第3話
夫は死んだように二昼夜眠り続け、月曜の朝に目を覚ましました。「おはよう」の一言もなく、相変わらず死んだ魚のような虚ろな目でした。それでも夫は自分で身支度すると、いつものように出勤していきました。
ひとりになると、あたしはソファにどっかりと座り込みました。
ニ日間張り詰めていた緊張の糸が切れ、すぐに意識が遠のきました。
目が覚めたら何もかも元通りになっていますように。心の底からそう願いながら、深い眠りに落ちていきました。
*
ひどくつっけんどんな感じのするアヴェ・マリアの旋律に眠りを破られ、あたしは飛び起きました。
サイドボードの上で電話が鳴っています。
「はい、もしもし」
慌てて受話器を取ると、ミヤザキさんでした。
ミヤザキさんは夫の会社の三つ上の先輩です。もの静かであまり人づきあいの得意でない夫が、珍しく公私にわたり親しくしている兄貴分の男性。
不器用だけど何ごとにも真面目に取り組む夫に、ミヤザキさんはよく目をかけてくれました。たびたび飲みに連れ出したり、この家にも何度か遊びに来てくれたりした、あたしたち夫婦にとって大切な人でした。
そのミヤザキさんが、聞いたことのないような切羽詰まった声で言うのです。
「奥さん、あいつやっぱりダメだ。おかしいよ。上と相談してとにかく今日は早退させろということになったので、さっき社からタクシーに乗せました。まもなくそちらに着く頃です。一刻も早く病院で専門の医者に診せて下さい。診断結果が出たら、俺に報告してもらえますか?できるだけ穏便に運ぶように善処しますから」
ミヤザキさんは一気にそうまくしたて、一方的に電話を切ってしまいました。
病院ですって?いったいどこに連れていけばいいの?医者には何て?
おろおろしているうちに夫が帰って来ました。夫は何も言わず、静かにソファに腰を下ろしました。相変わらず目はうつろで、こちらを見ようともしません。
あたしは様子を伺いつつ、なるべく穏やかに話しかけました。
「さっきミヤザキさんから電話を頂いたのよ。あなたの様子がおかしいからすぐに病院に連れていくようにって」
相変わらずだんまりです。
「ねえ」
隣に座ると、夫はビクリと体を震わせ、ものすごい力であたしを突き飛ばしました。腰に痛みが走り、目から火花が出ました。
夫は立ち上がって両腕をめちゃくちゃに振り回し、足で床を踏みならして暴れだしました。
いつだったかテレビで、アフリカだかアマゾンだかの半裸の原住民たちが円陣を組み、粗野なステップで踊っているのを見ましたが、なんだかそれとよく似た動きでした。
例の気味の悪い羽がシャツの襟首からはみ出し、敵を威嚇するネコのように膨らんでいます。
そんな状態が小一時間も続いたでしょうか。実際には五分か十分だったのかもしれませんが、今となってはもうよくわかりません。夫は突然、糸が切れたマリオネットのようにばたんと床に倒れました。受け身も取らずに顔を床にもろに打ちつけたので、どすんという重く鈍い音がしました。
駆け寄って助け起こすと、夫は鼻と口から血を流し、白目を剥いて気を失っていました。
あたしは救急車を呼びました。
*
夫は近所の総合病院に運び込まれました。
道中、救急隊員の人たちが気を失っている夫の傷を手当てしてくれました。血を拭うために少し襟元をはだけたときに、羽が服からはみ出しました。
あたしは固唾を飲んで見守っていたのですが、彼らはただ黙々と脱脂綿で血を拭ったり、消毒液を塗ったりするばかりでした。
あたしはおずおずと声をかけました。
「あの…その羽みたいなものなんですけど、いったい…?」
「羽?なんのことです?」
隊員たちは明らかにあたしと目を合わせないようにしていました。
病院に着くと、夫は意識のないまま検査室から検査室へと運ばれ、脳波やCT、採血など無数の検査が行われました。
医師や看護師が忙しく出入りする扉の隙間から覗き込むと、夫がうつ伏せに横たえられているのが見えました。手袋をした医師の手が、銀色の菜箸みたいな機具で羽をつかみ、邪魔そうに左右に掻き分けているのが見えました。
