけ似ている気がする。そしてこの小説が流行るのが世相なのだというのなら。それは他者を受け入れることのできない内向きな世界に対する迎合と賛同なのだろうか。それとも……皮肉なのだろうか。

 リューシカは思う。一花が言及したように、もしも現実の少女たちがこの小説の中の少女たちとリンクするようになったら。……この世界はどうなってしまうのだろう。現実の世界でも心の箍が外れてしまったら。彼らは精神を病んだ少女たちにいったい何をするのだろう。

 あまり知られていないが第二次世界大戦当時、ナチスドイツは障害者を徹底的に排除した。障害者は「遺伝病子孫予防法」の名の下に断種された。そして最後にはガス室に送られた。それは「最終治療」と呼ばれた。けれども最も重要なのは、「A・ヒトラー」のサインによってT4指令という名で開始されたこの極秘の命令が、社会的な優生学の萌芽や台頭といった背景があったにせよ、とある市民の嘆願から始まっているという点にある。障害のある娘を安楽死によって救ってほしいと父親は言った。「慈悲の行為」と呼ばれたそれはやがて大量虐殺という形で芽吹いていく。ミュンスターの司教であったクレメンス・アウグスト・フォン・ガーレンが怒りの声をあげるまで。けれどもそれは始まりで、そのときのノウハウはホロコーストに繋がっていく。またその陰で、戦争が終わっても、障害者は殺され続けた。彼らは収容先で食事も与えられずに餓死させられた。それはヒトラーが許可した殺人の範囲さえ逸脱していたのだ。

 ドイツ精神医学精神療法神経学会はこのことに対して永くコメントを避けてきた。正式に謝罪したのは二〇一〇年のことである。ただ、これはドイツにおいて極端だったというだけで、他の国々がノーマライゼーションの考え方を最初から採択していたわけではない。日本においても旧優生保護法によって妊娠するのに不適切とされた精神障害者は半強制的に不妊の手術を受けさせられた。その被害者に対する調査も救済も、全く進んでいないのが現状だ。差別はどの国にも存在した。弱者を排除する論理はどこにでも存在した。他者に対して相手は自分とは違う、攻撃してもいいのだ、という理論を得たとき、人間は際限なく残酷になれるのだから。自分が向こう側の住人になるかもしれない、排除される側になるのではないかなんて、欠片も思わずに。たとえ心をよぎってもそれを集団心理の中で押し潰し、気づかないふりをして。……ううん、違う。気づいていて、それでも尚、人は他者を作り、他者を排除することをやめない。

 積極的に攻撃するか、それとも見て見ぬ振りをするのか。本質は今も何も変わらない。

 ステーシーの頌歌。……頌歌オード? それは一体誰に対する、何のための頌歌なのだろう?

 リューシカはベッドから起き上がり、睡眠薬を飲もうと思ってペットボトルの蓋を開けた。そして何気なく窓の外を見た。街の明かりがチラチラと光っている。やっぱりもう花火は終わってしまったのかもしれない。リューシカはベッドから出て窓辺に立つ。夜を見つめる。花がここに泊まったことはないけれど、もし、そんな日がいつか来るのなら。一緒に花火がしたい。一緒に並んで花火をしたい。そう思って通りを見下ろした、そのときだった。制服姿の花が部屋を見上げていた。……花? どうして? 花に見えたその少女は、顔を背けて駆けて行く。

 どうして逃げるの? リューシカは困惑する。わからない。夕方になる前に花は家に帰ったはずなのに。……どうしてあの子がここにいるの? 本当に……花だったの?

「花っ、待って」

 窓を開けてリューシカは叫ぶ。少女がビクッと体を竦ませる。振り返る、視線が絡まる。花。それはやっぱり花だった。再び走り出す。逃げていく。……リューシカから。

 リューシカは薄手のカーデガンを羽織って急いでアパートを飛び出した。通りに出て左右を見回す。どっち? どっちに行ったの? わからない。それでも駆け出す。心臓が早鐘を打っている。気持ちばかりが急いていく。滴る汗を拭い、リューシカは走り続ける。けれども、やはりどこに向かったらいいのか一瞬迷う。振り向こうとする。足がもつれる。小さな悲鳴をあげる。サンダルが脱げて派手に転ぶ。痛い。すごく痛い。ぐうっと声にならない声で呻く。

