第2話 五月八日(月)

 その日。リューシカはひとり、墓地にいた。とうの昔に打ち捨てられた、寂れた外国人墓地の片隅に。彼女は早朝から朽ちたベンチに座って煙草を吸っている。味はしなかった。それでも吸っていた煙草が灰になると新しい煙草に火をつけた。リューシカの足元には吸殻がまるで、不吉な虫か何かのように幾つも幾つも転がっていた。もちろん、帰るときにはゴミ袋に入れて持ち去るつもりだった。でも……帰る? どこへ? 自分はどこに帰るつもりでいるのだろう。

 目を瞑る。大きく息を吸い込む。湿った土の匂いがする。それは死者が眠る土地の匂い。リューシカはその匂いに安堵する。自分と同じ匂いだと思って安心する。自分の手の匂いを嗅ぐ。煙草の匂いでは誤魔化せない。死臭がする。屍体の匂いがする。そんな気がする。そしてやはり自分は死者なのだ、と思う。ここが自分の居場所なのだと思う。何処にも行けないのだと。

 空を見上げると均一に塗り込められた灰色の雲と、生い茂る暗緑色の木々が視界を覆った。

 雨でも降るのだろうか。リューシカは考える。新聞もテレビも自分の生活の中にない。スマホもアパートに置いてきた。だから今の彼女は外の世界と隔たっている。断絶している。それでもいい。どうでもいい。天気予報になんて興味はない。だって、自分は死者なのだから。

 死者。……リューシカはかぶりを振る。いけない。思考に飲み込まれてはいけない。リューシカはパーカーのポケットからレメロンの錠剤を取り出して口の中に放り、奥歯でガリガリと噛み砕く。お腹の痛みに集中する。今日は生理の初日だ。だから自分は死者だと思い込もうとしているのだ。リューシカは自分自身にそう言い聞かせる。そう言い聞かせようとしている。

 リューシカの生理は必ず二十八日周期で訪れる。初潮を迎えてからこのかた、ある時期を除いて一度も狂ったことがない。だからリューシカは自分の生理周期に合わせて勤務希望を入れる。休みの希望を入れる。そんなリューシカは精神科単科の病院で看護師をしている。

 噛み砕いた抗うつ薬のせいで口の中が気持ち悪い。水。水を持って来ればよかった。リューシカは辺りを見回す。鬱蒼とした五月の木々が頭上を覆っているだけ。周囲には誰にも顧みられることのない苔むした墓石が並んでいるだけ。水はどこにもない。あるわけがない。ここは捨てられた場所なのだから。墓地なのだから。そう思ってため息をついた、そのときだった。

 頬にポツリと水滴が当たった。雨が降り出したのだ。


 どのくらいそうしていたのだろう。リューシカはずっと雨に打たれていた。髪も衣服も濡れていた。体の感覚がなくなっていた。体の輪郭が溶けてしまったように思えた。薬が効かない。自分が生きていると、どうしても思えない。自分はいったい何時間ここにいるのだろうとリューシカは考える。看護師をしているリューシカには腕時計をする習慣がない。スマホもない。だから時間がわからない。それに、こんな場所に入り込んでいるのが誰かに知れたら警察を呼ばれてしまうかもしれない。ここは忘れ去られた場所なのだ。本来立ち入りは禁止されている古い墓地なのだ。不安に駆られ、リューシカが何気なく顔を上げた、そのときだった。

「オネーさん。こんなとろこで何をしているんですか」

 目の前に少女が立っていた。リューシカのよく知っている白いワンピースのセーラー服に身を包んだ、見知らぬ少女だった。少女は生きている人間に見えた。或いはそれは過去の幻影だろうか、とリューシカは思う。幻視。自分はもう、そこまで症状が進んでしまったのだろうか。

「風邪ひきますよ?」

 少女は傘を差しかけながら、リューシカに小さく笑ってみせた。リューシカはぼんやりと彼女を見返していた。返事はしない。目の前の少女はとてもリアルだけれど、或いは幻覚かもしれない。そうじゃなくても相手がどんな相手かわからない。ひょっとしたら危害を加えるつもりなのかもしれない。そんな人間がこの世にたくさん存在していることをリューシカは知っている。知悉している。だから初対面の人間に対して、リューシカはいつも必ず慎重になる。そもそもなぜこんな場所に少女がいるのか、リューシカにはわからない。理解できない。でも。

 なぜだろう。彼女を見ていると胸が苦しい。それは懐かしさに似ている。後悔の気持ちに似ている。リューシカは戸惑う。生理中に、見知らぬ人間に対して、どうしてそんな気持ちになるのだろう。自分の心の中にこみ上げてくる感情に、名前をつけることができない。

「大丈夫ですか」

 少女が左手を——傘を差していない方の手を——差し出す。リューシカは思わず彼女の手を取る。温かい手。やわらかな手。

 生きている人間の手。

 胸の奥で何かが芽生える。やわらかな土壌から小さな若葉が顔を出すように。それは瑞々しい春の風の匂いがする。死者が眠る土のそれとは真逆のもの。でも、……なぜ?

