第二章 人はないものを欲しがる
1 幸せの定義
ポチョン。ポチョンと一定のリズムを刻んで水滴が落ちる音が鳴っている。
「あれ? お父さん? お母さん?」
カオリは周囲を見渡す。
だが、いくら目を凝らしても無限に続く闇が続いていた。
カオリは突如、恐怖に駆られる。
目を開いているのか?
失明してしまったのか?
全くわからない。
「お父さん!! お母さん!!」
そこでカオリはハッとする。
大声で叫び回るような女の子ははしたない。
誰も喜ばせないのだ。
お母さんはいつもそう言っていた。
ハシタナイ子は“幸せ”になれない。
溢れ出る涙をこらえ、漏れでそうな鳴き声をこらえ、カオリは目の前に手を伸ばす。
すぐに何かに手が当たる。
「痛っ!」
カオリは慌てて手を引っ込める。
何かとんがったものが目の前にある。
「誰か! 助けて!!」
しかし、幼いカオリの声は響くだけで、何かに届いているような感じがしなかった。
聞こえる音は一定間隔で落ちる水滴の音だけ。
だが、その音があるおかげでカオリは自分の命がまだこの世に存在していることを確認できた。
どれほどの時間をそこで過ごしただろうか。
じっと座って助けを待つ。無限の暇は人から生きる気力を奪い去る。
カオリは必死で水が滴っている場所を探り、それを飲んで命を繋いでいた。
「一万三千と一、二、三、四、五…………」
少女の水滴の数を数える声が響き続ける。
少女は数字がキリよく一万になったらまた水を飲もうなどと考えていた。
何万まで自分が耐えられるのか。
死んだら即終了の数かぞえゲームだった。
「一万」
落ちてくる水滴を舌で受け止める。
何の味もしない。
水滴が舌にちゃんと乗ったのかどうかすらよくわからなかった。
「どうしてこんなことになっちゃったのかな……?
私たちは幸せに暮らしてたんじゃないの?」
突如。
一定リズムでなっていた水滴の音が止んだ。
カオリはゆっくりと水滴が落ちていた場所を見る。
命の終わりのようだった。
最後の一滴。
それ以上進まない時間。
世界の停止。
自分が幸せに疑いを持ってしまったからだろうか。
お父さんやお母さんが言うことをしっかり聞かなかったから、精霊さんたちに見放されてしまったのだろうか。
だとしたら、私はもう、どれだけ生きても幸せになれないの?
もう私にはこの世で生きる意味なんかないってこと?
精霊さんにとって私はいらない子なの?
不思議な感覚がカオリを襲った。
ねっとりとした生暖かい空気が体を舐める。
どこかへと落ちているような、吸い上げられているような、逆さまになっているような。
それでいて左右に揺さぶられているような、そんな感覚だった。
「ここかぁ!!!!!」
バキバキバキ!! と瓦礫を吹っ飛ばして一人の女がカオリの目の前に現れた。
「みっけ。待たせて悪かったな。何日待っちまった?」
「日……?」
「いや、こっちの話だ。
私の力、ちゃんと発動しててよかったよ。とっとと出るぞ!」
女の人はカオリの体を持ち上げるとポーンと放り投げた。
カオリはその時知った。
自分はまだ生きられるんだ。まだ、生きてていいんだ。
幸せになっていいんだ……………!