 ……リューシカは日中の出来事を思い出す。青い顔をしてラグの上に蹲っているリューシカを、背中からそっと抱きしめながら、花は優しい手でリューシカの頭を撫でていた。リューシカさんは温かいですね。とくんとくんと心臓の音がします。いい匂いです。だから。

 だから、生きている。死んでなんかいない。そう、言ってくれた。そう言ってくれたのに。

 リューシカは起き上がる。パジャマの膝が破れて血が滲んでいる。舌打ちする。大きくため息をつく。サンダルなんて履いてこなければよかった。リューシカは目を瞑る。——考えろ。

 花は……どうして戻ってきたのだろう。彼女は確かに家に帰ったはずだ。と、するならば、……家で何かがあったのだろうか。日中は私服だった。それが制服に変わっていた。だから家には一度帰ったはず。でも、家にいられないような何かがあった。それはいったいなんだろう。

 ううん。違う。そうじゃない。

 リューシカはかぶりを振る。問題は家にいられなくなった理由ではない。家にいられなくなったのなら、どこにも行く場所がないということなのだ。それで花は再びここに戻ってきた。でも、気が変わったのだろうか。花はリューシカの顔に、その向こうに、何を見たのだろう。

 行く宛てのない花は、どこに向かうだろうか。……ううん、違う。それも違う。リューシカはもう一度強くかぶりを振る。自分なら。自分だったら、いったい……どこに行くのだろうか。

 リューシカは再び駆け出す。すぐに息が乱れる。それでも走り続ける。ようやく目当てのその場所にたどり着くと、肩で息をしながら、フェンスに体を預ける。闇夜の中で緑の針金の連なりが、ガシャンと嫌な音を立てる。呼吸を整える。汗を拭う。リューシカはさっと通りの左右を見回して誰もいないことを確かめる。茂みの陰の金網の隙間から、そっと中に入り込む。

 そこは湿った土の匂いがする。生ぬるい風と蝉の声。鬱蒼とした樹木が頭の上を覆っている。古く、表面も削れて名前もわからなくなった墓石が、暗闇の中で苔むしている。……ここは打ち捨てられた外人墓地。審判の日まで死者が眠る場所。花とリューシカの初めて出会った場所。

 街灯もない真っ暗な墓地を、リューシカは歩いていく。朽ちかけたベンチが見える。そしてそこにしゃがみ込む、小さな人影も。今日一日ずっと側にいてくれた、愛おしい少女の姿が。

「花」

 リューシカは目の前に立ち、声をかける。花の唇が震えている。風が強く吹いて木立をゆらし、月の明かりが一瞬花の頬を白く浮かび上がらせる。そこにある、涙の跡も。

「……リューシカさん」

「どうしてわたしから逃げたりしたの?」

 花は答えない。沈黙している。のろのろと顔を上げ、じっとリューシカを見上げている。

「……どうしてここだと思ったんですか」

 リューシカは花の隣に腰を下ろし、そっと頭を抱いた。汗だくで、本当は触れたら花を穢してしまうのでは、と思ったのだけれど、どうしても、花の肌に触れたかったのだ。花の髪はやわらかく、そして冷たかった。まるで人形のようだと思った。まるで、死者のようだと……。

「わたしだったら、と思ったの。辛いときはきっとここに来るだろうなって。それだけよ」

 花が自分に似ているから。リューシカは優しい声で呟く。あなたは、わたしだから。

 リューシカの言葉を聞き、花は小さく笑みのようなものを作ろうとして、けれども結局唇を歪め、静かに泣きだした。汗水漬くのリューシカのパジャマに顔を埋めて。声を殺しながら。

「ずるいです」

 花がくぐもった声で言った。そしてまた沈黙した。蝉の声が夜の闇を浮かび上がらせる。リューシカは黙って花の言葉を待った。咽び泣く声だけが、葉擦れの音に混ざっている。

「どこにも行くところがなかったんです。誰にも相談できなくて、ふらふらと……アパートまで来ちゃったんです。窓から光が漏れていて、それで、自分の姿を見下ろしたら、……血が」