少女も不思議そうに、握り合わせた手を見つめている。

「前にどこかでお会いしたこと、ありました?」

 少女がリューシカに問い掛ける。なにそれ、一昔前の軟派みたい。リューシカは苦笑する。そんな台詞を聞いたのも久しぶりだ。リューシカの周りにはそんな軽薄な台詞を吐く不埒な輩が多かった。昔からリューシカは人目を惹く。でも、その手の男たちはいつしか消えていった。どこに行ったのだろう。もしかしたら保健所の職員に駆除されて、絶滅したのかもしれない。

 少女が手を曳く。リューシカは思わず立ち上がる。

「行きましょう」

 少女が小さく笑いながら言った。リューシカにはその言葉が、生きましょうと聞こえた。自分が死者ではないのだと、諭された気がした。

「あなた……誰?」

「わたし? わたしははなと言います。遊崎ゆさき花。オネーさんは?」

「リューシカ」

 少女は繋いでいた手を離す。リューシカを見上げて、不思議そうに首を傾げる。リューシカ。……リューシカ。それは日本人の名前には聞こえない。目鼻立ちのはっきりした美しい顔。肩先でやわらかそうに波打つ暗灰色の髪。瞳の色も髪と同じ暗い灰色をしている。背も高い。モデルと見紛うほどだ。でも、顔の作りは日本人にしか見えない。

「えーと、……変わったお名前ですね。もしかしてハーフさんですか」

 リューシカは違うわ、と言ってしゃがみ込み、散らばった煙草の吸殻を拾い集めた。そして濡れた地面に指で〝流柿花〟と書いて見せた。少女……花は腰をかがめてリューシカに傘を差し掛けながら、不思議そうにそれを見ていた。

「わたしの故郷には不思議な瞽女の話が伝わっていてね、この名前は彼女に由来するの」

 ふうんと花は頷いているが、よくわかっていないのかもしれない。説明されても変わった名前であることに変わりはないのだから。リューシカだって永遠に旅を続けるという、八尾比丘のような瞽女の話を詳しくは知らない。瞽女唄なんて聴いたこともない。……不意にリューシカは思う。花。……花。もしも自分に子供がいたら、そんなシンプルな名前をつけただろうか。

「あなたは、花はどうしてこんな場所にいるの?」

 立ち上がり、リューシカは訊ねる。花が苦笑しているのを見つめている。

「学校をサボったんです。ただこの制服目立つでしょう? 人目を避けているうちにこんな所に来ちゃいまして。でも最初にリューシカさんを見つけたときにはびっくりしたんですよ。もしかして幽霊かなって」

 サボタージュした理由をリューシカは訊かない。興味がない。それよりも。

「それでは、行きましょうか」

「……どこに? わたしをどこに連れて行く気なの?」

「わたしが、ではなくて、わたしを、連れて行って欲しいんです。オネーさんの、リューシカさんのお家に。早く着替えないとオネーさん風邪ひいちゃいますから。それに」

 花は悪戯っ子のように笑って、傘を回した。雨の飛沫が四方に散った。

「……わたしを匿って欲しいんです」


 どうしてこうなったのだろうか。リューシカは首をひねる。状況がいまひとつ理解できない。

 リューシカは人間が嫌いだ。男も女も大嫌いだ。だから誰も近寄らせない。触れさせない。アパートの自室に他人を招き入れたこともなかった。それなのに。

「冷蔵庫の中も、なんにもないんですね」

 どうしてこの子は自分の部屋にいて、冷蔵庫の扉を開けているのだろう。

「ペットボトルのお水しか入ってないじゃないですか」

 雨と風が強くなっている。窓ガラスに雨粒が当たって、ぱらぱらと小さな音がする。部屋の中は薄暗い。蛍光灯の明かりをつけていても、なおそう思う。モスグリーンのラグマットに同色のカウチ。小さな木のテーブルとその上に置かれた液晶モニター付きの、ポータブルDVDプレーヤー。床の上に平積みにされたDVDのパッケージ。部屋の中にはそれだけしか置かれていない。テレビもない。ラジオもない。物が極端に少ないせいで、ひどく寒々しく、閑散とした印象を与える部屋だった。

