29 第七皇女は動き出す。

 「――。ほら、危ないぞ」


 往来が激しい大通りの中で人の波に呑まれて流されそうになった私の身体を引き寄せ、麗しい笑みを浮かべた公爵が手を伸ばしてくる。


 その身にまとっているのは見慣れた黒い軍服ではなく、小洒落た平民向けの服。白いシャツにラフめのスラックス、紺のクラヴァットをつけ、ジャケットを羽織った出で立ちのイーゼルベルト公爵は違和感なく街に溶け込み、完璧な身のこなしだ。


 将軍としての姿ではなく、庶民の姿になった公爵はなかなかお目にかかれるものではない。街中で身分がバレないよう名前を呼び捨てにし、(公爵は私のもうひとつの愛称で呼んでいるけれど)言葉遣いも崩した感じは普段と違って新鮮である。


 ……新鮮ではある。確かに。

 しかし、だ。


「なんではそんなに楽しそうなの……?」

「そりゃあ、麗しい婚約者と街でデートなのだから嬉しいに決まってる。それよりもここで立ち止まっていたら往来の邪魔になるから、早くこちらにおいで」

「あ、……はい」


 差し伸べられた公爵の手を素直に受け取り、私は大通りの道の端に歩いていく。すると不意に一陣の風が吹き帽子が飛びかけ、慌てて手で押さえた。その拍子にサラリと肩口にゆるくまとめていた栗色の髪が流れ落ちる。


「いつもの白い髪も素敵ですが、その色もなかなか似合っています。……可愛らしいですよ」


 零れ落ちた栗色の髪のひと房をすくい上げた公爵が耳元で甘く囁いてきた言葉に、私の頬は赤くなってしまった。


「そういう事を今言わないで! もう!」

「それは失礼した」


 往来のど真ん中という公衆の面前で憚らずにそんな甘い言葉をかけてくる公爵。憤慨する私にくつくつと実に愉快そうに笑ってこちらの手を引くレイヴンには反省の意がちっとも感じられない。


 大体デートをしているわけではないのに、恋人のように扱われるといやでも意識してしまうではないか。

 ……別に恋人扱いが嫌なわけではないけれど。寧ろ嬉しかったりするんだけど。仮にも婚約者同士なんだし?


 って、ああもう! そんなことを言ってる場合ではないわ!


 ともすればお花畑になりそうな思考を無理矢理頭から追い出して、私は賑やかな大通りに目を向ける。

 精霊達と協力して造り上げた大通りには今日も沢山の人が集い、急設の市場もなかなかの繁盛を見せていた。

 公爵がまた変なことを言い出す前に本題を済ませよう。今は何よりも問題を解決する方が先だ。公爵から目を逸らした私は深呼吸してまず気持ちを落ち着かせる。


 次に目を閉じると、魔力を薄く引き伸ばし全体に波紋のように展開していく。そのまま集中すると大通りの喧騒が意識から遠のいていき、気配を敏感に察知できるようになる。


 そのまま限界まで探査範囲を引き伸ばし、大通り全体を確認する。

 むむむ、としばらく唸りながら作業を続け何も異常がないことを確認すると、私は魔力を解き目を開けた。


「うん、大丈夫。ここら一帯は私の魔力の残滓がまだ残っているから『魔』は近づけない。暫くは影響は来ないと思います。問題があるとしたら……」

「エイルゼン山脈……それに鉱山地帯の方、ということか」

「そうです。グウェンダルクは地の精霊。力の影響を濃く受けるのは土壌やそれを取り巻く自然地帯。だとすると山脈の方は何かしら問題が起きているかもしれない……」


 地の精霊であるグウェンダルクはまず間違いなく『魔』に完全に取り込まれたと断言できる。今朝方グウェンダルクの愛し子であるナスターシャに呼びかけてもらったのだが、グウェンダルクは彼女の声に応えなかった。


 精霊にとって己が選び、加護した愛し子は何よりも優先すべき大事なものである。その愛し子の声に応えないということは、何らかの不測の事態に巻き込まれたか、精霊自体が死滅した以外に有り得ない。


 古くより強大な力を誇り、この地一体を守護する力を持つかの精霊が容易く滅ぼされることは無いと思いたい。けれど相手は何せ災厄の象徴とされる魔である。その最悪の可能性も考慮に入れなければならないだろう。


 グウェンダルクがどんな状態にあるのか、又その所在も掴めない今まずすべきことはかの精霊の守護下にあったこの地への影響の有無。

 元々ミッドヴェルン領を含むエイルゼン山脈一帯は帝国が誕生する以前より古来からグウェンダルクの加護を受けていた。


 地属性の精霊の主な特徴は大地との親和性が高いこと。中でも頂点にある高位精霊ならば河川や地脈の底にまで加護の範囲は及ぶ。グウェンダルクに異常があればまず影響が出るのは土地そのもの。精霊の力を取り込んだ魔が既に行動を起こしているならば自然に異変が起きていてもおかしくない。

 そう考えた私と公爵はミッドヴェルン領全体の地質が汚染されていないか確認することにしたのだ。


 大通りはミッドヴェルン領の中心地。ここを起点として円状に魔力の波動を広げて地質の状態を確認したが、何も異常はなかった。

 ということはまだ領地自体に影響は及んでいないということ。


「でもこれは想定内。領地全体に影響を及ぼしたいと考えるなら……」

「山脈全体を汚染した方が効率はいいですからね」


 私の呟いた言葉を公爵が続ける。

 その言葉に私は同意を込めて頷いた。


「生活する上で土地と人間は切り離せないもの。山脈から流れる川で人は飲み水を得、山の獣を狩り、自生する花や草は食料や薬草となる。山脈の恵みは生活において重要だから」


 古くからこの地と共に暮らしてきた領民にとってこの地の恵みは無くてはならないもの。人間に災厄と混沌をもたらすとされる魔が狙うならば間違いなく山脈の汚染。


 あまり時間がないわ。早く何とかしなければ。そのためには――。


 強く手を握りしめ、解決策を思案していたその時。


『――レス、聞こえる? セイルだよ! メルが山脈の方の調査終わったってさ。今からそっちに合流するねー!』

「分かったわ」


 突如聞こえてきたセイルの声に私は思考をやめ、公爵に再度視線を向ける。


「セイルから連絡がありました。メルランシアお姉様とライオットの方も調査が終わったそうです。今から合流するので転移しますね」

「分かりました」


 公爵が頷くのを確認して、共に大通りをそれて人目につかない路地裏に場所に移動すると私は転移魔術を行使した。










 ――白い燐光を残して音もなく私と公爵が消えた路地裏で、山のように積まれ、倒れた木箱のひとつに潜んでいた黒蛇がチロチロと舌を出し入れしながらこちらの様子を伺っていた事を、既に合流場所に転移した私には知る由もなかった。

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