第3話 六月三日(土)
また患者が腐って死んだ。
病棟で二例目の患者は最初の患者と同じ、十五歳の女の子だった。リューシカが準夜で出勤したときにはまだ病室の壁に飛び散った黒い血の跡が残っていた。暴れる少女を押さえつけたときに内臓が潰れて、大量に吐血したらしい。
少女が死んだのは二日の午後十四時頃だったという。遺体は入念なエンゼルケアを施されたあと霊安室に運ばれた。しかし準夜の勤務が始まる頃には既に遺体は業者によって院外に運び出されたあとだった。駆けつけた両親は変わりはてた自分の娘を見て半狂乱だったと聞いている。対応した医師は家族にどんな説明をしたのだろうか。
前回死亡した患者は素行不良で中学生の頃からシンナーや大麻、危険ドラッグを使用していた。髪も金髪で十五歳のくせに首筋にタトゥーを入れていた。入院時に話をした親も同じようなものだった。金の鎖をジャラジャラと首に巻きつけ、娘の入院の立会いだというのに父母ともに酒臭かった。この親にしてこの子あり、リューシカは
しかし今回の患者は違っていた。その少女はいじめに遭ってひきこもり、部屋から出てこられなくなったケースだった。やがて部屋にいてもクラスメイトが自分を馬鹿にする幻聴が聞こえ始め、夜も眠れなくなった。そこからはお定まりのパターンだ。テレビがわたしの噂を放映している。誰かがわたしを監視している。そう言って家の中を破壊して回った。味がしないと言って食事を摂らなくなり、寂しい、寂しいと泣きながら、それまでずっと仲の良かった妹の腕を、縫合が必要なほど強く噛んだ。見兼ねた親が警察に通報し、警察から二十三条通報によってリューシカの病院に運ばれてきた。……よくある話だった。
少女が運ばれてきたのは五月二十九日の夜だった。リューシカは五月三十一日に四肢拘束になっていた彼女の部屋を受け持っている。そのときには食事を摂ろうとしなかったくらいで、特に身体的な不調はなかったと記憶している。六月一日は早番で病棟業務にはほとんど関わっていない。そして六月二日。リューシカが準夜勤に入る前に、少女は死んだ。……なぜ?
リューシカは考える。前回のケースは危険薬物の副作用だと思われていた。病理解剖の結果はナースサイドには知らされておらず、孝太郎も口を噤んでいるので知りようもないが。けれども今回のケースは明らかに違う。精神症状だけを見れば統合失調症や統合失調感情障害と呼ばれるものに近しいものだ。違法薬物の使用歴もなかった。ひきこもるまでは真面目ないい子だったという。もちろん糖尿病などの身体的な合併症の既往もない。だから体全体が腐って死亡する症例ではなかったはずだ。
リューシカは首をかしげる。わからない。二人の共通点はなんだろう。リューシカはカルテを広げたまま考え続けていた。ちらりと時計を見ると三時を回っていた。リューシカは慌てて立ち上がり、同僚の三嶋まどかにラウンドに行ってくるわ、と声をかけた。まどかはパソコンの画面を見ながら、もうそんな時間? と訊ねる。座っていた椅子がギシっと音を立てた。
「そういえば、一ヶ月前に亡くなった子の最初の発見者って、まどかだったのよね?」
リューシカはステーションの入り口で振り返り、まどかに訊ねた。まどかは立ち上がりかけた姿勢のまま顔を顰め、これからラウンドなのに嫌なこと思い出させないでよ、と言った。
「リューシカには話してなかったっけ。わたしも三次救急に居たからひどい状態の患者は随分見てきたけど……生きたまま体が腐っていく患者なんて初めて見た。昨日亡くなった子も、多分同じような症状だったんじゃないかな。……またみやちゃんが落ち込まなきゃいいんだけど」
最後にそう言って、まどかはため息をついた。リューシカは首を傾げた。
「みやちゃん? そういえば最近元気ないわね」
まどかが、あの子亡くなった患者さんの前で取り乱しちゃってね、と苦笑した。今年新卒で配属になった
「なんかあったらピッチにコールして。じゃあ、リューシカもラウンドお願いね」
まどかがステーションを出て行く。リューシカもその背中を横目で見ながらステーションをあとにする。リノリウムの廊下に靴音が響く。非常灯の緑色の明かりが廊下を不思議な色に染め上げている。それはまるで、この世ならざる死者の国の景色のようだ。
懐中電灯を片手に、今日は六月三日か、とリューシカは思う。廊下を歩きながら自分の下腹部に手を当てる。……明日はまた生理の初日だ。かぶりを振る。足を止める。考えるな、そう自分に言い聞かせる。足を止めたのは偶然にも524号室の前だった。保護室側の重症個室。二人の少女が死んだ部屋。リューシカは誰もいない部屋の鍵を開け、そっと中に入る。窓から薄明かりが射している。既にベッドは綺麗に整えられている。大きく息を吸い込む。
あの日の夜、孝太郎がリューシカに電話をかけてきた本当の理由が少しわかる気がした。
そこに存在していた死の匂いを、リューシカは確かに感じていた。
夜勤が終わる。駐車場に車を止め、眠気と疲れとを抱えて、重い足取りでアパートに帰る。六月の空は十時だというのにどんよりと曇って薄暗い。湿度も高い。早くシャワーを浴びてさっぱりしたいと、リューシカは思う。何気なくスマホを見ると花からメールが入っている。
【夜勤お疲れさまです】
『昨日今日で夜勤でしたよね? お疲れさま。
学校が早く終わったら、遊びに行ってもいいですか?