 リューシカは着替え、髪をバスタオルで乾かしながら、花の後ろ姿を見ていた。不思議な気持ちだった。つい先ほど知り合ったばかりの人間が自分の部屋にいる。しかもよりにもよって、生理の初日に。この忌まわしい呪いの日に。或いは薬を飲みすぎて、正常な判断ができなくなっていたのだろうか。ただ、……花が側にいても嫌な気がしないのは、なぜなのだろう。リューシカにはよくわからなかった。

「上に羽織る物を何か貸してもらえませんか」

 冷蔵庫を閉めて振り返り、花がリューシカに訊ねる。引き戸で仕切られた間続きのキッチンは、リューシカが立っている居間よりも幾分明るく見えた。

「どうして?」

「牛乳を買ってこようかと思ったんです。来る途中にスーパーマーケットがありましたよね。でも、ほら、このままだとちょっとまずいかなって」

 花はそう言って、制服のスカート部分を指で摘み、持ち上げてみせた。修道服を模したというこの白いワンピースの制服は、カトリックのミッションスクールである御心女学館の伝統そのもの。悪目立ちするのもリューシカが袖を通していた頃と、少しも変わっていない。

「……パーカーでいい?」

 小柄な花に、リューシカのパーカーは少し大きい。袖の先から指が僅かに覗いている。袖口の匂いを嗅いで、不思議そうな顔をしている。ちゃんと洗ってあるはずなのだけれど。或いは死者の匂いを嗅いだのだろうか。花は前面のチャックを閉めながら、これなら中に制服を着ているってばれないかもしれませんね、と言って笑ってみせた。笑うと八重歯が見えた。

 花が玄関を出て行くのをリューシカはぼんやりと見ていた。どこかで警察に見つかって、補導されてしまうのなら、それでもいい。このまま彼女が帰ってこなくても別に構わない。パーカーの一枚くらいは惜しくない。そう思っていた。そう思ってカーペットの上に座っていた。墓場で服用した抗うつ薬が今頃になって効いてきたのかもしれない。瞼が重く感じられた。眠気を感じてそのままカウチの縁に頭を預けて、微睡んでいた。

「オネーさん。リューシカさん」

 肩を叩かれて目を醒ます。パーカーを着たままの花が目の前で苦笑している。

「よく寝ていましたよ。ホットミルクを作ったんです。よかったら召し上がりませんか?」

 リューシカにマグカップを差し出して、花はカウチに座った。ローテーブルの上には花の分のマグカップが置かれている。リューシカも花の隣に座り直す。やわらかな湯気と温められた牛乳の匂い。リューシカは戸惑う。一瞬躊躇する。それを見て、花が苦笑する。

「大丈夫です。毒なんて入っていませんよ。ちょっと、隠し味は入っていますけど」

 リューシカは花がマグカップを両手で包み、口をつけるのを黙って見ていた。違う。そうじゃない。リューシカが恐れているのは、もっと根本的で、根源的なことなのだ。

 死者が生者の食べ物を……かぶりを振る。違う。そう考えること自体が間違いなのだ。

 リューシカは恐る恐るマグカップに口をつけた。はちみつの香りが口の中に広がった。美味しい。美味しいと思った。生理の初日なのに。呪いの日なのに。口にしたものを美味しいと感じることができた。リューシカは花を見た。花は口の周りに牛乳の泡をつけて、笑っていた。

「口の周り、白いお髭になっているわ」

 リューシカがそう指摘すると、花は慌てて口元を拭った。リューシカのパーカーの袖口で。それに気づくとさらに花は慌てふためいて、ごめんなさい、どうしよう、汚しちゃった、と小さな声で早口に謝った。花が年相応に幼く見えた。

「気にしないでいいわ。それより、ありがとうね」

「ふぇ?」

「美味しい。とても美味しいわ」

 リューシカは優しく笑いかける。蠱惑的な、人を魅了する魔性の笑みで。花は顔を赤くさせながら、それはどうも、と口の中でもごもごと言った。リューシカは美しい。しかし誰かにこうやって微笑みかけること自体が、本当は彼女の罪なのだ。呪いの元なのだ。

