第4話 七月二十二日(土)

 七月は憂鬱だ。生理が月に二回来る。リューシカはかぶりを振る。一回目の地獄は終わった。二回目については、今はまだ考えたくない。たとえ一週間後にはその渦中にいるのだとしても。

 リューシカの生理はそれほど長く続かない。三日、或いは四日。その期間さえやり過ごすことができれば、我慢できれば、リューシカは正常でいられる。正気でいられる。いっそのこと子宮を摘出して仕舞えばいいのだろうか。子供なんていらない。そんなもの、欲しくない。

 リューシカは窓の外を見つめる。列車はものすごい速さで西に向かっている。

 事の発端はリューシカ宛に届いた一葉の手紙だった。義理の母から電話があったとき、リューシカは『Miss ZONBIE』というモノクロのB級映画を花と二人でぼんやりと眺めていた。孝太郎がこのDVDを自分に渡したのは、いったいなんの隠喩だろうと考えながら。それはゾンビとなった女性を男たちがいたぶる話だった。慰みものにする話だった。リューシカは自分の隣に座っている花を盗み見た。花の横顔には感情と呼べるものは何も浮かんでいなかった。

 物語の中盤に差し掛かったとき、ローテーブルに置いてあったスマホが震えた。リューシカは着信相手を確認して、スマホを片手に玄関に向う。もしもし、と声をかけると、久しぶりね、元気にしているの? と少し疲れた女性の声が返ってきた。リューシカの養母の声だった。

「お久しぶりです。どうかしましたか?」

 花がちらりとリューシカを見る。リューシカは音量を下げるように手でサインを送る。

「あなた、弓子ゆみこさんという方を覚えているかしら」

 養母が訊ねる。リューシカは暫しのあいだ考える。ユミコ、ゆみこ……。思い出せない。

「看護学生のときの、あなたのクラスメイトだったのじゃなくて?」

 養母に言われてやっと思い出す。それは一緒の実習グループだった河谷かわたに弓子のことだろうか。リューシカは彼女がどうかしたのですか、と訊ねる。養母は一拍呼吸を置いてから、亡くなったそうなの、と言った。亡くなった。……死んだ? でも、年齢的にも死ぬにはまだ若すぎる。リューシカは思う。事故だったのだろうか。それとも、自殺したのだろうか。

「あなた宛に告別式のお手紙が来ているの。きっと看護学校の頃の名簿を見て送ってきたのね」

 そう言われても。リューシカは返答に困る。学校を出てからは付き合いもない相手だ。年賀状のやり取りさえしたことがない。そんな友人とも呼べない人間の葬儀に、今更出席するのは気が重い。リューシカが黙っていると養母は一つお願いがあるのだけれど、と小声で言った。

「通夜と告別式は彼女の実家の京都で行われるのですって。ええと、それで、なのだけど……」

 養母は言いにくそうに語尾を濁し、少しだけ沈黙してから、

「そのついででいいの。……一花の様子を見てきてもらえないかしら」

 と言った。リューシカは喉の奥に何か硬いものが詰まったようになってしまって、咄嗟に返事ができなかった。嫌だ。あの人には会いたくない。そうはっきり言えたら、どんなにいいか。

「……あの子とも随分疎遠になってしまって。もうしばらく会っていないのよ。あの子がなにをしているのか、なにを考えているのか、わたしにはよくわからないの」

 リューシカにだって義姉がなにを考えているのかわからない。昔からずっとそうだった。母親にすらわからないのであれば、いったい誰があの人のことを理解できるのだろう。

「告別式は七月二十二日だそうよ。お仕事がお休みだったらでいいの。お願いできないかしら」

 頭の中に今月の勤務表を思い浮かべるまでもない。残念ながら七月二十二日は休み。次の日は深夜勤だ。……義理の両親には育ててもらった恩がある。断ることはできない。リューシカはわかりました、行ってきます、と渋々答える。あとで一度お伺いしますから。そう伝えて電話を切る。居間に戻ると気配を察したのだろう、花が心配そうな顔でリューシカを待っていた。

 DVDのプレーヤーは一時停止になっていた。リューシカは開閉式の液晶をぱたりと閉じて、花の体に抱きついた。どうしたんですか、と花は苦しそうに訊ねた。花の手が背中に回る。

