第2話

 リビングは空き巣でも入ったのかと思うほどめちゃめちゃに荒らされていました。


 ソファのすぐそばに、夫がいつも長期出張のときに使っている黒の大型トランクが置きっぱなしにされています。几帳面を絵に描いたようなこの人は、いつもなら真っ先に荷解きして片付けてしまうのですが…。


 夫は床に座り込み、ガラクタの山からゴルフボールの箱を拾い上げると、中からボールを出して床に並べ始めました。一つ、二つ、三つ…全部で五つ。夫はそれを並べ替えたり、手のひらで転がしたりを延々と繰り返すのでした。いつものように土産話を聞かせてくれそうな雰囲気は微塵もありません。


 ひとまず落ち着かなくては。自分にそう言い聞かせ、あたしはお茶を淹れにキッチンに向かいました。


 「左寄り、左寄り!」


 リビングから突然大声が聞こえ、あたしは驚いて急須を落としてしまいました。


 様子を見に戻ると、夫は今度は声を潜めて「分った、分ったぞ」などと一人うなずいているのでした。


 夫がなにか訳のわからないことを言うたびに、シャツの襟からはみ出ている羽の先がざわりと動きました。


「なんなのよ、いったい!」


 夫はよくわからないことを呟くばかりで、こちらを見ようともしません。


 そばに寄って耳をすませましたが、どうしても聞こえません。いえ、音はきちんと聞こえるのです。でもあまりにも支離滅裂で、何を言っているのかまったく分からないのです。


 あたしはテーブルの上にあったチラシとペンをつかんで夫の横に座り込み、一音一音聞こえた通りにひらがなでメモしていきました。


「おんどがまるいのでいぬがそこびきあみだよ」


「ふなびんがぼくをうたがう」


 書き出した文字を見て、あたしは当惑しました。


「温度が丸いので犬が底引き網だよ」


「船便が僕を疑う」


 漢字にするとこのようになるのでしょうか。文法上の破綻はないかもしれませんが、これではまったくナンセンスです。


 こうした意味不明な言葉が次から次へと夫の口からこぼれ落ちていきました。内容の支離滅裂さに反して、イントネーションというのでしょうか、言葉のリズムや抑揚はごく自然で、それが余計にあたしの頭を混乱させるのでした。


 いったいなんなの?なにかの暗号?それとも、外国の言葉かなにか?


 顔を上げると、夫の首筋から羽が一本ひょこんと飛び出し、あたしのほうに伸びたかと思うと、ケタケタと嘲るように左右に揺れました。そして、オジギソウのように羽毛を閉じたり開いたり、ミミズのように軸をくねくね動かしたりと、奇妙な動きをしてみせるのでした。


 夫は三十分ほど壊れたラジオよろしく意味不明な言葉を吐き出し続けた後、突然沈黙しました。


 あたしはしばし途方に暮れてから、まずこの惨状を警察に通報しようと受話器を取り上げました。


 一のボタンを二回押し、零のボタンに指を置いたところではたと手を止めました。


 本当に空き巣なの?もしこれをやったのが夫だったら?


 あたしは受話器を戻し、家中を点検しました。


 通帳やマンションの契約書、印鑑やささやかな貴金属類などは全て見つかりました。散らかってはいるけれど、家からはなにも持ち去られていないようでした。


 空き巣じゃないんだわ。ではやっぱり夫が?いったいどうして?帰宅早々、何か大慌てで探さなきゃならないものでもあったのでしょうか。それとも、溜まったストレスを爆発させてモノに当たり散らしたとか?


 でも結婚から十五年、あたしは夫が怒鳴ったり手を上げたりするところを一度も見たことがないのでした。


 壁の一点を見据えて茫然自失の体の夫を寝室に引っ張っていき、ベッドに寝かせました。


 やがて規則的な寝息が聞こえて来ると、あたしはベッドの脇にへたりこみました。


 夫が寝返りを打って背中をこちらに向けた隙に、そっと布団をめくって首のあたりを調べました。


 手のひらほどのわずかな面積に、あの気味の悪い羽がびっしり生えていました。しかもさっきより数が増えているようです。


 あたしは試しに指先で羽を一本つまんで垂直方向に軽く引っ張ると、根元の皮膚が羽をしっかり咥え込んだまま隆起しました。糊で貼り付けているのとはわけが違うようです。


 その隣には、さきほど夫が力任せに引き抜いていた羽の跡とおぼしきクレーター状の窪みが点在しています。底の方には、ふわふわした綿毛のようなものが芽吹いているのが見えました。


 次のが生えてきている?


 あたしは気味が悪くなり、ひとまずリビングに戻って片付けの続きをすることにしました。


 まずは洗濯物を済ませてしまおうとトランクを開きました。シワだらけの汚れた衣類が溢れ出て、あたしは仰天しました。無類の綺麗好きの夫は洗濯物を溜め込むことを極度に嫌い、旅先でも毎日マメにクリーニングに出したり、自分で手洗いして、必ずすべてアイロンをかけてからトランクにしまうのです。


 あたしは少しほっとしました。やっぱり、今回の出張はすごく忙しくて大変だったんだわ。洗濯する余裕もなかったくらい。


よれよれのシャツを一枚手に取ると、煙くて甘い妙な匂いが鼻先をかすめました。なんだろう。タバコにしてはスパイシーな気が…


 シガー?シガーバーにでも連れて行かれたのかしら。喘息の気がありタバコ嫌いで、日頃から接待も極力さけているのに、外国人相手だとそうもいかないのね。あたしは夫がかわいそうになって思わず涙ぐみました。


 十一月最後の土曜日のことでした。

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