 花が引き寄せられたように、リューシカの肩に顔を預ける。

「リューシカさん。着替えたのに煙草の匂いがする」

「……くさい?」

「ううん。くさくないです」

 呟いて、ちらりとリューシカを上目で見た。そして訊ねた。

「リューシカさんはどうしてお墓なんかに居たんですか」

「そういう花は? あそこは女の子が居ていい場所じゃないわ」

 リューシカは一瞬言葉に詰まり、誤魔化すようにそう言った。別に、花のサボタージュの理由を訊きたいわけではなかった。けれど。

「わたし? わたしは……昔からお墓とか、そういう薄暗い場所が好きなんです」

「え?」

「なんか安心するっていうか。そんな感じなので学校でも友達もできないし。それでなんとなく、今日は雨も降っていたから……サボったんです」

 リューシカは花をじっと見つめている。或いは、と思う。この子は自分と似ているのではないか。リューシカは花がマグカップをきつく握りしめているのに気づく。この子にはこの子の闇があるのだ。それを抱えて生きているのだ。そう思うと少し切なくなった。

 リューシカは自分のマグカップをテーブルに置き、花のマグカッップを優しく取り上げた。花も素直に手放した。テーブルにカップを置くリューシカの手は少しだけ震えていた。もしかしたら。

 この子に出会ったのは神様のお導きだろうか。

 リューシカは考える。なぜ、今更、と。リューシカは考えている。

「わたしもそうなの」

 小さな声で呟く。

「墓石に、死者に囲まれていると思うと安心する。わたしはね、生理のときにだけ、……自分がもうすでに死んでいると思ってしまうの。永遠に安らぎを得ることのできない、動き回る死者だと思ってしまうの。その妄想に支配されそうになるの。わたしの主治医はコタール症候群の一種だと言っていたわ」

「妄想? それは……心の病気なんですか?」

「ええ。わたしが怖い?」

 花は首を横に振った。そして、怖くないです、と囁くように言った。リューシカの頬に触れて優しく皮膚を撫でた。まるで壊れ物を扱うように。慎重に。

「たとえ心の病気だとしても。わたしは怖くないです。だって、こんなにも温かい」

 リューシカさんが生きている方が何倍もいいに決まってます。そう言って花は小さく笑った。


 帰り際に、花はこのままパーカーを貸してもらってもいいですか、と訊ねた。

「まだ、学校が終わる時間じゃないですし。それに……ちゃんと、洗って返します」

 そう宣言した花の顔は少しだけ赤かった。硬い、強張った表情を浮かべていた。リューシカだって馬鹿じゃない。花が何を期待しているのか、わからないほど鈍いわけではない。

 リューシカは人間が嫌いだ。男も女も大嫌いだ。特に生理中は生者よりも死者により深く感応して自分が既に死んでいると思ってしまう。永遠に死ねない人間に思えてしまう。それなのに。今日知り合ったばかりの少女と離れがたく思っている自分がいる。理由がわからずに戸惑いを覚えている。リューシカは僅かなあいだ逡巡した。花の瞳が不安そうにゆれるのが見えた。

「そのパーカー、お気に入りなの。だから……必ず返しに来て」

 花が驚いた顔でリューシカを見ていた。リューシカは小さく唇を歪めて、小指を花の目の前に差し出した。

「約束」

「……うん」

 花も自分の小指をリューシカの指に絡める。

「あ、そうだ。メアド、いいですか」

 おずおずと訊ねる花に、リューシカは小さく頷いてみせた。

「不定休の仕事をしているから、事前に連絡してもらえるとわたしも嬉しい」

「不定休? ……夜のお仕事とかですか? リューシカさん、綺麗だし」

「ありがとう。でも違うわ。看護師なの。もちろん、夜も仕事をするけどね」

 花がリューシカの冗談とも思えない冗談を聞いて苦笑する。

「リューシカさんはLineする人ですか」

「しない人。LineもTwitterもFacebookも。ソーシャルメディアには興味がない人」

「わたしもです。……一緒ですね」

 花が笑いながら雨に濡れた鞄を開ける。中からスマホを取り出してリューシカの言ったアドレスを登録する。少し間が空く。お互いが沈黙している。寝室からメールの着信音が小さく聞こえてくる。届いたみたいですね、と花が微笑む。

 玄関を出る際に、花がそっと後ろを振り返る。リューシカが手を振る。花も手を振り返す。雨がまだ降り続いている。花は傘を広げて、アパートの階段を降りて行った。足音が遠ざかっていく。……なんだろう。この胸の痛みは。リューシカは胸のあいだに手を当てる。心臓の鼓動が手のひらに伝わる。生きている。そう思うと不思議と涙がこぼれた。

 寝室に戻ってベッドに体を横たえる。枕元に置きっぱなしのスマホに花からメールが届いている。〝遊崎花です〟と題名がついたメールには、本文の代わりにアドレス情報が添付されている。リューシカはそれを見て、余計に切なくなる。

