第5話

 夫が出張から戻って八日が過ぎました。 

 あの衝撃的な告白以後夫は再び殻に閉じこもり、時折思い出したように意味不明なことを口走る以外は一日中だんまりを続けていました。

 例の不気味な羽は増え続け、今では服で隠れている部分のほぼ全てを覆うようにびっしりと生えていました。

 誰に相談することもできず、有効な対策も思いつかないまま、日々がいたずらに過ぎていきました。

 その日はことさら気が滅入るような曇天でした。

 薄暗いリビングで朝食の支度をしながら重いため息をついていると、パジャマ姿でボサボサ頭の夫がやって来て出し抜けに口をきいたのです。

「きょうはがっこうにいくひなんだ。でもこまったことにらんどせるがどこにもみあたらないんだよ」

 この一週間ほとんど誰ともまともに会話をしていなかったので、危うく聞き流してしまうところでした。

 あたしは慌てて頭の中で夫の発言を繰り返しました。

「きょうは学校に行く日なんだ。でも困ったことにランドセルがどこにも見当たらないんだよ」

 それは本当に久しぶりに夫が発した真っ当な言葉で、あたしは思わず涙がこぼれそうになりました。

 でも、ちょっと待って下さい。

 学校?ランドセル?

 教育機関と縁が切れてゆうに十五年は過ぎているあたしたちです。ランドセルを背負って学校に通うような子どももいません。

 夫は眉をハの字に寄せ、唇を噛んで俯いています。もう登校する時間なのに、宿題のノートが見当たらなくて家を出られない小学生のような顔つきでした。目からは次から次へと大粒の涙が転がり落ちて、夫は肩を震わせてしゃくりあげ、そのうち本当に大声で泣き出してしまいました。

 大の男が身も世もなく泣き喚いている様は、男泣きというのとは根本的に異なるもので、可哀想なのを通り越してグロテスクな感じさえするのでした。

 これは一種の幼児返りか何かでしょうか?医師の言った通り、ストレスによる変調なのでしょうか?

 先日の罪の告白はやはり事実なのかもしれない。こんな風に幼児返りしてしまうほど夫は、重い罪の意識に苛まれているのだとしたら、それはやはり…。

 あたしはいろいろと問いただしたい気持ちをなんとか抑えました。

 彼の不規則発言に対して論理的に間違いを指摘したり、不可解な点を問い詰めたりしても何の役にも立たないことはもう嫌というほど分っていましたから。

「学校に行くと言ったのよね?分ったわ。じゃあでかけましょうか。大丈夫、ランドセルがなくてもなんとかなるわ。でもまず、朝ご飯を食べなきゃね」

 つとめて明るく穏やかにそう言うと、夫はこくんとひとつ頷いて、おとなしく食卓についてくれました。

     *

 家を出てからはそれこそ悪夢でした。夫は野に放たれた獣のように街中を縦横無尽に走り、あたしは振り切られないよう必死で追いかけました。

 町内の同じあたりを何度もぐるぐる回っているので迷ったのかと思ったら、突如明後日の方向に全力疾走しはじめる。今度こそ見失ったと思ったその途端に肩を叩かれ振り返ると、夫が立っていて、焦点の定まらない目で首をゆらゆらと前後左右に揺すっていたりするのでした。そしてあたしが一息つくと、また猛然と走り出すのです。

 何度かそんなことが繰り返されたあと、走っていた夫が突然立ち止まりこちらをむきました。

 「ヒヒヒヒっ!」

 夫は目を剥き、口裂け女のごとく口角をつり上げてにまあ、と笑いました。そしてあたしの両肩をがっしりとつかみ、唇をタコのように突き出してキスを迫ったのです。衆人環視の公道で。