「なんでもないわ。でも少しだけ、こうして居させて」

 リューシカは耳元で呟く。花はいいですよ、と返事をする。なんだか赤ちゃんみたいですね。そう言って苦笑している。リューシカは返事をしない。夕闇がアパートの一室を覆っている。

 ……呪いは結局解けなかった。花の口づけでは解けなかった。魔女の呪いはあまりにも強固なのだ。だから。呪いを解くには、呪いをかけた相手に直接会わなければならない。義姉に。

 ——一花に。


 花との関係が少しも変化しなかったわけではなかった。リューシカは花に触れることに、花から触れられることに、抵抗がなくなっていた。むしろ肌を合わせていると穏やかな気持ちになれた。リューシカは思う。人間嫌いだった自分はどこに行ってしまったのだろう。

 それでも、他の人間にまで心を許したわけではなかった。誰彼構わず受け入れたわけではなかった。なぜ花なのか、なぜ花だけなのか、リューシカにもよくわからない。

 告別式の会場を出る。喪服姿のまま蒸し暑い京都の街を一人歩いていく。途中コンビニのトイレで左耳に琥珀のピアスを吊るす。それはロイヤルに近い蜂蜜色。リューシカの本当の母の形見の品である。どうかあの悪魔から自分を守ってくれますように。リューシカは小さく祈る。

 街の中を祇園囃子が流れている。独特なフレーズを奏でる鉦の音。リューシカは足を止めて耳を澄ませる。その音色はどこまでも優雅で、なぜか少しだけ物悲しい。

 一花には事前に一報を入れた。別に構わないわ、という返事があった。素っ気ないが一応は了承したということなのだろう。リューシカはため息をつく。義姉と会うのは何年振りだろうか。少なくとも看護師になってからは顔を合わせていない。出来れば今日だって顔を合わせたくはない。けれども仕方がない。もう、ここまで来てしまったのだから。

 養母に言われた住所を頼りに街を歩く。京都の地番はわかりにくい。何度も道に迷う。さっき見た地蔵堂は今見ている地蔵堂と何が違っているのだろうか。汗が滴り落ちる。のどが渇く。気温は三十度を超えている。蝉の声が雨のように降り注いでいる。リューシカには京都の街が人を惑わせるように作られているとしか思えない。手にした香典返しがひどく重く感じる。

 気がつくと時刻はすでに午後三時を回っている。古い町家の屋根には鍾馗様がいる。リューシカを睨みつけている。リューシカも思わず睨み返す。帰れというなら今すぐ帰りたい。ううん。違う。帰るわけにはいかないのだ。リューシカは絶望的な気持ちで立ち尽くしていた。

「……リューシカ? 遅かったのね。もしかして道に迷ったの? 言ってくれたら迎えに出たのに」

 不意に声をかけられる。振り返っても誰もいない。どこから声が聞こえてくるのかわからない。リューシカはぞっとする。背筋に冷たい汗が流れる。

「そこで少し待っていて。今降りていくから」

 ざらりとした、質感のない時間が流れる。町家の玄関がからりと開く。小さな人影。現れたのは一花その人だった。足を止めたその場所から義姉が出てくるなんて。なんだかたちの悪い冗談のようだ。リューシカは言葉もなく義姉を見つめている。一花がクスッと笑う。

「いらっしゃい。久しぶりね。……どうしたの? とても顔色が悪いわ」

 不意に一花の右手がリューシカの頬に触れる。氷のように冷たい。リューシカは慌てて身を引き、義姉の手を振り払う。一花は一瞬きょとんとして、振り払われた手を見つめている。

 右手。その薬指には、雪を模した銀色の指輪が光っている。

 リューシカは慌てて、小さな声でごめんなさい、と謝る。義姉さんの手が冷たくてびっくりしたの。しかし……まるで死人の、屍体の手のようだったとは、さすがに言えない。

「義姉さんだなんて。寂しいことを言わないで。昔みたいに一花と呼び捨てにしてよ」

 一花は唇の端に小さく笑みを浮かべる。しかしその眼が笑っているようには見えない。

「ただ、お葬式帰りというのは些か無粋ね。ちょっと待っていて。今お塩を」

「式場でもらったものでよければあるわ。でも、一花もまだカトリックでしょう? お清めのお塩なんて気にするの?」

「ここは京都だからね。家の中にまでを持ち込まれるのは困るの」

 一花の言葉が何を意味するのか、リューシカにはわからない。けれども言われた通りに肩と足元に塩を振る。一花はクスッと笑って、じゃあ入ってちょうだいとリューシカを促す。