あたしは待合室のばかみたいに長い長椅子で両手を握りしめ、ただただ夫の無事を祈りました。
*
医師から呼ばれたのは、すっかり日が傾いてからでした。
強烈な西日が目をチクチクと刺し、診察室はオレンジ色の光に噎せかえるようでした。
医師は壁際の小さな事務机の上に大きな背中を丸めて、カルテの上に覆いかぶさるようにして所見を書き込んでいました。
グローブのような大きな手で針金のように細いペンを器用に握り、紙はおろか机にまで穴が空きそうな筆圧で、ごりごりと音をたてています。
医師はぎょろりとこちらをにらむと、カルテに視線を戻しながら手で椅子をすすめました。
間近で見る医師はますます大きく、がっしりした体躯はどことなくヨーロッパの傭兵を思わせました。眉間には人生の大半を不機嫌に過ごしてきた人に特有の深いシワが刻まれています。ポマードで一本の乱れもなく撫でつけられた白髪交じりの頭はヌラヌラ光り、初老男性に特有の体臭がかすかにありました。鍛え抜かれ引き締まった筋肉も、体の奥深くからにじみ出る老いのにおいを隠すことはできなかったのです。
あたしはひとつ咳払いをして切り出しました。
「あの、夫は、一体どうなってしまったのでしょうか」
医師は相変わらずごりごりとペンを走らせながら答えました。
「ご主人はさきほど目を覚まされました。いま看護師が付き添って帰り支度をしています。間もなくこちらのフロアに下りて来ますよ」
「センセイ、夫は何の病気なのですか?なぜ突然あんな風になってしまったのですか?」
不安が一気に溢れ出して、あたしは夫のこれまでの奇怪な言動の数々をまくしたてました。
医師はうるさそうに顔をしかめ、ペンを持った右手を顔の前で一振りしました。蠅でも追うみたいにぞんざいに。
「ご主人の病気はそれほど珍しいものではありません。心配することはないですよ」
あたしは耳を疑いました。
「ただのストレスですから」
あたしは椅子ごと一歩詰め寄りました。
「お言葉ですがセンセイ。夫は仕事も人間関係もここ数年とても安定しているんです。ストレスだなんて考えられません」
医師はわざとらしく肩を竦めて見せました。
「まあ、人の心というのは外からは見えないものですから。思いもよらないことに多大なストレスを感じている場合もありますよ」
そのいかにも慇懃無礼な言い方にカチンときて、あたしは医師に噛みつきました。
「ストレスで羽なんか生えないでしょう?あれほどあちこち検査しておきながら、あなた方いったい何を見ていたの?」
医師は突如顔を真っ赤にして、拳を机に叩きつけました。
「羽だと!言うに事欠いて、羽だなんて!そんなものが生えてたまるものか!」
怒りの向こうに、狼狽が透けて見えました。
「もし、万が一だ、百歩譲ってそんなことが仮に起きたとしたら、そんなデタラメは全力でこの世界から排除しなければならん!」
医師はもういちど拳を机に叩きつけると、吐き捨てるように言いました。
「こういうのは精神が惰弱な甘ったれが罹る病気なんだ!」
一演説ぶって満足したのか、医師は普通の(つまり、不機嫌な)顔に戻って今後の治療方針や薬の服用量などについて説明し始めました。
あたしはもうほとんど聞いていませんでした。絶望で目の前が真っ暗です。ここで必要な助けが得られないのなら、一体どこへ行けばいいと言うのでしょう?
医師の説明が一段落した隙に、あたしは素早く口を挟みました。
「よく分りました。ではセンセイのご指示の通り、頂いたお薬を飲ませて数日様子を見ることにいたします」
あたしは急いで席を立ち、廊下で看護師さんに付き添われてぼんやり座っていた夫を連れて病院を出ました。
薬は貰いませんでした。
ミヤザキさんには、夫はストレスによる鬱病と診断されたと伝えました。
夫は当分のあいだ休職することになりました。
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