 ……血。リューシカは訝しく思う。花の顔を見つめている。花はいったい何を伝えようとしているのだろう。ただそれだけを思いながら、じっと見つめている。

 花がリューシカを見上げた。そして涙に濡れた声で、


「わたし、人を刺しました。殺そうとしたんです」


 と言った。リューシカは咄嗟に、自分の胸に花の頭を押し付けた。きつく抱きしめながら慌てて左右を見た。誰もいない。もちろん、誰もいるはずがない。ここにいるのは死者だけだ。

「リューシカさん、わたしどうしたら」

 胸の中で花が震えている。雛鳥のように。親からはぐれた子猫のように。

 喉がカラカラに乾いている。言葉が出てこない。目の前が赤く染まっていくようだ。

 そしてリューシカは、なぜ今日なのだろう、と思う。どうしてよりにもよって、今日なのだろう、と。ギュッと唇を引き結ぶ。花の啜り泣く声が胸の内側から聞こえてくる。

「何があったのか訊いてもいい?」

 腕の力を解き、花の顔を上げさせる。頬が涙で濡れている。花は首を横に振る。

「お願い。……花?」

 リューシカが囁く。そして唐突に思う。この子のことを、自分は何も知らないのだと。

 花は重い口を開いて、自分の身に起きたことを一つひとつ話し出した。それは悪夢のような話だった。ううん、違う。花にとっては悪夢そのものだったのだ。

「お母さんの再婚相手に……義理の父親に押し倒されたんです。必死に抵抗したんです。でも、駄目でした。駄目だったんです」

 リューシカは息を飲む。ぐにゃりと世界が歪んでいく。崩れていく。粉々に砕けていく。

「服を脱がされて、全部終わったあとで、わたし……あいつを刺しちゃいました。あいつ床に転がりながら、何かわめいていて……。ああ、酔っていたみたいなんです。でも、そんなこと関係ないですよね。あれ? ……なんでわたし、制服なんか着てきちゃったんだろう」

 花の瞳から透明な液体がとめどなく流れていく。頬を濡らしていく。もう一度強く花の頭を抱きかかえる。ごめんなさい、とリューシカが呟く。辛いことを思い出させてごめんなさい。

 闇の中。リューシカの灰色の目が炯々と光っている。歯を噛み締めると、奥歯がぎりっと嫌な音を立てた。花は自分だ。リューシカは思う。強く思う。花はもう一人の自分だ。

 心の中が怒りと絶望で真っ黒に塗り潰されていく。神様はどうして花を見捨てたのだろう。どうしてわたしたちを救ってくれないのだろう。どうして。……どうして?

「大丈夫。大丈夫よ。花。……わたしがいる。ずっと側にいるわ。だから」

 だから、どうしたらいいのだ。どうするべきなのだろうか。リューシカは花の頬にそっと唇を寄せる。涙は鹹くて苦い、後悔の味がした。それはリューシカがよく知っている味だった。

「リューシカさん?」

「わたしのところにいらっしゃい。アパートに帰りましょう。……ね?」

 立ち上がる。花の手を引く。湿った土の匂い。生温かくてぬるい風。さようなら、わたしの死者たち。リューシカは心の中で呟く。またあとで。復讐のときまで。それまで眠っていて。


 花にシャワーを浴びさせているあいだ、リューシカは爪を噛みながら、スマホで孝太郎に電話をかけた。早く、早く。コールが繰り返されるたびに焦りが募る。花が浴室を出るまでに。それまでに。早く。——もしもし、と孝太郎の声がする。リューシカは一瞬言葉に詰まる。

「リューシカ? ちょうどよかった。今電話しようとしていたところなんだ。今日は……」

「孝太郎、お願い。助けて欲しいの」

 声をかぶせる。生存確認なら間に合っている。電話の向こう側の気配が一瞬で変わった。

「何があった?」

「お願い。何も訊かずにアフター・ピルを処方して」

 沈黙が耳に痛い。リューシカは孝太郎の返事をじっと待っている。

「——そんなものをどうするんだ。まさかリューシカ、君が使うの?」

「何も訊かないでって言ったわ」

「僕は精神科医でそれは産婦人科のドクターの範疇だ。そのくらい君にもわかるだろ?」

 諭すような孝太郎の口調にリューシカは唇を噛む。シャワーの音が止む。時間がない。

「……乱暴された女の子を匿っているの。だから」

「なら警察に」

「駄目っ。警察沙汰にはできないの。お願い。助けて」

 孝太郎のため息が聞こえた。

「……事情があるんだね」

「ごめんなさい。でも、あなたしか頼れる人が思い浮かばなかったの」

 もう一度大きなため息が聞こえて、わかった、すぐに行く、と孝太郎が言った。リューシカがありがとうと言う前に電話は切れた。花が部屋に戻ってきたのはそのすぐあとのことだった。