 町家の中は薄暗い。どのくらい年を経ているのか想像もつかない。不思議と涼しい。建物自体から冷気が放たれているみたいに思えて、リューシカは知らないうちに唾を飲み込んでいる。

 奥の座敷に通される。猫間障子の向こう側に苔むした灯篭と南天の木を植えた坪庭が見える。あれはキリシタン灯篭よ、と一花が囁く。しかしそれらしい装飾は石の表面が削れてしまっていて、確認することができない。ただ、古いのだろうということだけは、理解ができた。

「ここは一花の持ち家なの?」

「違うわ。借りているだけよ。文化財や景観の保護がどうとか、この街には色々あるのよ」

 そう言って一花は笑ってみせた。多少面倒な所はあるのだけれど、この家が気に入っているの、と。するとそのときだった。障子が独りでに開いた。黒い着物の裾が見えた。

「なぁな。新しいナプキンさんどこに仕舞うてはる……ん? お客さんがいてはるの?」

 真っ白い髪の若い女性が立っていて、こちらを覗いて驚いた顔をしている。じっと眼を凝らしている。リューシカは金縛りにあったように動けなくなる。一瞬この家に宿る精なのではないかと思う。それくらいに目の前の彼女は現実離れしている。あまりに美し過ぎたのだ。

 女性の眇めた眼は昏く蒼い、翡翠の色をしている。確かそれは、納戸色と呼ばれる色だ。

「ごめんね、夜々子さん。トイレの棚になかったら納戸にあると思うわ。今見てみるから。ああ、紹介するわね。こちらはわたしの妹のリューシカ。精神科の看護師をしているの」

 リューシカは小さく頭をさげる。夜々子さんと呼ばれた女性はただ首を傾げているだけだった。なぜだろう。どこか視点が定まっていないように見える。リューシカは改めて彼女を観察する。黒い絽の着物の下に七竈の柄が美しく透けている。髪もそうだが、肌が雪のように白い。頬だけが吉野桜のような仄かな色を帯びている。まるで白磁で出来た生き人形のようだ。

「こちらは篠懸すずかけ夜々子さん。わたしと一緒に、この家に住んでいる方よ」

 紹介されて初めて夜々子さんは頭をさげる。一花はちょっと待っていてね、と言い残して、夜々子さんと連れ立って座敷を出て行った。リューシカはひとり取り残されて、そして思い出したように、大きく息をついた。驚いた。夜々子さんという人物に対してもそうだが、まさかあの一花が誰かと一緒に暮らしているなんて。昔の彼女からは想像もつかない。

 高校生の頃の彼女は違っていた。学園ではいつも優等生然として澄ましていたが、基本的には誰とも交わろうとしなかった。女子校という環境にあっても徒党を組むのを良しとせず、普段は無口なのに口を開いたと思えば辛辣な言葉ばかり吐くので友達と呼べる人間も周囲にはいなかったはずだ。家では部屋に閉じこもって出てこない。家事手伝いの類いも一切しない。自分の興味のないことに関しては実に無関心で、いつも冷たい目をして世界を睥睨していた。

 京都の大学に進学してからはあまり実家にも帰っていなかったようだ。大学を出てから就職したという話も聞いていない。彼女が今この街で何をしているのか、だから誰も知らない。