お返事待ってますね。』
リューシカは文面を三度見直して、それからスマホを鞄に仕舞った。代わりにアパートの鍵を取り出す。玄関の鍵を開けて部屋に入る。窓を開けて部屋を換気する。シャワーを浴びて着替えをし、ベッドに横になると、枕から死臭がする気がした。リューシカは顔を顰めた。
リューシカは目を瞑りながら、花とのこの関係を今後どうすればいいのだろう、と考えた。花のことは少なくとも嫌いではない。ううん、正直好ましいと思っている。しかし一回り以上年下の少女と密な関係になるのが果たして正しいことなのか、リューシカにはわからなかった。
先月初めてこの部屋に上げたあの日以来、時々思い出したように花はリューシカの部屋を訪ねている。孝太郎に治療の一環として渡されているゾンビ映画を一緒に見ることもあった。ホラー映画はわたしも好きですよ、と花はリューシカの隣で笑っていた。制服姿のときもあれば、私服のときもあった。花は十五歳だった。リューシカは先月二十八になった。花はリューシカが十三歳のときに生まれたのだ。……十三歳のときに。
ため息をつく。湿ったままの髪が頬に張り付いている。
リューシカは自分がまともではないことを知っている。自覚している。だから、……もう来させない方がいいのだろうか。距離を取った方がいいのだろうか。そう考えてしまう。
しかし不意の笑顔や寂しそうな横顔を思い出すと、途端に胸が苦しくなる。それに。リューシカは思う。彼女と一緒にいれば、あるいは……人間のままでいられるかもしれない。
でも。どうしたら……。気づくとリューシカは寝息を立てている。眠りに落ちている。網戸にした窓から湿った風が入ってきて、レースのカーテンとリューシカの灰色の髪をゆらした。
玄関のチャイムの音で目を覚ます。部屋の中はすでに真っ暗になっている。リューシカは慌てて跳ね起き、スマホを確認する。アイコンでメールが何件か入っているのがわかる。時刻は十九時半を過ぎていた。急いで玄関の扉を開ける。外に立っていたのは、制服姿の花だった。
「……ごめんなさい。来ちゃいました。メールがなかったからどうしようか迷ったんですけど……迷惑でした?」
「ううん。こっちこそごめんなさい。返信する前に寝てしまって。今起きたところなの」
「リューシカさん。髪の毛ぐしゃぐしゃだから、一瞬そうかなって、思いました」
ガサガサと音がする。見ると花は両手にスーパーのビニール袋を下げている。
「それは?」
「いつも外食だって聞いていたから、たまにはと思って食材を買ってきました」
「じゃあ、お金を払うわ。いくらだった?」
リューシカが訊ねる。けれども花は首を横に振って、いりません、と言った。
「わたしも今時の女子高生なので。少しくらいはお金、持っていますから。それに」
花が苦笑する。
「いつもわたしを匿ってくれている、そのお礼がしたいんです」
リューシカは嘆息して、花を部屋に通す。花が逃げ出したい現実とは、いったいなんだろう。相変わらずの殺風景な部屋。カウチとラグマット、ローテーブルだけの部屋から、台所に立つ花の後ろ姿を見つめる。花は手際よく料理を作っている。だし汁と醤油の匂いが鼻を擽る。
煙草に火をつける。紫煙がゆっくりと立ち、部屋に拡散していく。リューシカは灰皿を探して台所へ行く。後ろから花の手許をのぞき込む。
「何を作っているの? 和食?」
「あっ、まだ駄目ですよ。お願いですから、お部屋で待っていてください」
「灰皿、こっちにあるかしら?」
「えーと、はい。これですよね」
居間に戻り、ラグマットの上に直接座る。煙草を咥えたまま髪を手櫛で整える。まるでままごとみたいだ、とリューシカは思う。こんなことが長く続くわけがない、とリューシカは思う。
しばらくしてから、花がローテーブルに料理を並べる。肉じゃが、ほうれん草の胡麻よごし、ネギと豆腐の味噌汁、土鍋で炊いた御飯。想像していたよりもはるかに立派で、リューシカは思わず目を見開く。土鍋。土鍋なんて見たのは、いつ以来だろう。存在自体忘れていた。
「美味しそう」
リューシカは思わず呟く。お腹がキュルっと音を立てる。そういえば今日はまだ何も食べていなかったことを思い出す。花がクスッと笑う。