 花にはリューシカのパジャマを着せた。小柄な花には大きくて、袖や裾を捲っている。濡れた髪の下の目は真っ赤だった。それは痛々しいほどの赤だった。リューシカはぎゅっと、手を固く握った。爪が手のひらに喰い込んでいた。胸が苦しい。息ができない。それでも。

 リューシカは微笑んでみせる。……うまく笑えているか、わからないけれど。

「髪が濡れているわ。こっちにいらっしゃい。乾かしてあげるから」

 手招きする。花はおとなしくラグの上に座り込む。リューシカはそっと後ろから花を抱きしめる。冷たい。今までシャワーを浴びていたはずなのに。花の体は氷のように冷たい。

 花が振り返る。目を伏せている。

「リューシカさん」

「……どうしたの」

「リューシカさん。煙草の匂いがしますね」

「くさい?」

「ううん。くさくないです。……安心する。とても。ごめんなさい。……ごめんなさいっ」

 嗚咽が漏れる。花が肩を震わせて泣いている。悔しい。すごく悔しい。本当に殺してやればよかった。そう言って花は泣き続けた。リューシカはずっと花を抱きしめていた。涙は出なかった。ただ、燃えるような目で、壁の一点をいつまでも睨みつけていた。


 孝太郎からのメールが届いたとき、花は泣き疲れて浅い眠りに落ちていた。ラグの上で。リューシカの膝の上で。リューシカは花の肩を揺り動かして、花、と声をかけた。

「……リューシカさん。わたし……?」

「少し眠っていたわ。今日はわたしのベッドを使って」

「リューシカさんは?」

「わたしも一緒に寝てあげる。でも先に行っていて。温かいお茶を淹れていくから」

「……はい」

 花が奥の部屋に消える。暫く気配を伺う。リューシカは先ほどのメールをもう一度確認する。

【阪上孝太郎より】

『着いた。部屋の外で待ってる。』

 そっと玄関まで行って扉を開ける。そこには渋い顔をした孝太郎が手すりを背にして立っている。リューシカは外に出て、ごめんなさい、と小さな声で謝り、頭を下げた。孝太郎は扉が閉まる瞬間、ちらりと玄関の中を見て、

「僕が六月に来たときに居た人……だね」

 と言った。リューシカはびっくりして、慌てて声を飲み込んだ。確かに御心女学館指定の、編み上げのショートブーツは、目を惹くかもしれない。でも、孝太郎の目敏さに驚いている。

「それより、本当に警察に届けなくていいのか。本人は辛いかもしれないけれど、犯人を……」

「乱暴したのは彼女の義理のお父さんなのよ。……まだ高校生なのに」

 リューシカは奥歯を噛み締めて、呻くようにそう言った。孝太郎が深いため息をついた。

「そうか。それで君は親身になったわけだ」

「……どういう意味」

「そのままの意味だよ。自分の中学生時代を思い出したんだろう? その頃の、地獄みたいな日々のことを。リューシカ、君のコタール症候群に似た症状は必ず生理のときに現れる。それが何に起因しているか、君だって忘れたわけじゃないだろう?」

 リューシカはキッと孝太郎を睨みつける。

「……今日は随分お喋りなのね」

「嫌味の一つも言わせてもらいたいね。これは忠告だけどね、僕はその子にはなるべくなら関わらない方がいいんじゃないかと思う。君自身自分の過去をまだ受容できていないのに、どうして傷口に塩を塗るような、瘡蓋を剥がすような真似をするんだ? それとも自分に似た女の子を哀れむことで、自分が癒されるとでも思っているのかい?」

 リューシカは答えない。燃えるような目で、孝太郎を見つめている。

「僕はあくまで君の同僚であって、学恩のある川辺先生の代わりに主治医の真似事をしているだけに過ぎない。便利屋じゃないんだよ。だから今後こういうことに巻き込むのはやめて欲しい。……僕は君が好きだ。でも、僕の好意に期待し過ぎないでくれ」