「ごめんなさいね、ばたばたして」

 物思いに耽っているとまた障子が開いて、一花が顔を出した。盆を持っていて、茶碗が二つ、その上に載せられている。客間に緑茶の澄んだやわらかな香りが漂う。

「ところで今日はどうしたの。急にわたしに会いたいなんて言うから。少し驚いたわ」

 座卓に茶を置いて、一花が訊ねる。リューシカは茶碗を手に取りながら答える。

「母さんから頼まれたの。一花が何をしているのか様子を見てきて欲しいって。ねえ、たまには実家に顔を見せてあげて。父さんも母さんも一花を心配し……」

 一花が目を細めている。冷たい瞳で座卓を見つめている。リューシカは何も言えなくなる。まるで蛇に睨まれた蛙のように。背筋が凍りついたようになる。

「……そうね。考えておくわ」

 リューシカは震える手で茶碗を口に運び、一口を静かに啜る。熱いのか冷たいのかもよくわからない。そして、この人はあの頃から何も変わっていないのだと、改めて思う。

「ねえ、リューシカ。今日は泊っていけるのでしょう。さっきお夕飯の仕出しを頼んだの。こっちの料理があなたの口に合えばいいのだけど」

 本当はすぐに帰るつもりでいた。けれど一花を目の前にしたら何も言い出せなかった。

 食事の時間になると、どこからかまた先ほどの女性が現れた。蛍光灯の下で見る彼女の髪はやはり雪のように白い。それを見て、もしかしたら彼女は白皮症なのだろうかとリューシカは考えた。アルビノという名で知られるそれは、メラニンの合成機能を欠如して生まれてくる先天的な体質だ。彼女が家の中を伝い歩きしている様子からもリューシカは自分の確信を深くする。白皮症の人は瞳のメラニンがないために、視力に障害が現れることが多いという。

「お酒飲んではるみたいやけど。一花はもう今日はお仕事せぇへんの?」

 夜々子さんが器用に箸で煮豆を摘みつつ、一花に訊ねている。一花はぬるく燗につけた日本酒をリューシカの杯にそそぎ、自らも手酌でぎながら、どうしようかしら、と呟いた。

「うちも飲みたい」

「少しだけにしておいてね。夜々子さんは酔うとすぐに泣くか寝るかなんだもの」

「ひどい。妹さんの前でイケズして。嫌やわ」

 一花は自分の杯にお酒を満たして夜々子さんに手渡した。夜々子さんは美味しそうにそれを干した。……料理もお酒も美味しいし場は和んでいるし何も問題はないはずなのに。居た堪れないのはなぜだろう。リューシカは二人の会話を聞きながら咀嚼と嚥下を繰り返していた。蛍光灯のサーキュライトが、頭上から白々とした光を三人の上に投げかけている。

「ところでリューシカさんは一花の書いた新しい小説、お読みにならはった?」

「……え」

 不意に訊ねられて咄嗟に答えられない。小説。……小説? この人はいったい何を言っているのだろう。まさか一花が本を書いているとでも言いたいのだろうか。

「一花、作家なの?」

「そやよ? 怪奇幻想文学の旗手なんて呼ばれてはったよね。ええと、なんやったっけ、なんとかいう賞を取らはって……」

「夜々子さん。お喋りが過ぎるわ」

 一花がちらりと横目で睨む。夜々子さんは頬を桜色に染めてくすくすと笑っている。それからも一花が止めるのも聞かずに夜々子さんは杯を重ねていく。リューシカは仕出しの料理を少しだけ残して——そうするのがこの街の礼儀なのだと教わったことがある——箸を置いた。お腹も程よくくちていた。ただ、無性に煙草が吸いたい気分だった。

「うち、なんやもう眠ぅなってしもた」

「赤ちゃんみたいなこと言わないの。お風呂に入ってらっしゃい」

 欠伸をしている夜々子さんに一花は苦笑する。夜々子さんが素直に客間を出て行く。酔っているからなのか、壁を恐る恐る手で触れながら。入り口で振り返る。

「あ、でもお客さんがいてはるのに。それにうち……」

「いいのよ。手伝うことある?」

「ううん。大丈夫」

 足音が遠ざかっていく。リューシカはそっと嘆息する。一花がそんなリューシカを見つめている。

「夜々子さん、可愛いでしょう。あの子の着物ね、わたしが着付けてあげているの。礼法の授業なんて馬鹿にしていたけれど、存外役に立つものね」

 誰に言うでもなく、一花がぼんやりと呟く。リューシカも敢えて返事はしない。

「昔は随分とひどい虐めを受けていたらしいわ。あの容姿のせいで。老舗の呉服屋の一人娘だというのに親は何かの祟りだと言って、彼女に愛情を注がなかったの。来客があると蔵に閉じ込められて出してもらえなかったのですって。あの子の家、今は養子を貰ったそうよ」

 夜の気配が客間に忍び寄っている。リューシカは何も言わずに一花を見つめている。

「ここはね、古い因習に縛られた街なの。だからあの子は疎まれる。嫌われて棄てられる。あんなに可愛いのにね」

「……夜々子さんのことが好きなのね」

 リューシカは複雑な思いを胸に秘めたまま、一花に訊ねる。一花はクスッと笑う。

「ええ。わたしは彼女が好き。夜々子さんが好きよ。肌の色も、髪の色も、目の色も、目がほとんど見えていないことも、全部。全部わたしには愛おしいの。そういうあなたはどうなの?」