 夫の襟首で例の羽がザワザワと蠢きました。服の下にしっかりとしまいこみ、マフラーで覆い隠したはずなのに…。

血走った目を思い切り見開いたまま、夫は馬鹿みたいに大きな調子ぱずれの声で言い放ちました。

「公園に行ってみんなの目の前でセックスしようよ!ね!いますぐ!」

 そしてまた何事もなかったかのように走り出しました。

 道行く人たちは気味悪そうにあたしたちから目を逸らし、足早に遠ざかって行きました。

 こわくて惨めで恥ずかしくて、ほんとうに気が狂いそうになりながら、それでも夫を追いかけました。

 静かな住宅街のはずれにその小学校はありました。屋上近くの壁に丸い時計がかかった灰色の校舎は錆や雨のシミで薄汚れ、どことなく惨めな感じでした。

 正面の黒い鉄門を見てますます気が重くなりました。生活指導の教師が閉ざした門に遅刻した生徒が挟まれて死んだニュースを思い出したからです。

夫はそんなあたしをよそに、鉄門のわずかな隙間に体をねじ込み、まんまと敷地に入り込みました。

 下駄箱の前を通り過ぎ、土足のままためらいなく昇降口を上がると、そのまま廊下の奥へとぐんぐん進んで行ってしまいました。赤いリノリウムのタイルに、チョークと土の混じった白っぽい足跡がスタンプのように連なりました。

 校舎は不気味なほど静まり返り、ぱたぱたという夫の足音だけが妙に軽やかに響きます。

 足跡をたどって廊下の中ほどまで来ると、黒板消しくらいの大きさの黒い板に「校長室」と白字で彫り込まれた札が頭上に突き出ているのが目に留まりました。夫は引戸を開け、ためらいもなく足を踏み入れました。

 いかにも重役風のどっしりした木の机の前に、おじいさんが立っていました。猫背で小柄で、なんだか妙な人でした。用務員さんでしょうか、緑色のジャージのズボンにゴム長、白いランニングシャツ姿といういでたちは、この部屋にも季節にも明らかに不似合いでした。それに、いかにもお年寄りでものすごくくたびれた立ち姿なのに、剥き出しの二の腕の筋肉は隆々ともりあがっていて、そこにだけ生気がみなぎっているのです。

「イイダのおじちゃん。また鉄棒やってよ。大車輪!」

 夫はおじいさんにかけより、子どものようにキラキラした目でそうねだるのでした。

 イイダのおじちゃん、と呼ばれたその人は、窓の外を向いたまま、足元に転がっているブリキのバケツを竹箒でつつきまわしていました。

 窓の外にはどこまでもどんよりとした曇り空が広がっていて、あたしは寒いのを思い出して身震いしました。机の脇にある石油ストーブには火の気がなく、網の上の金のやかんは埃をかぶっています。

 あたしが軽く咳払いすると、イイダのおじさんは気だるげにこちらを向きました。胸元の名札にはタナカ、と書かれていました。

「そうだ、おじちゃん。センセイ呼んできてよ。センセイ」

 夫の不躾な声かけをどう詫びたものかと慌てていると、イイダのおじさんは無言のまま出て行ってしまいました。

 あとを追って廊下に出ると、隣の職員室に入っていく小さな背中が見えました。

 職員室はずいぶんと散らかっていました。フラスコやらガスバーナーやら試験管立てやらが、なぜか床に無造作に転がっています。そうかと思えば、カーテンレールからはてるてる坊主が干し柿みたいにたくさん並べて吊り下げられていたり、丑の刻参りの呪いの藁人形が掲示板に五寸釘で打ち付けてあったりするのです。

 ゆったり歩いているようにしか見えないのになぜかすごい早さで奥へ奥へと進んでいくイイダのおじさんを、あたしと夫は追跡しました。机の上に、なにやら茶色っぽい大きな流木のような、カラカラに干からびた干物みたいなものがでん、と鎮座しているのが目に入りました。その奇妙な置物が、子どもの頃に本で見た人魚のミイラにそっくりだと気づいたのは、前を通り過ぎてしばらく経ってからでした。

 人魚のミイラ?そういえば小学生の頃、クラスで流行ったわ。イエティだとかツチノコだとか雪男とか、世界七不思議がなんとかっていう本…。

 それにしても、広い職員室です。行けども行けども終わりが見えません。奥へ進むほどに辺りはますます散らかって、そこいらじゅうに木琴やトライアングル、あたしの腕の長さくらいありそうな黒板用のコンパス、人体模型の少年などが無秩序に通路に転がっていました。

 イイダのおじさんはひたすら前を見据えて、巧みにガラクタを避けながらすべるように進んでいきます。あたりはどんどん暗くなってきて、あたしはつまずかないように気をつけながら二人を見失わないように必死で追いかけました。もはや机もなく、職員室というよりは倉庫のような様相でした。