 リューシカが息を飲んだ。ごめんなさい、と呟くと、孝太郎はそう返されると余計に惨めだなと言って小さく笑った。そしてポケットから薬袋を取り出してリューシカに渡した。

「アフター・ピルとしては古いタイプの薬だから、一回目を飲んだら十二時間後にもう一錠飲ませてあげて。もしかしたら副作用でひどい吐き気が出るかもしれない。三日間、遅くても三週間のあいだに出血があれば妊娠は回避できたと思っていいよ」

「……ありがとう」

 背中を向けて去っていく孝太郎を見つめて、リューシカは心の底から打ちひしがれていた。孝太郎が好意を持ってくれていることは薄々気づいていた。気づいていて、それに甘えていた。……自分はなんて嫌な女なのだろう。胸が苦しかった。好きだと言われたことが悲しかった。自分が怒らせたりしなければ、孝太郎はきっとリューシカに告白なんてしなかった。

 お茶と水を用意して寝室に行く。花がじっと天井を見つめている。リューシカも天井を見上げる。そこには何もないように思える。あるいは花には何かが見えているのだろうか。

「花。お薬を飲んで」

 リューシカはそっと声をかけ、花の体を起こす。

「薬、ですか……?」

「ええ。わたしがいつも飲んでいるよく眠れるお薬と、……望まない妊娠を回避する為のお薬」

 花の表情がさっと青ざめた。避妊できなかったのでしょう、と訊ねると、花は小さく頷いた。

「これ以上辛い思いをしないために、飲んだ方がいいわ。このお薬を飲むと気持ちが悪くなるかもしれないから、そのときにはわたしに教えて」

「……はい」

 錠剤ををシートから取り出す花の手が、可哀想なくらいに震えている。

「リューシカさん、来るのが遅かったのは……これを」

「……そうよ」

 花が服薬するのを、リューシカはじっと見ていた。花の魂も殺されてしまった。死んだ魂は未来永劫甦ることがない。死んだ魂を抱えて生きているのなら、それはもう死者なのだ。

 震えている花の肩をリューシカはぎゅっと抱きしめる。憎い。絶対に許さない。そう思う。そう思いながらリューシカは花を抱きしめている。いつまでも。いつまでも。いつまでも。


 深夜。リューシカは花の荷物を漁っていた。花のスマホを探し出し、電源を入れる。ロックがかかっている。パスコードがわからない。リューシカは煙草に火をつけて、暗闇に浮かんだ液晶の明かりを睨む。花は眠剤のせいもあってか、ぐっすりと眠り込んでいる。

 胸に溜まったもやもやを深いため息と共に吐き出すと、それは紫煙になって天井の辺りを漂った。リューシカは薄暗い空虚な暗闇をじっと見つめていた。パスコード。花の誕生日は確か十一月二日のはず。しかし打ち込んだ数字はエラーになってしまう。煙草のフィルターを強く噛む。リューシカは考える。花が選ぶ数字はなんだろう。花の好きな数列はなんだろう。

 ふと思い立って、リューシカは自分の誕生日を入力する。0515。画面が変わる。液晶にアプリケーションのアイコンが次々に浮かぶ。リューシカは小さく笑みを浮かべる。そういえば出会って間もない頃、リューシカが自分の誕生日を伝えたときにはすでに日が過ぎてしまっていて、花は残念がっていた。教えてくれたらお祝いできたのに、と。……けれどもまさか自分の誕生日がパスコードに設定されていたなんて思ってもみなかった。嬉しい誤算だった。

 メールが何件も届いている。それを無視して電話のアイコンを開く。アドレスはほとんど登録されていない。ひどく寂しい。リューシカは〝お母さん〟と表示された番号をフリックする。静かに自分の耳に宛てがう。

 コール音が聞こえる。心臓がドキドキしている。リューシカは自分の胸に手を当てる。

「——もしもし? 花? 花なの? 今どこにいるの? お願い、返事をしてっ」

 すぐに繋がり、ひどく慌てた女性の声が聞こえた。リューシカは咥えていた煙草を灰皿に押し付け、新しい煙草に火をつける。その口元には義姉にも似た酷薄な笑みが浮かんでいた。

