白い境界

@kuchinashi4719

第1話

 その日は夫が二週間ぶりに海外出張から帰ってくる日でしたので、あたしはいつもより早めにスーパーにでかけ、夫の好物をたくさん買いこんできました。


 エレベーターを降りて三軒目、大きなパキラの鉢の真正面にあるのが四〇三号室。間違いなく我が家のはずなのに強い違和感があったのは、スチール製のブラウンのドアが、ススキの穂のようなふわふわしたものにびっしりと覆われていたからです。


 晩秋の風が吹くと、そのふわふわした何かが少し剥がれ落ちて、あたしの方に飛んできました。肩のあたりにくっついたのを指でつまんでみると、一本の鳥の羽でした。


 羽ペンに使われるような大ぶりのもので中心にしっかりと太い軸が通り、合歓の花のような細い和毛がたっぷりと生えていました。灰色というには白く、白と言い切るにはやや薄汚れた、なんとも中途半端な色です。


 くるくる回して弄んでいると、羽の向こうを誰かが横切りました。


 男がパキラの鉢の陰から飛び出し、四〇三号室の前に仁王立ちします。


 あたしの夫でした。


 ドアの表面に羽を一枚貼っては後ずさり、ドア全体をしげしげと眺め回し、再び近づいてもう一枚貼り付ける。それを幾度となく繰り返すのです。それはもう真剣な、鬼気迫る表情で。


 いったい何ごと?


 声をかけようとして近づくと、夫のシャツの襟と首のあいだのわずかな隙間から羽の先っぽがのぞいているのが見えました。


 夫はそれを掴むと、ブチっと嫌な音をたてて勢いよく引っぱりました。毛根にマチ針の頭ほどのぷりぷりした肉片がついていて、こびりついた赤い血がいやらしく光っていました。


 夫が顔を歪めながら羽を引き抜くたびに、シャツに小さな血のシミができました。


 それ以上貼るところがなくなってしまうと夫はようやく手を止め、満足そうにため息をつきました。


「よかった、これでもう大丈夫。これで安全だ」


 あたしははっとして、夫の腕を掴んで揺さぶりました。


「ねえ、何してるの?」


「もう大丈夫。これでもう怖くない」


 何度訊いても、夫は遠い目で熱に浮かされたように呟くばかりでした。


 ふいに衣擦れめいた音がして振り向くと、奥の暗がりから黒っぽい大きな塊が迫って来ていました。


 塊は廊下の陽だまりに勢いよく身を踊らせると、乾いた音を立て、天井付近で落下傘のように広がりました。


 それは見たこともない、禍々しい姿の怪鳥でした。鋭い鉤爪つきの大きな翼を廊下の幅いっぱいに広げ、天井近くからあたしたちを睨み下ろしています。


 翼は昼下がりの光で玉蟲色に輝き、風になぶられるたびに、水たまりの表面に浮いた油膜みたいな虹色の模様が羽の一枚一枚に浮かびました。


 がっしりと太い二本の脚は、硬いウロコに覆われています。


 あまりのことに呆気にとられていると、廊下の窓から真っ赤な少女がひらりと舞い込んできました。


 赤いエプロンドレスに赤い靴、燃えるように赤い髪。肌も、瞳の色さえも真っ赤でした。頭のてっぺんから爪の先までで唯一、白目だけが色を持たず、氷河のように青白く光っていました。


 少女は鳥の脚に飛びついて床に引きずり下ろすと、あどけなさの残る顔にまるで似合わぬ獰猛な身のこなしで鳥を組み敷き、渾身の力でその首を締め上げました。


 鳥は翼をばたつかせ、胴をくねらせ、激しく抵抗しました。


 少女はひるむことなく、断固として腕に力をこめ続けます。深紅の二の腕に浮き出た血管が妙に青みを帯びていたので、ああ、肌が赤くても静脈は青いのねなんて場違いなことを思ったのでした。 


 鳥は徐々に力を失い、全身を大きく二、三度痙攣させた後、ぐったりと目を閉じました。


 少女は鳥から離れると顔にかかった長い髪を耳にかけ、ふう、と一息つき、何事かつぶやきました。


 ガラスでできた鈴を転がしたような、透明で硬い声でした。


 少女は来たときと同じようにひらりと窓枠を跨いで出て行ってしまいました。


 慌てて下を覗きましたが、もう誰もいません。


 目を空に転じると、小春日和の太陽がまぶしくて、反射的に目を閉じました。まぶたの裏に温かい光が満ち、毛細血管を流れる血液の色で視界が桜色に染まりました。


 廊下に向き直って目を開くと、鳥の亡骸がありました。


 間近で見ようとおそるおそる一歩前に出ると、鳥は突然頭をもたげ咆哮を轟かせました。屠殺場で屠られていく動物たちの悲鳴のような、世にもおぞましい叫びでした。


 鳥はこちらを向き、よろよろと立ち上がりました。カッと見開いた両の目には大粒の虎目石が嵌っていて、その濡れたような表面に人影が黒く滲んでいました。


 そして重そうな翼をバサリとはためかせると、獲物に飛びかかる豹のように身をかがめ、こちらに突っ込んできました。


 あたしは思わず目を閉じました。


 しばらくしてそっと目を開けると、雲霞のごとく散り散りになって消えていく鳥の残像が見えました。 


 あたりは水を打ったように静かになりました。


 あたしはゆっくりと一つ深呼吸をし、こわばった首や肩をほぐすと、扉の前で凝然と立ち尽くしている夫をうながして家に入りました。


 鍵を閉めようと振り返ると、閉まりかけのドアの隙間から羽が見えました。


 廊下の陽だまりをバックに影絵のように真っ黒く浮かび上がった羽は、まるで一枚一枚が意志を持っているようにもぞもぞと動いていて、あたしはぞっとしました。


 夫が体から引きむしっていた羽が、さっきの不思議な鳥の羽と同じであることに、あたしはこの時ようやく気づいたのです。

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