 イイダのおじさんは、目の前に現れた跳び箱をひょいっと飛び越え、マットに両足を揃えてきれいに着地しました。夫は真似をしようとして跳び箱でつんのめり、肩から落ちました。その拍子に、マットの横に垂れ下がっていた折り紙でできた輪っかの飾りを引っ張ってしまい、天井から吊り下がっていた大きなくす玉が割れて、紙吹雪が頭上を舞いました。夫は満面の笑みで立ち上がると、おじさんを追いかけます。

 行く手はますます暗く先は見えませんでしたが、足音の響きや空気の流れから、あたりが狭いトンネルのようになってきているのが分かりました。出てくるものはいよいよ奇妙で、おじさんと夫は大人がすっぽり収まりそうなほど度はずれに大きな陶製の金魚鉢の後ろに姿を消してしまいました。あたしは慌てて、壁のように立ちはだかる鉢の向こう側に回りました。左手には白いチラシのようなものがたくさん並べて貼り付けてあり、二人が走り抜けた拍子に風になびいて盛大にめくれ上がりました。目をこらすとそれらは習字の半紙で「希望」と書きつけてあったのですが、なぜかその子どもらしい力強い「希」の字には朱色で大きくバツ印が書かれ、隣にわざわざ「絶」と書き添えてあるのでした。

 ふいにあたりが明るくなり、あたしは目を細めました。

 そこはプールの更衣室でした。蛍光灯の白い光が煌々とともり、鍵付きのロッカーが並び、床には青いプラスチックのすのこが敷き詰められていました。

 イイダのおじさんの姿はなく、夫は顔面蒼白になって立ち尽くしています。

 あたしは心配になって、夫の手に自分の手を重ねました。体温が根こそぎ吸い取られてしまいそうな冷たさでした。氷のような手を両手で包み、そこにあったベンチに二人並んで腰掛けました。

 ひさびさに手なんか握ったからでしょうか。付き合っていた学生時代のことが思い出されました。あの頃はこの人の手は温かくて、手を繋ぐとほっとしたのに…。

 と、固く乾いた靴音が近づいてきて、あたしは現実に引き戻されました。

 扉から大柄の男の人が入ってきました。黒いズボンに黒いハイネックのセーター。いまどき珍しい七宝焼きのついたループタイに黒縁メガネ姿で、小脇に出席簿とチョークの入った箱を抱えていました。その顔を見た瞬間、あたしはここに来たことを後悔しました。

 がっしりした体躯はどことなくヨーロッパの傭兵を思わせ、眉間には人生の大半を憂鬱に過ごしてきた人に特有の不機嫌そうな深いシワが刻まれ、白髪交じりの頭はポマードで一本の乱れもなく撫でつけられヌラヌラ光り…要するにこの前のヤブ医者に瓜二つだったからです。

 唯一違っていたのはにおいでした。この人物からはあの医者から漂っていた独特の加齢臭はなく、かわりに雨が降る前のアスファルトのようなにおいがしました。

 あたしは折れそうな気持ちを奮い立たせて声をかけました。

「主人が今朝になって突然、学校に行きたいと申しまして…あの…こちらの卒業生というわけでは特にないのですが…主人は少し前から具合が悪くて…」

 しどろもどろになりながらもどうにか経緯らしきものを伝えると、ヤブ医者のそっくりさんは鷹揚に頷きました。

「では、授業を始めます」

 低い声でそう言うと、扉の向こうに伸びている廊下へ夫を促しました。

「はい!センセイ!」

 夫は勢いよく立ち上がり廊下へと足を踏み出しました。後に続こうとして、あたしはセンセイに止められました。

「あなたはこちらで待っていてください。個人授業ですから。マンツーマンです」

 義眼めいた目に射すくめられると、なんの授業なんだとか、そもそもあなたは誰なんですかとか、そういうごく当たり前の言葉は力を失って、どこかへ消えてしまうのでした。

「頑張ってね」

 あたしは抗議するのを諦めて、精一杯の笑顔を作って夫を軽く抱きしめました。その際、あたしはさりげなく彼のチノパンに手をやり、あるものをポケットにさりげなく滑り込ませました。

 夫とセンセイはすぐに廊下の暗がりに溶けて見えなくなり、足音と衣擦れの音だけが遠ざかっていきました。

 廊下のつきあたりにはころんとした白熱灯が灯り、階段が斜め上に向かって伸びているのがぼんやりと見えました。

 十分に距離ができたことを確かめてから、あたしは二人に続きました。

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