「こんばんは。花のお母様でよろしいでしょうか」

 眠っている花を見つめる。やわらかな横顔、規則正しい寝息が聞こえている。

「……誰? あなたいったい誰なのっ? は、花は? 花はどこですかっ?」

「わたしの隣で眠っていますわ。申し遅れました。わたしは花の友人で、精神科の看護師をしております。……花からわたしのことを聞いたことは?」

「ちょっと、花は無事なんですか?」

 質問に質問で返すなんて礼儀知らずもいいところだ。リューシカは舌打ちする。母親が息を飲むのがわかる。手に取るようにわかる。母親の怯えが、リューシカの嗜虐心を煽り立てる。

「ねえ、お母さん。花が家を飛び出した理由をあなたは本当に知らないの?」

「え?」

「……え、じゃなくて」

 紫煙を吐き出す。煙草を灰皿に押し付ける。

「ど、どうしてそんなことを見ず知らずのあなたに言わなきゃいけないんですか?」

「別に知らないなら知らないでいいんですよ。わたしが困るわけじゃないもの」

 母親がごきゅっと喉を鳴らしたのが聞こえた。

「夕方、夫と学校をサボっていることで口論になって、急に果物ナイフで刺して……と」

「あなたの新しい旦那様がそうおっしゃったの? ふうん。……あなたはそれを信じるのね?」

 軽蔑しきったリューシカの声に、電話の向こうの沈黙が、鈍い、重い塊になっていく。

「……違うの?」

「さあ。どうなのかしら。花が学校をサボってわたしのところに来ていたのは確かだけれど」

 スマホを持ち変える。

「ところであんたの男は今何をしているの? 果物ナイフなら大した怪我じゃないでしょう。病院で縫合ナートしてもらって痛み止めでも飲んで眠っているのかしら。警察には届けた?」

「そ、そんなことしてませんっ。夫が不注意でしたことだってお医者様には」

 リューシカは母親の言葉を途中で遮る。それが聞ければ十分だ。

「花にはさっき、睡眠薬と一緒にアフター・ピルを飲ませたわ。緊急避妊薬って言った方がわかりやすい? ねえ、それがどういう意味なのか、あんたにだってわかるでしょう?」

 新しい煙草を咥え、けれども火をつけずに、リューシカは言った。電話の向こう側でまさか、そんな、と弱々しい声が聞こえてくる。花の髪を優しく撫でる。花はぴくりとも動かない。

「否定したいなら否定すればいいわ。けれども全部あんたの男がしたことよ。だから花に刺されたのよ。いい気味だわ。でも死ななくてよかった。死んだら花の一生が台無しになってしまうもの。でも、死ねばよかったのにね。いっそのことあんたたち二人とも死ねばいいのに。そうしたらわたしが花を引き取ってあげるのに。わたしが、花とずっと一緒に居てあげるのに」

 リューシカは人間が嫌いだ。男も女も大嫌いだ。だから。みんな死ねばいい。こいつも、こいつの男も、みんなみんな死んで動かなくなればいい。本物の屍体になればいい。

「花が学校をサボるのも、わたしのところに逃げてきたのも、最初からそこに居場所がなかったからだわ。花は帰さない。……あんたなんかに花は渡さないわ」

 冷たい声で吐き捨てる。一方的に通話を切り、電源をオフにする。深い深いため息をつく。指先が痺れている。どうやら知らないあいだに過呼吸気味になっていたらしい。

 煙草に火をつける。リューシカの唇が震え、そして自然と笑みが零れる。乾いた笑い声が夜のしじまに消えて行く。花は静かに寝息を立てている。あどけない表情で眠り続けている。リューシカは思う。花をずっとここに留めておくことはできない。そんなことはわかっている。でも、……もう手放したくない。この子はわたしのものなのだから。……ううん、違う。

 花はわたしだ。花を見つめて、心の中で呟く。わたしは自分を、花を救わなければならない。なぜならわたしたちは魂を失って尚、生者を喰らって生き続けなければならないのだから。

 今日は生理の初日。呪いの日。リューシカは自分が狂っていることを知らなかった。

 リューシカは知らなかった。自分の吐いた言葉が、どんな結末を生んだのかを。

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