2-3

カオリはナディアを追いかける。

まだ、消魔車が来ていない。

シルフの助けなしで団地の五階まで上がるためには滝になっている階段を登らなければならなかった。

カオリは持ち前の身軽さを生かして滝をジャンプして超える。

すぐにナディアに追いつくと、手を貸し、二人の力を合わせて登って行く。

 

激しい渓流を登る鯉のようにとてつもない勢いで階段を登り切る。


「ついた!」


「お母さん!」

 

ナディアは迫り来る水をかき分けて進むと、自分の家にたどり着く。

間違いなくナディアの家から水が湧き出していた。

部屋に入るとナディアの母親がキッチンの水道を一生懸命。

毛布で抑えていた。


「お母さん何してんの! 早く逃げなきゃ!!」

 

ナディアのお母さんは一枚の紙切れをナディアに渡した。


『ごめんね。私が子供たちに触れるのを減らしたばっかりに不安にさせてしまって。

 そうでもしないと幸せになれないって聞いたから。

 そうしなきゃ幸せになれないんだったら私にはどうしようもないと思って……。

 そしたら、とても悲しくなって死にたくなっちゃった……。

 でも、さっき子供たちに殴ってほしいって言われた時。

 私が間違っていたことに気がついた』


「お母さん……」

 

ナディアはなんとも言えない表情で母親の顔を見ていた。

幸せを願えば願うほど、不幸せになってしまった人が目の前にいた。

そして、最後の一行を読む。


『慌てて魔災が起きないようにしたけど、間に合わなかったわ。

 申し訳ないけど、ナディア、後をよろしく』

 

遺言のように締めくくられた髪をナディアはひったくってポケットに突っ込む。そして叫ぶ。


「何言ってんの! お母さんも逃げるの!」

 

ナディアが母親を逃がすために引っ張り出そうとする。

しかし、その努力は徒労に終わった。



ヴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!



「霊獣の鳴き声!!」

 

カオリはナディアに警告する。

だが、ナディアはそこを動けなかった。

ナディアの目の前に真っ赤な目をした母親が立っていた。


「憑依……!?」


ナディアは驚きの声を上げる。カオリは叫ぶ。


「精霊祭りで言われたことを気にしたからかな!?」

 

ナディアは絶望的な表情を浮かべてカオリのことを見た。


「やばい、どうすればいいの!? 精霊の憑依なんて祓えるの!?」


「私にはわからないわよ!」

 

ナディアの母親は、焦燥状態に陥り大声で喚き散らす二人に向かって手を伸ばした。


 

ヴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!


 

母親が手を振り下ろした途端、家中から水が溢れ出す。

生きているかのような水が二人を包み込むと、あっという間に二人を外へと流し出してしまった。

団地の下、屋台の骨組みがバラバラに散らばっている場所にナディアとカオリは流される。

 

カオリは慌てて建物を見上げる。水の霊獣は団地の上に陣取っている。


「亀……?」


 カオリが見上げたそれはまさしく亀だった。

その額にはナディアの母親の姿があった。

水で作られた牙の鋭い亀は、建物に噛み付くとまるでスポンジをむしり取るように噛みちぎって捨てる。

 

ナディアが震える声で言う。


「お、お母さん……! やめて……」

 

そこへ耐魔服を着たギンガとアスカが駆け込んでくる。

ギンガは滑り込むようにナディアとカオリの間に座ると言う。


「大丈夫か! 二人とも!」


「まさか、水の精霊(オンデフィリア)が現れるなんて……」

 

アスカの独白を聴きながら、カオリはぱぱっと全身をチェックして答える。


「私は大丈夫。でも、ナディアは……。ナディアの家が、ナディアのお母さんが……」

 

カオリは隣で座り込むナディアのことを見る。

ナディアはギンガの呼び声に反応を示さず、じっと自分の家の方を見ている。

魂が抜けてしまい、人形のようだった。ギンガはそれでも呼びかけ続ける。


「ナディア! おい、ナディア!! 返事しろ!」

 

