お願い、わたしを殺して。
月庭一花
第1話 二月一日(◆)
真夜中。
ふと何かの気配を感じて目を醒ますと、虫籠窓の向こう側で雪がちらちらと舞っているのが見えた。小さな街灯に照らされて、粉雪が火事場に舞う灰のようだ。
火の気の絶えた室内はとても寒い。思わず身震いをしてしまうくらいに。もっとも裸のまま眠ってしまったわたしが悪いといえば、確かにその通りなのだけれど。隣を見ると
わたしは布団から起き出て窓辺に寄った。
窓の外は街灯と雪のせいで仄かに明るい。わたしは窓にそっと右手をかざした。薬指の、雪の結晶をモチーフにした指輪が、銀色に、濡れたようにちらりと光る。
ふと何気なく路地を見下ろすと血だらけの少女が足を引きずりながら歩いている。彼女が歩いて来た道には足跡と、血の跡が、モールス信号のように点々と続いている。
わたしはじっと彼女を見ていた。彼女も気配を感じたのだろうか。立ち止まり、顔を上げた。わたしを見た。怯えた彼女の顔がリューシカに似ていた。そう思った。或いはそれはわたしの思い過ごしだったかもしれない。
思わず格子窓の桟に指をかけた、そのときだった。揃いの制服を着た国家保安本部の若い男たちが通りの陰から現れ、手にした警棒で次々と彼女に襲い掛かった。暴行を加えられている彼女の悲鳴は日本語ではなかった。けれどその声を聞いても尚、近隣の住民が出てくる様子はなかった。北からの難民にも秘密警察などというものにも、誰も関わり合いにはなりたくないのだ。
わたしは窓の外の一部始終を見ていた。男たちは終始無言だった。彼らの声は最後まで聞こえなかった。暴力は静かに行使されていた。虐殺は速やかに行われていた。両手で頭を抱えていた彼女はやがて横になったまま、動かなくなった。全てはどこまでも密やかだった。
髪を掴み、男たちが動かない彼女を引き摺っていく。あとには黒い血の汚れだけが残った。
「……
不意に、わたしを呼ぶ眠そうな声がした。振り返ると、眦を擦りながら、夜々子さんが目を凝らすようにして、じっと、わたしの方を見ている。納戸色の瞳が闇の中で光っている。夜々子さんの白い、雪の色をした長い髪が、寝起きの頬に張り付いている。
「ごめんなさい、起こしてしまって」
「ううん。ええんやけど……まだ夜は明けんやろ? 何かあったん?」
わたしはちらりと外の通りを見下ろした。血の染みが、少しずつ雪に覆われていく。
「別に、なんでもないわ」とわたしは言った。「……ただ、雪が降っているの。それで目が覚めてしまって。夜々子さんを起こすつもりはなかったのだけど」
わたしは布団に戻り、夜々子さんの頬に触れた。大きな芋虫をつまみ上げるように。そっと、優しく頬に触れた。
夜々子さんは目を細めている。今日が何の日なのか、彼女は覚えているだろうか。
「夜々子さんの頬、温かいのね」
「一花の指が冷っこいんよ。いつからお布団出たはって、そないしてたん? 一花の指、なんや氷で……」
言葉を途中まで紡いで、夜々子さんは、でも、それから何かを思い出したように、慌てて口を噤んだ。わたしがくすりと微笑むと、夜々子さんは俯いてしまった。上手に焦点を合わせられない瞳が、純白の睫毛の影に、隠れてしまった。……ああ、覚えているんだ、と思った。
「……早よ根際に来て。そない冷こい手ぇしてはんのやもん。あっためてあげる。……うちとあったまることしよ? な?」
わたしが頷くと、夜々子さんは片手で布団をめくった。闇の中で夜々子さんの裸身がひときわ白く浮かび上がっている。艶やかな白い髪を撫でると、夜々子さんはゆらゆらと視線をわたしに向けて、こんなこと訊いて、気ぃ悪くせんといてね、と小さな声で呟いた。
「一花の義理の妹さん。なんで……」
「さあ。なんででしょうね」
わたしは苦笑しながら体をずらして枕元に這い蹲った。わたしのささやかな胸が揺れた。夜々子さんは軽く口を開けたまま、わたしの裸をその瞳に映していた。
彼女の口に指を差し入れると、夜々子さんはそっと目を閉じた。口の中は温かな唾液で蕩けている。かき混ぜるとくちゅくちゅと音がする。楽しい。
「好きよ。夜々子さんが大好きよ。だからわたしを置いて行かないでね。わたしだけを置いて、逝かないでね」
わたしは優しく囁いた。小さな蟻が死にかけの蚯蚓に群がるように。まだ生きているその身を何度も何度も喰むように。わたしは優しく、囁いた。
夜々子さんは悲しそうに微笑み、わたしの指をカリッと音を立てて齧った。指先に微かな痛みを感じた。
「去ぬときは一緒やよ」
……うふふ。
嬉しいな。
目を瞑ると、警察署に安置されていた義妹の遺体が目に浮かぶ。リューシカの左手に無数に残されていたリストカットの跡、切り取られた左手の小指、最後まで握りしめていたという手記の断片……。でも、それらが意味するものは、なんだったのだろう。それにリューシカと共に発見されたあなたは、顔を失くした身元不明のあなたは、いったい……誰だったのだろう。
……ごめんね。わたしは最後まで連れ添ってくれたあなたの名前すら知らない。だから。
わたしがあなたに名前をあげる。あなたのために、世界をあげる。祈りと感謝を込めて。
——これから綴るあなたの物語は、最初から最後まで、全部嘘だ。
リューシカがあの手記を残したようにわたしは物語を残す。誰に宛てるわけでもなく、読まれることもない、この物語を——。
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