「わたし?」

「好きな人はいないの?」

 そう言われて真っ先に思い浮かぶのは花だけれど。リューシカには愛がわからない。誰かを愛することも、愛されることも、自分には無縁だと思っていた。ううん。今でも思っている。

 花のことは、好きだと思う。ただ、それが愛なのかと問われれば、違うような気がする。

「……可哀想な子。あなたはまだあの事件のことが忘れられないのね。本当に可哀想な子。今も自分が呪われていると、罰を受けていると、本気でそう思っているの?」

 リューシカの額に冷たい汗が流れる。事件。あの事件。忘れない。忘れられるはずがない。忘れようと足掻いて踠いた結果、このざまなのだから。リューシカは自分の血を見るたびに思い出してしまう。あの日の出来事をまざまざと思い出してしまう。自分を死者だと、死人だと思い込もうとしてしまう。けれども、……そう仕向けたのは一花じゃないか。

「勝手なことを言わないで。そもそもあなたがわたしを呪ったんでしょう? ……わたしがどんな思いをして生きてきたかも知らないくせに。昔からあなたのそういう所、大嫌いだわ」

「わたしがあなたを呪ったの? 変なことを言うのね。……そういえば夜々子さんが降りてこないわね。眠ってしまったのかしら。少し待っていてね」

 一花は立ち上がると部屋を出て行った。リューシカは俯いて、唇を強く噛みしめた。無駄だった。最初からわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。一花は覚えていないのだ。なにも感じていないのだ。そう思うと徒労感と悔しさで涙が滲んでくる。

 大きく息を吸い込む。吐き出す。落ち着け、と自分に言い聞かせる。ふと顔を上げると部屋の隅の手文庫の上に一冊の本が置かれている。リューシカは引き寄せられるように立ち上がり、手に取ってみる。題名は『お願い、わたしを殺して。』と記されていた。……なんて厭な題名を付けるのだろう。顔を顰めつつ、本をめくってみる。

 リューシカはあまり小説を読まない。読書をしない。だからその小説が面白いのかも多分、よくわからない。冒頭から順に読んでいく。そこには古びた書体の文字が並んでいる。韻を踏むように物語が進んでいく。舞台は冬の京都。深夜。二人の女性が裸で絡み合っていて、

「それ、わたしが書いたの」

「きゃっ」

 リューシカは悲鳴をあげる。本を取り落とす。心臓が早鐘を打っている。いつの間に一花はこの部屋に入ってきたのだろうか。リューシカは全く気づかなかった。

「驚かせないでよっ」

「驚かせたつもりはないわよ。声をかけただけじゃない。夜々子さんたら眠ってしまったの。お風呂の準備はできているから先に入っていいわ。寝間着代わりに襦袢を用意してあるから」

「……一花は?」

「わたしはあとでいい。片付けもしなくちゃいけないから」

 一花がクスッと笑う。そして本を拾い上げて、そういえば、と何気なく口にする。


「あなたの勤める精神病院には全身が腐って死んでしまう女の子、運ばれてくる?」


 どくん、と心臓の音が大きく、耳のすぐ近くで聞こえた気がした。喉がカラカラに乾いて返事ができない。なぜ。なぜ一花がそれを知っているのだ。

「そう。来るのね。関東でも幾つか発症例があるって話を聞いたから、もしかしたらと思っていたの。リューシカ。あなたは『腐りゆく少女たち』という海外の小説を知っているかしら」

「なに、それ」

 掠れた声でリューシカは訊ねる。

「ミラ・マリア・ステーシーという名の女医が書いた古い小説。彼女はミスカトニック大学の英文科を出てから精神科医になった変わり者でね、アーカム・アサイラムで診察中の患者に殺されてしまうまで、そこに勤務した」

 一花は手文庫の上に自分の本を戻した。

「その小説はもう四半世紀以上も前に書かれたの。十代から二十代の若い女性だけが罹患する奇妙な精神病をモチーフにして。彼女たちはね、心の空隙を埋められないと体が腐っていくの。寂しい寂しいと言いながら死んでいくの。寂しさを埋めるために人を襲い、食べようとするの。そうなるともう普通の食事は取れなくなってしまうのですって。まるで砂でも喰むように、食べ物に味がしなくなってしまうから。……似ているでしょう?」