ナディアはぐるっとギンガの方を見つめる。すると、笑顔になる。


「あ、ギンガ隊長。よかった。

 ……私、家族を守るために命を使うと決めていたんです。

 母があの中にいるんです。あとお願いしますね」


「はっ?」

 

ギンガは面食らって一瞬固まってしまった。

ナディアはその隙を見て、飛び出した。

いつの間にか建物を完全に包んでいる水の立方体に横からざぶんと飛び込むと自分の家の方へ泳ぐ。


「ナディア!」

 

ギンガは走り出そうとする。

ナディアにはせめて、耐魔服を着せなければならなかった。

だが、そこへ亀が頭を突き出してくる。


「ギンガ、下がって!!」

 

アスカはギンガを無理やり引っ張って下げる。

ギンガは尻餅をついて引きずられる。

 

亀はスプーンで掬うように顔を地面に添わせる。

なんども、なんども、なんども。

まるで何かをこそぎとるようだった。

ギンガたちはあっけにとられていた。

何をしているのかわからなかった。

 

そして、亀は一歩踏み出した。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

近くで見ていた野次馬が食われたようだった。

ギンガは立ち上がって舌打ちする。

食べられたのは三人のようだった。

水でできた亀の中に人影が見える。

ヴィンセント、トーマスがギンガの元に駆け寄る。


「くそっ! ナディアは後だ! あの食われた馬鹿どもを助けに行く!」

 

アスカはギンガに警告する。


「ギンガ! 霊獣が出てるんだよ!?

 本来だったら絶対に助けになんて行かないレベルの災害なんだよ!?

 それをわかってるんだよね!?」


だが、ギンガは大きく頷くと叫ぶ。


「もちろんだ! だから強制はしない。

 俺は行く。

 アスカ、カオリ、ヴィンセント、トーマス。ついてくる奴はいるか?」

 

その問いに、全員がすぐさま頷いた。

頷きながらカオリは意外に思っていた。

彼女は少なくともトーマスが辞退するものだと思っていた。

 

カオリはヴィンセントが持って着てくれた耐魔服を急いで着用する。

ギンガは全員の顔を確認すると言い出す。


「よし、役割を決める」


「俺に任せてください!

 このクソ新人に俺が先輩だってこと教えてやらなきゃいけないですから!!」

 

トーマスは自分の胸をドンと叩きながら宣言する。

カオリはちらりと自分の方を見るトーマスと目があってしまう。

カオリは驚いた。


——トーマスは体裁のために命を使えるんだ……!?

 

ギンガは一瞬、渋った。

トーマスの現場での実力を彼は知らない。

と言うより、トーマスが実際に活躍した場面などこれまで一度もない。

失敗すれば命を失う現場でそんな人間を送り込むことはできなかった。

 

しかし、トーマスはギンガの沈黙を肯定と捉えてしまった。


「ギンガ隊長! あとの役割分担は任せました!」

 

トーマスはそう一言残して団地に走りこんで行った。


あまりの事態に全員がその姿をただただ目で追ってしまった。

だが、経験のない自称玄人が突然走りこんで救助ができるほど現場は甘くない。

 

亀はトーマスの姿をすぐに見つけ、足で踏みつけた。

トーマスに避ける動作などはなかった。

彼はまっすぐ、イノシシのように水でできた亀の中に突っ込んだ。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! 助けて!!!」

 

ギンガは我に返って一瞬後悔した表情を浮かべる。

 

その表情は全員のものだった。

ここにいるメンバーがいつもの調子だったらトーマスごときの独断専行など許しはしなかっただろう。

彼が走り出そうとした瞬間に取り押さえた。

しかし、今は誰も動けなかった。

彼ら自身が思っていた以上にメンバーは緊張していることを全員がそれぞれ再認識した。


「くそっ!! 何やってんだあいつは!

 俺と、アスカとカオリで水に突っ込むぞ!

 ヴィンセントは車にいるボブと協力して支援してくれ! 多分被害者を投げ飛ばす事になる」


「了解!」

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