第4話

 三日後の夜。


 朝からずっと壁を見つめて微動だにしなかった夫が突然リビングの真ん中に正座し、神妙な顔で口を開きました。


「ちょっと話があるんだ。ここへ座ってくれる?」


 そして自分の正面のあたりを身振りで示しました。


 ちょっと込み入った話を切り出すときの夫のくせでした。ここしばらくのことなどまるでなかったかのようないつも通りの態度に、あたしは当惑しました。


 言われたあたりにクッションを置いて座ると、夫は淡々と話し始めました。


「僕は学生のころ、ある女とつき合っていたんだ。いや、きみのことじゃないよ。そう、ちょうどきみとつき合い出して半年くらい経ったころだったか、僕は少し単調な毎日に飽きていたんだね。で、ほかの女とも遊び始めたんだけど、ほどなくその女が妊娠したんだ。女は僕との結婚を望んだんだけど、もちろん僕にはそんなつもりは毛頭なかった。なだめたりすかしたりして、どうにか首尾よく堕ろさせることができたんだ。ほっとしたよ。だって僕は子どもなんかこれっぽっちも欲しくはなかったんだからね。まったく、いい迷惑だよね。そう思うだろう?」


 夫は同意を求めるようにあたしを見ました。


 あまりのことに、あたしは非難することもできずただ黙っていました。


 夫はぺらぺらと喋り続けました。


「ひょっとしたらその時の水子の導きだったのかな。その女とついこのあいだ、出張に行く三日前くらいだったな、とにかく十年以上ぶりにばったり出くわしたんだよ。で、もちろんすぐにホテルに行って寝たんだ。だから僕は君に謝らなきゃいけないなと思ったんだよ。でも駅であの女と会った瞬間、たまらなくあの女のからだが恋しくなったんだ。熟しきって腐る直前のくだものみたいな濃厚な味がするんだよ。ほんとうにたまらないんだ。だからよく考えたら、全部自然で当たり前のことで、僕は誰にも謝る必要なんてなかったんだよね」


 ここまでよどみなく話し終えた夫は満足げな溜息をつき、上目遣いにあたしを見ました。まるで、待ち合わせに遅刻して悪かった、でもどうしても立ち読みしたい雑誌があったんだ、赦してくれるだろうそのくらい?とでも言うような調子です。


 あたしは吐き気をこらえながら、なんとか言葉を絞り出しました。


「…誰なの。そのひと」


 夫がこともなげに口にした名前には聞き覚えがありました。たしか学生時代、夫の所属サークルにいた女です。別のサークルだったあたしには顔までは思い出せませんでしたが、青白くて華奢なあたしと違い、大柄で肉感的で、すれ違うとムスクみたいな体臭のする、どことなく獣くさい女でした。


 あたしはいったい、こんな状況で薮から棒になされた罪の告白を、どう受け止めればいいのでしょうか。夫はいったいどういうつもりなのか。良心の呵責についに耐えきれなくなり、苦しい胸の内を吐き出したというには、あまりにも態度が不遜です。普段おっとりと寡黙で、今どき珍しいほどまじめな夫が突然豹変したことに、あたしは強烈な違和感を感じずにいられませんでした。


 この人に限ってそんな。病気で混乱しておかしなことを言っているだけよ。


 必死でそう自分に言い聞かせました。

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