「そんな。だって、小説の中の話でしょ?」

 リューシカの声は震えている。一花がなにを言っているのか、理解できない。

「あら。実際の症例が元になっているらしいわ。当時のミラが診察した本物の症例が。その不可思議な精神病が今、遠く離れた日本で広まりつつあるの。それも急速に。不思議ね。きっとみんな寂しいのね。寂しさに耐えきれないのね。ふふっ。……可哀想に」

 一花が笑う。本当は可哀想だなんて少しも思っていない、それは明らかな嘲笑だった。そこには暗く淀んだ得体の知れない何かが潜んでいる。リューシカの腕にざわりと粟が立つ。

「あなたは寂しいからって死なないでね。わたしが寂しくなっちゃう」

「やめてよ。……ねえ、その小説はここにあるの?」

「小説? 『腐りゆく少女たち』? ないわ。元々が少部数の上に既に絶版になっているし、わたしが持っていた一冊は人にあげてしまったもの」

 一花はそう言うと小さく欠伸をした。

王寺おうじ謙也けんやという作家仲間にあげちゃった。自分の小説に自作の音楽CDをセットにして売るような奇抜な人なのだけれど。リューシカは知っているかしら。マルチで活躍しているからよくテレビにも出ているわ。人気作家の一人だし、名前くらいは聞いたことある?」

 リューシカは答えない。一花は眠たそうに目を擦る。指先が涙で濡れている。

「ない? まあいいわ。出版社の企画で、奇書についての対談をしたときのことなのだけれどね、彼から今こんな不思議な〝病気〟が蔓延しつつあるのを知っているだろうか、あなたが持っているというその『腐りゆく少女たち』を僕もぜひ読んでみたい、少女がゾンビになって人を襲う話の下敷きにしたい、なんて申し出があって。わたしもそう言われてつい嬉しくなっちゃって、はいどうぞって渡してしまったの。同じ怪奇的な幻想文学でも激しいアクションやエログロで知られた人だから、わたしは彼の小説にはあまり興味がなかったのだけれど。ふふっ、今から考えると少しもったいなかったかしら。書きあげた小説を読ませてもらったら悔しいけれどちょっと面白かったわ。でもね、ミラの小説にインスパイアされたというよりも、まるで二流のパロディーだったわ。それは少女たちをもう一度殺す男たちの話なの。娘が、恋人が、妹が、ゾンビになってしまったから、彼らは再殺するの。少女たちをその手にかけるの。斧やチェーンソーで女の子を何度も何度も切断するの。ぐちゃぐちゃになるまで。そうしないと再び死なない設定なのね。少女たちがゾンビになるのは高次元に住まう神様の悪戯なのですって。その毒電波は宇宙からやって来るのですって。ミラの小説では精神の病であったはずなのに、随分とわかりやすく荒唐無稽にしちゃったものね。けれどわかりやすいのは何も王寺の著書だけに限った話じゃないわ。どんな小説や映画を見てもゾンビという存在そのものはテンプレなのよ。蘇った死者が生者を襲う。その繰り返し。それ自体は別に構わないわ。パニックホラー的なゾンビ映画だってわたしは好きだもの。……ジョージ・A・ロメロがお亡くなりになって、彼のゾンビ・サーガのような文明批判や現代社会の皮肉なんてもうこれからは望めそうもないでしょうしね。それに元々亜流傍流の映画の中で培われてきたゾンビという存在は、無個性が個性を駆逐していくメタファーだったのだから。でもね、リューシカ。本来的な意味でのゾンビというのはね、ただの歩き回る死者でも人を喰らうだけのモンスターでもないの。それは共同体の中から排斥された者たちなの。社会的な制裁を受けて生きたまま死者と見做され、共同体からの保護も、共同体の中での権利も、全部失ってしまった人たちなの。生ける死者とは、文化人類学的な意味でのゾンビというは、そういうものなの。……ま、そんなことを今言っても仕方がないわね。ふふっ、〝病気〟に興味があるならリューシカも彼の小説を読んでみればいいわ。現実の少女たちとリンクしている部分もあるし、早ければ来月には書店に並ぶはずだから。題名はなんて言ったからしら。確か……『ステーシーの頌歌オード』だったかしら」