カオリは筋肉隆々の男たちに受け止められる。
自分の体が縮こまってしまうのを感じる。
場面が急転する。
カオリは何となく気がつく。
これは夢だと。
いつの間にか、懐かしい養護施設の二段ベッドに寝ている自分になっていた。
女の子の部屋だった。
身寄りのない子供たちが集められ、中学校を卒業するまで面倒を見てくれる。
朝の挨拶に行かなきゃとカオリは体を起こして食堂へ進む。
「おはよう、みんな! 今日も家族仲良く過ごしましょう」
院長先生が挨拶をする。
いつも必ずスーツを着込み、子供達に敬語で接してくれる。
みんな、院長先生のことは好きだった。
彼はいつも一緒にいて、子供達に生きるために必要なことを教えてくれた。
砂場で遊んでいて仲間はずれの子を作ってしまえば、院長先生が飛んできて
「いいかい? ここに暮らすみんなは『家族』なんだ。仲良くしなきゃダメだよ」
部屋が狭いと新しく入ってきた子を無視しようとすれば、院長先生が飛んできて
「大人数で暮らす『家族』の方が楽しくて嬉しいだろ? みんな一緒だ」
学校の宿題を少しサボると
「勉強して良い学校に入ることこそが、大事なことなんだ。みんな学びなさい」
喧嘩をすれば院長は当事者たちをじっと見つめて
「暴力は何も生まない。手をあげるくらいなら、自分を省みなさい」
院長はカオリの隣に座って、カオリの頭をガシガシと撫でる。
その大きな暖かい手のひらがとても心地よかった。
「みんな、仲良く。そうしていればきっとこの幸せのひまわり養護施設に精霊がやってきてくれる。
そしたらきっとみんな幸せに生きていける」
院長はそう言ってにっこり笑っていた。
しかし、場面は再度暗転する。
その話からしばらく経った後の雨の夜になっていた。
雨音でなかなか眠りにつくことができなかったカオリは夜中にトイレに起きた。
そのとき、カオリは職員室の方からとてつもなく大きな声が響いているのを聞いてしまった。
「クリスさん。いつになればここは精霊の宿る“幸せ”な養護施設になるんですか?」
黒いスーツを着た人間が、椅子に座る院長に詰め寄っている。
院長はぐっと力を込めて何かをこらえるようにしている。
かろうじて絞り出した声で言う。
「……すみません。もうしばらく待ってください……。
ここを必ず幸せ養護施設にしてみせます」
「そうしてもらわねば困るんですよ。
我々も安くない金額をここに投資している。
国王様は幸せの精霊が出るようになれば援助を考えるとおっしゃられている。
民間企業初の養護施設の成功はクリスさん、あなたの肩にかかってるんだ。
また来ます。その時までにお願いしますよ?」
クリスは頷く。
黒スーツの男たちはクリスの方をぱふっと叩くと部屋から出て行ってしまった。
クリスは一人、職員室の取り残されていた。
両手でバンっ! と机を叩く。
「くそっ! 俺だって必死にやってる!
幸せのためにどうすべきか子供達に教え続けている!
でもな、そもそも、養護施設に来るようなガキなんて最初から不幸せなんだよ!
本気で幸せにできると思ってんのか!?」
クリスは手にした紙を読み上げる。
「幸せになれる条件!
一つ! 家族を大事に!
二つ! 真剣に勉強し、いい学校に入ること!
三つ! 親の言うことは必ず聞くこと!
四つ! 体を大切にすること!
五つ! どんな人にも優しくすること!
…………!」
クリスはずっと、50個以上にのぼる幸せの条件を上げ続けた。
「全部守ってる……。でもダメなんだ。
精霊は現れない。幸せじゃなかったら精霊は現れないんだ……。
養護施設に足りない幸せって何だ……?
どうしたら俺は人を幸せにできる?」
「院長先生……?」
カオリは恐る恐る院長に話しかける。
振り返ったクリスの顔は、いつのも優しそうな院長先生とは全くことなっていた。
怪物でも宿ったのかと思ってしまうほど禍々しい、鬼のような形相だった。
「誰だ?」
院長に睨まれたカオリは背筋が凍る。
体が全く動かなくなってしまった。
「カオリか。ねれなかったのか?」
「院長先生、大丈夫……?」
院長はカオリの方へ手を伸ばす。
びっくりして体を縮こませるカオリ。
院長はカオリの頭を撫でる。
前に撫でてくれた時とは違う。
冷たく硬い手のひらがカオリの神経をも冷やしていくような気がした。
「今日の私のことは忘れるんだ。知らないほうが幸せなこともある」
カオリはその場でザブンと水の中に沈んでいくような感覚を得た。
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