「意外ですか? わたし、こう見えて結構家事は得意なんです」
リューシカは手を合わせる。そして静かに胸の前で十字を切る。食事前のそれは、最早癖になっている仕草だ。意識はしない。特に何も思わない。花がそんなリューシカを横目に、茶碗にご飯をよそっている。炊きたての御飯から白い湯気がたっている。
箸を取り、早速食べ始める。……美味しい。薄味だけどきちんとだしが効いている。花にこんな特技があるなんて知らなかった。花はリューシカが食べる姿をじっと見つめている。
「どうです? お口に合いますか」
「うん。すごいわ。全部美味しい」
そこでリューシカはふと気づく、食べているのは自分だけだと。花の分は用意がされていなかった。
「花は? 食べないの?」
「途中で味見をしていたらお腹がいっぱいになっちゃいまして。それに」
ちょっとばつが悪そうに、苦笑する。リューシカは首を傾げる。
「食器やお茶碗、一人分しかなかったので」
「馬鹿。言ってくれたら食器くらいすぐに買ってきたのに。……ごめんね、わたしだけが食べているのに気づかなくて」
リューシカが箸を置く。それを見て、花が慌てて首を横に振る。
「違うんです。ごめんなさい。ただ、食器が一人分でちょっと安心したんです。……恋人とかいたらわたしはきっと迷惑なんだろうな、って、思っていたので」
いないわよ、そんな人。そう言ってリューシカは手を伸ばし、花の髪を優しく撫でた。花を引き寄せ、正面から抱きしめる。花の手が恐る恐るリューシカの背中に回される。リューシカもそれに応えるように、花の背中に腕を回す。制服の上からでも下着のラインがわかる。指先を添わせていくと、硬いホックに触れる。花の体がぴくんと震える。そして、小さく息を吸い込んだのがわかる。花の首筋からは甘い匂いがしている。それはとても、……懐かしい匂いだ。
「わたしが今日来たの、本当に迷惑じゃなかったですか」
「……迷惑じゃないわ」
花の耳元で囁いたそのときだった。玄関のチャイムの音がした。こんな時間に誰だろう。リューシカは立ち上がり、花を見つめた。花も心配そうにリューシカを見つめ返していた。
チェーンをかけたまま玄関を開ける。そこに立っていたのは、孝太郎だった。
「リューシカの車が置いてあったから。居るかと思って寄ったんだ。明日はまた……」
玄関に靴が二つ並んでいる。孝太郎の視線が花のショートブーツに吸い寄せられる。
「ごめん、来客中だったかな」
「ええ。というか連絡もしないで訪ねてくるのはやめて。迷惑だわ」
リューシカは顔を顰める。ちらりと後ろを振り返る。花の姿は見えない。
「メールはしたんだけどな。その様子だと見ていないみたいだね」
「とにかく、今日は帰って」
「じゃあ、これだけ渡しておくよ。おやすみ」
包みを手渡される。玄関の扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。リューシカは自分が嫌な汗をかいていたことに、今更ながらに気づく。手のひらが粘ついている。
紙の袋に入っていたのは輪ゴムで止められた薬のシートと、ゾンビ映画のDVDだった。
居間に戻る。花がさっきと同じ姿勢で、リューシカを見つめている。
「わたし、帰ったほうがいいですか」
「ううん。大丈夫よ。彼はもう帰ったから」
「……彼。やっぱり男の人……ですよね。リューシカさんの恋人ですか?」
違うわ、とリューシカは言った。そうですか、と花は答えた。気まずい空気が流れた。
「ただの職場の同僚よ。これを届けに来てくれただけ」
そう言って、リューシカは紙袋の中を見せた。二週間分に相当する抗うつ薬と、DVDが入っている。リューシカはふと思う。花に別れを告げるのなら、ここなのかもしれない。
「彼は同僚、というよりも、わたしの今の主治医と言った方がいいかしら。元々の主治医が彼の恩師だったの。わたしの病気はあまり症例のない奇妙なものだったから、彼……孝太郎というのだけれど、わたしに興味を持ったみたい。以来色々よくしてくれている。うちにあるDVDはみんな孝太郎が渡してくれたものよ。わたしみたいな症例の患者は、ゾンビ映画を見ると症状が落ち着くことがあるからって。でも、あまり効果はなかったわ。それでもしつこく置いて行くけれどね。わたしの病気は、……わたしの過去の、呪いのようなものだから」