 くつくつと一花が笑う。

「まあ別に、興味がないならそれでもいいし。でも彼の小説はきっと売れるわ。現代の世相とも相まって。今はまだ報道規制でもされているのかしら、どのメディアにも〝病気〟のことも彼女たちのことも取り沙汰されていないみたい。けれどね、SNSでは憶測やオカルトじみた噂が静かに広まっているわ。いつかそれは爆発的に広まるわ。王寺の小説は切っ掛けになるでしょうね。だって彼の小説を読めば気づくもの。現実の彼女たちはどんなフィクションよりもずっとゾンビらしいってことに。腐っていくからじゃない。人を襲って食べようとするからじゃない。ねえ、リューシカ。彼女たちのような罪を犯した精神病の患者って、社会から排斥されてしまうものでしょう? 社会的な死者にされてしまうものでしょう? 理想論なら聞きたくないわ。おためごかしなら言わなくていいわ。日本の精神医療の隔離政策の歴史を見ればそれがよくわかるもの。新しいところでは二〇〇一年の池田小事件を契機に医観法病棟が作られたのは……ああ、そんなのきっとリューシカの方が詳しかったわね。でも精神障害者が裁判を受ける権利は依然として剥奪されたままだわ。きっと相模原で障害者を殺し回った男にだって公正な裁判は行われないわ。それと一緒よ。何も変わらないわ。……彼女たちのような存在は必ず隔離される。隔絶される。排斥され、廃絶されるわ。ずっとそうだった。わたしが楽しみなのはね、彼の小説のような間違ったイメージが先行して拡散していったらどんな世界になるのだろうってことなの。彼女たちのことが歪められた形で浸透したあとで、手遅れになってから〝病気〟のことが公表されたとしたら……どんな世界になるのか楽しみで楽しみで仕方がないの。だってゾンビという存在は無限に広がっていく拡散のメタファーでもあるのだから」

 リューシカはごくっと唾を飲み込む。怜悧で冷たい、そして狂気じみた一花の視線から目を逸らすことができない。

「現実世界の少女たちも人を襲うわ。寂しさを埋めるために。現実世界の少女たちも腐っていくわ。寂しさを埋められなくて。ねえ、リューシカ。それを見た男たちはどうするのでしょうね? 目の前で腐っていく少女を見たらどうするのでしょうね? 自分が食べられそうになったらどうするのでしょうね? うふふっ。女の子たちは王寺の小説のように殺されてしまうのかしら。ぐちゃぐちゃに、ばらばらにされてしまうのかしら。彼女たちは最後になにを懇願するのかしら。どんな眼差しで最後の瞬間をもたらす人を見るのかしら。ああ、無知な男たちの手を罪の色で染めてやって欲しいわ。彼女たちにはその権利があるんだもの。ねえ、リューシカ。リューシカ。どうせ動き回る死者ならば、せめて最後に噛みついてみたいと思わない?」

「……あなた頭がおかしいんじゃないの? うちの病院でよければいつでも紹介してあげるわ」

 リューシカは顔を伏せ、吐き捨てるようにそう呟く。背中に嫌な汗をかいている。指先が冷たくなっている。もう嫌だ。もう聞きたくない。

「興味深い提案だけど、今はまだ遠慮しておくわ」

 一花がクスッと笑った。

「ねえ、リューシカ。人間はどこかしら少しだけ狂っているものよ。気づかないうちに少しずつ狂っていくものよ。わたしも、そしてもちろん、あなたもそうなのよ」


 真夜中。壁にかかった古めかしい時計は午前一時を指し示している。リューシカは目を擦る。変な時間に起きてしまったせいで頭が重い。ふと気づくと二階から人の声と何かが軋む音がする。家鳴り? こんな時間に、いったい……。

 リューシカはそっと布団を抜け出る。廊下には月の薄明かり。階段の上からも仄かな光が漏れている。やめて、という声が聞こえて、リューシカは思わず足を止める。切ない、甘い喘ぎ声が続いている。思わず唾を飲み込む。その音がひときわ大きく聞こえて、リューシカはどきりとする。脇の下に汗が滲む。そっと、音を立てないように階段を上っていく。炎に誘われる蛾のように。町家の急な階段をリューシカは這うように登っていく。

 床板が軋む。動きを止める。自身の衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。手のひらに汗をかいている。更に進む。二人の寝室の襖が少しだけ開いていて、そこから明かりが漏れている。