 それが寂しいという感情なのだと、リューシカはまだ気づいていなかった。


 夜半になって孝太郎こうたろうから電話があった。リューシカはそのとき眠剤を飲んで眠っていた。だから最初は夢と現実の区別がつかなかった。時刻を確認すると二十三時半を過ぎている。リューシカは体を起こしながら舌打ちをした。スマホを通話の設定に切り替えた。

「……なによ。こんな時間に」

 少し呂律が回っていない。苛々して吐き棄てるようにそう言った。

「さっき患者が亡くなってね。ごめん、電話をするのが遅れた。で、君は生きてる?」

「……生存確認の電話なんて、最初から誰も頼んでいないわ。それよりも患者さんが亡くなったって本当なの? 誰が亡くなったの?」

 リューシカが訝しげな声を出す。精神科で誰かが亡くなるのは珍しい。孝太郎とリューシカが勤務する病棟に、今現在身体的な合併症のある患者はいなかったはずだ。夜。消灯後。人目の届かない魔の時間帯。……誰か自殺でもしたのだろうか。

「金曜日に入ってきた子。覚えているかい。ショッピングモールで女性から赤ちゃんをひったくって、頭を齧ったっていう女の子。食事も内服も拒否して持続点滴になっていた」

 覚えている。入院時外来に迎えに行き、暴れる少女を押さえつけたのはリューシカだ。そのときに思い切りお腹を蹴られた。忘れるはずがない。

「もちろん覚えているけれど……でもあの子、近いうちに児童思春期病棟に転棟になるって話だったじゃない。死因は一体なんなの?」

 彼女は始終暴れていたので胴四肢拘束になっていたはず。自殺はあり得ない。

「どう言ったらいいんだろう。三嶋みしまさんがラウンドで回ったときには既に大量に吐血していたようなんだ。僕が到着したときも真っ黒な血を吐いていて、酷い有様だった。でも、死因はよくわからない」

 孝太郎が躊躇いがちに口を閉ざす。リューシカは強くスマホを耳に押し付けて、辛抱強く彼の言葉を待っている。孝太郎が言葉に詰まるのは、ひどく珍しい。

「……全身が腐っていた」

「え? なに? なんて言ったの?」

「腐っていたんだよ。脈を取ろうとするだけで皮膚が剥けていくんだ。ルートも取れなくてね、結局死なせてしまった」

 リューシカには孝太郎の言葉が理解できない。意味がわからない。糖尿病の患者などでは急激に壊死が進むケースもあるにはあるが……あの子はまだ十五歳だった。不良娘だけあって中絶歴はあった。でも基礎疾患はなかったはずだ。それなのに……なぜ?

「未知のウイルスとか」

 リューシカはそう問いかける自分の声が震えていることに気づく。もしもそうなら。その症状は病棟に波及するかもしれない。患者だけじゃない、スタッフにも。

「それはないと思う。入院時の検査でも感染を疑うような所見はなかっただろ。CPKは高い数値だったから、僕は入院前に危険ドラッグか何かを使用したんじゃないかと思っているんだけど……それも含めて県立大の病理部に解剖を依頼してきた」

 よかった。リューシカはほっと胸を撫で下ろす。けれどそのあとに続く「未知のウイルスなんてSFみたいなことを言い出すんだな」という孝太郎の言葉にカチンときて、リューシカも負けじと言い返す。

「ふうん。でも、そんなに忙しい、大変なときでもわたしに電話をかける余裕はあるのね。精神科医って暇でいいわね」

 孝太郎は電話の向こう側でくつくつと笑っている。それがまたリューシカには気にくわない。

「なに?」

「いや。今日はやけに生き生きとしているな、と思って。前回が……ひどかったから。勤務中ずっと心配していたんだ。でも、元気そうでよかったよ」

 リューシカは意表を突かれて、二の句が継げない。押し黙っていると少し仮眠を取るから、と言い残して電話は切れた。リューシカは無言になったスマホを見つめた。

 リューシカが務めるのは精神科救急病棟、いわゆるスーパー救急と呼ばれる場所だ。精神科の急性期に特化した閉鎖病棟だ。薬物中毒の患者も数多く運ばれてくる。それこそ毎日のように。けれども全身が急激に壊死するほどの症例は今まで見たことがない。確かにあっという間に横紋筋融解症を引き起こして死に至る危険ドラッグは存在する。でも、……今回の劇症化の一例は本当に危険ドラッグの使用によるものなのだろうか。

 嫌な予感がした。そして生きながら腐っていく女の子の姿を想像して、陰鬱な気分になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る