「呪い?」
花が不安そうな瞳で、リューシカを見つめている。
「そう。呪いなの。前にも話したよね。わたしは二十八日ごとに……生理になる度に、死にたくなる。ううん、自分が既に死んでしまっているように思える。そうなるともう人の顔もうまく認識できないの。他人の顔も自分の顔も、生きている人間の顔に見えない。先々月はひどかったわ。お休みだったのだけれど、どうしても出なくてはならない研修があって。それで……」
リューシカはかぶりを振った。あのときは孝太郎に多大な迷惑をかけた。
「薬を飲みすぎて、ね。大変だったのよ」
花が小さく息を飲んだのがわかった。
「わたしは自分が何をしでかすか、わからない。自分でも自分が怖いの。だから。……わたしが怖かったら、もう、ここには来ないで。わたしのことは忘れて。お願い」
リューシカは花の瞳を見つめて言った。花もリューシカを見据えたまま目を逸らさない。
「わたしが」と花は決然とした声で言った。「わたしが呪いを解いてあげます」
「どうやって?」
いささか鼻白みながらリューシカは訊ねる。
「あなたにいったい何ができるというの?」
花はリューシカの頬に左手を当てた。
「初めてお会いしたときにも言いましたよね。わたしは、オネーさんが怖くないって。ううん、わたしはオネーさんが、リューシカさんが、……最初から好きでした。だから」
だから、なんだろう。花の目が濡れて光っている。リューシカは近づいてくる花の唇をじっと見つめている。吐息が掛かる。何をしているの、とリューシカは花に問う。花は答えない。
こくっ、と唾を飲み込む。花の右手が、リューシカの鼓動を確かめるように、胸の上に置かれている。駄目。手をどかさないと。そう思って自分の手を花の手に重ねる。早くなった胸の鼓動がばれてしまう。けれども花はリューシカのその手を絡め取り、キュッと握りしめた。
「お願いです。わたしとキスしてください」
唇が重なる。花は瞳を閉じている。睫毛が長い。眉の形が綺麗だ。そう思う。そう思いながら、リューシカも恐る恐る瞼を閉じる。なぜだろう。突き飛ばすことだってできたのに。拒否することもできたのに。そうすることができないのは、なぜなのだろう。……リューシカは人間が嫌いだ。男も女も大嫌いだ。それなのに。触れられた手も、肌も、唇も、嫌だと思えない。
どうしよう。口づけを交わしながらリューシカは思う。息。呼吸はどうしたらいいの? 鼻? 鼻で呼吸するの? 混乱する。わけがわからなくなる。唇を通して花に自分の困惑が伝わっていく気がする。そう思うと余計に息苦しくて、頭がくらくらする。
花の唇が離れる。そっと。ぷあ、と小さな声がリューシカの口から漏れる。慌てて息をする。
「もしかして息、止めていたんですか?」
不思議そうに花が訊ねる。リューシカは顔を赤らめながら、あらぬ方を向く。
「リューシカさんって、なんか……可愛いですね」
リューシカは答えない。けれども頬が、ひときわ朱に染まる。心臓が破裂しそうになる。
「ディズニーの映画を見たことがありますか。そうですね、例えば『美女と野獣』とか。最後に呪いを解くのはいつだって、愛する人の口づけだって、相場は決まっているんです」
リューシカは呆れる。その例で言えば、リューシカを野獣だと言っているようなものだ。花は気づいていない。もっとも、あながち間違いだとも言い切れない。リューシカは自分の中の〝内なる獣〟を知っている。凶暴で、冷酷な、自分の本性を。それに、……愛、だなんて。
「呪いは解けると思いますか。というか、解けるって信じてくれますか」
花がリューシカの胸に顔を寄せ、小さな声で訊ねる。リューシカは苦笑してため息をつき、
「明日になればわかるわよ」
と答えた。
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