 リューシカは息を殺して、隙間から中の様子を覗き見た。

「お願い、ほどいて。うちお風呂にも入ってへんし、それに、今日、二日目で、……あっ」

「だからなぁに? ……ふふっ、眠ってしまった夜々子さんが悪いのでしょう?」

 後ろ手に縛られた夜々子さんが布団の上に転がされている。小柄な一花がその横で覆いかぶさるようにして、夜々子さんの首筋に舌を這わせている。きゃっ、という小さな悲鳴が上がる。

 ……リューシカはその光景から目が離せない。胸の奥で心臓がバクバクと大きな音を立てている。苦しい。息ができない。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに。

「胸、だめ、生理中で張ってるから、痛い、や、やだっ」

 一花は無言で夜々子さんの胸に指を食い込ませている。襦袢の下の乳房が大きく歪んでいる。

「お願い。お願いやから、痛いことしないで」

「……駄目なの?」

 夜々子さんは目に涙を溜めて、唇を噛み締めながら、痛みに耐えている。一花がそんな夜々子さんを酷薄な笑みを浮かべたまま、静かに見下ろしている。啜り泣く声が糸のように続く。

「わかったわ。ごめんね、夜々子さん」

 やっと手を離した一花がクスッと笑う。夜々子さんが息をつく。けれども一花は夜々子さんの襦袢の裾に、おもむろに右手の指を差し入れた。夜々子さんの体がビクンッと跳ねた。

「やっ、めてっ。かにしてっ。お願い、指っ、指でいろたら、……だめっ」

 裾の……ショーツの隙間から引き抜かれた一花の指は、経血で真っ赤に染まっている。薬指の銀色の指輪が血に濡れて光っている。一花は愛おしそうにその指を見つめている。赤い舌が指先を舐め上げる。そして夜々子さんの下着を無理やり引き下ろすと、直接そこに口をつけた。

 悲鳴が上がる。くちゅくちゅと濡れた音がする。やめて、やめて、うわ言のように繰り返される言葉。淫靡な匂い。爛れた経血の匂いが鼻をつく。そしてまるで邪宗の曼荼羅のように。

 一花の黒髪と夜々子さんの白髪が血にまみれた布団の上で絡み合っている。

「あっ、あんっ、舌っ、や、いや……っ。血が、やだっ、汚いから、お願い、お願いやから、もう、そんなんしないで……っ」

 羞恥に喘ぐ声。頬を伝う涙。汗に濡れて桜色に染まった肌。リューシカは自分がいったいどこにいて、何を見ているのか、わからなくなっていく。それでも、目を逸らすことができない。

「ゆるして。おねがい。うちのこと……ゆるして」

「だめ」

 一花が顔を上げた。さながら人を喰らう化け物みたいに。まるで動き回る死者みたいに。口元が真紅に染まっている。経血で唇が緋く濡れている。そして、一花は右手でばさりと髪を振り払い、少しだけ開いていた襖の隙間を、そこから覗いていたリューシカの瞳を見つめて、

「——ゆるしてあげない」

 囁き、嗤ってみせた。

 リューシカは息を飲む。見られた。見られていた。一花はリューシカがそこにいるのを知っていた。覗かれていたことに気づいていた。でもいつから? いつから一花にばれていた?

 リューシカの脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックした。一花の指が机の上の鬼灯の実を、コロコロと転がしている。リューシカはトイレで嘔吐した口元を拭い、悪心を堪えながら呆然と義姉を見つめている。——馬鹿ね。必要なのは根の方なのに。一花がクスッと笑う。


〝……そう。そんなことがあったの。でも安心して。あなたは死人。魂の殺人にあったのだから。こんなことくらいで地獄に落ちたりしないわ。最初から罪にはならないわ〟


 嫌、やめて。思い出したくない。やめてっ。


〝大丈夫。誰からも罰せられたりしないから。死んだ人間を罰することができるのは神様だけなの。だからリューシカ、これからは、死者として生きていきなさいね〟


 リューシカの背筋が凍りつく。あの日のような強烈な吐き気が襲う。頭を抱えて蹲る。がたがたと震えながら、嗚咽を漏らしながら、かぶりを振る。それでも思い出は消えない。起こった事実は消すことができない。こぼれ落ちた涙が廊下の木目に吸い込まれていく。目を固く閉じる。耳を塞ぐ。もういい、もう嫌。許して。お願い、お願いだから許してっ。


〝あなたは死人だもの。その男に殺された死人だもの。誰も、あなたを罪に問わないわ〟

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