急落(後)*ネコ様視点
「どうした? ああ、プライドが邪魔をしているのか? だが、寛大な俺は、きちんと『申し訳ございませんでした』といえば、頭を下げろとまでは言わんぞ?」
あんぐりと口を開けている私(わたくし)を見て、言いにくそうだとでも見えたのか、ネトラリアン殿下は無意味に尊大であることをやめようとはしません。
頭のどこのネジを緩めれば、ここまで阿呆になれるものかと、頭を抱えたい気持ちでございます。もしかしたら、客観視という言葉をご存知ではない、あるいは、未だ恋に盲目になっているのでしょうか。
「……愚弟、ネトーブリアン姫は、そういうことを話しにきたのではないと、私は思うがね」
「兄上は黙っていろ! この女は、元とはいえ、俺の婚約者だ! 俺が一番、こいつのことはわかっているっ――ブハァ!?」
途中、阿呆(ネトラリアン)は、椅子から転げ落ち、床とキッスでございます。
グーでございます。
グーで殴りました。
私が、この阿呆を、グーで殴りました。
それはもう、怒りは頂天を超えて、ルリア様の元までたどり着くのではないかというほどに、高く、高く、登り詰めました。
怒りを通り越して呆れる、という言葉をきくことはありますけれど、通り越す前に、怒りが表に出たのか、あるいは、通り越した先にあったのは、憤怒だったのかもしれません。
とりあえず、なんとなく、殴りたくなりました。それだけです、理由はありません。強いて言えば、心の持ちようが、少しだけスカッとしたような気がします。
そうしてスカッとした後の、今の心境は、雄猫のタマを蹴り上げて差し上げた時と同様です。やることはやったので、とりあえずカイゼルの腕の中に逃げ込みたい気分でございます。
「な、なにをする!?」
「だまらっしゃいっ!」
ガタリと立ち上がり、見下しながら、阿呆をピシリと指さしました。物語のお姫様がやっていた、セリフと決めポーズでございます。
人生で一度は言ってみたかったことと、やってみたかったことが同時に実現し、表に出ている怒りの表情とは裏腹に、胸の中は達成感で満たされます。
なんだかもう、行くところまで行ってしまえと、
我慢などする気は、もうございませんし。ええ、それが良いですわ。
「貴方と婚約者だったことは、人生の最大の汚点ですわっ! つい最近までおねしょをしていたような王子、願い下げですのよ! その上、こっそりと鼻の穴を穿ってはその指を口に運び、挙げ句の果てには耳の穴まで同じように……! もはや、人間として、文化的ですらない、ただの猿……いえ、猿ですら、そのようなことはしませんから、猿以下ですわね! ……正直、貴方とは会話も、同じ空気を吸うことすらもしたくはありませんでしたが、公爵家令嬢としての責務だけは果たさなければならないと、我慢に、我慢に、我慢をしてきました。でも、それも、もう限界ですわっ! せめて淑女らしく縁を切りに来て差し上げたというのに、その言い分、その思考、街の雄猫どものほうが、ストレートに迫ってくる分、まだマシですことよ!!!!」
「な……な……っ!?」
き、気持ちいいですわぁぁぁぁああ!!!!!!
淑女として言ってはいけないことを、声を大きくしてぶちまけることの背徳感、それに、今まで溜め込んできた不満を爆発させた開放感……、最高の気分ですわ……!
まあ、最初からこのくらいは言ってやろうかと、思ってはいたのですけれども、思っていた以上ですわね……うふふふふ!
驚く阿呆を見て気分の良くなった私は、追撃とばかりに、特に意義もなく続けることにしました。
「『魔王めー。俺のせいなるつるぎを食らうがいいー。ぐあー、くそー、だいにおうじめー、よくもやってくれたなー、これは仕返しだー。な、なにをする気だー。ふはははー、きさまの大事なフィアンセに呪いをかけてやるのさー。な、や、やめろー。ネトーブリアンは関係ないだろー。きゃー、だいにおうじさまー、助けてくださいましー。このままでは私(わたくし)はー。安心しろー、わが愛しの姫よー、俺が必ず呪いを解いてやるからなー』」
一通り、覚えている限りのセリフを口にして、ふぅ、と息を吐きました。何を言っているのかわからない様子の一同の中、顔を真っ赤にする阿呆が若干一名。
「き、貴様ぁぁぁ!!!! そ、そ、それをどこでぇええええ!!!???」
「公爵令嬢たるもの、婚約者の全てを知るのは義務ですわ。それが、たとえ、嫌な相手だとしても、それは変わりありませんわ」
「……ええと、今のは一体?」
状況を理解する阿呆と私ですが、しかし、ニック殿下やハムペルトはご存知ないご様子。ここは親切な私が、教えて差し上げませんと。
「実は今のは、「い、いうなぁぁぁ!?」……ネトラリアン殿下が一年前に書いた、黒歴史ノートの一部でございます」
制止しようとする阿呆を無視して、私は事実を口にします。人の秘密を知るのに、心を読む必要などございません。徹底的に監視し、調査(ガサ入れ)すれば、人の秘密など、簡単に見つかるものなのです。
「く、黒歴史?」
「要するに、妄想ノートですわ。妄想の中の格好良い自分に酔うことを目的としています」
「それは、なんとも、まぁ……」
「まあ、ぶっちゃけ、とても恥ずかしいノートでございますね」
気分が高揚しているからか、言葉遣いが若干適当になっているような気がしますが、まあ、いいでしょう。
「貴様、許さん、許さんぞ……! 絶対に許さん!末代まで呪ってやる…………っ!!」
「おほほほほ。できるものならやってごらんなさい、ですわ! ですが、私とネトラリアン殿下は、二度と会うことはないと思いますわよ?」
「なっ、どういうことだ!?」
「お気づきになられていないのですか? この屋敷に入られているということは、おそらく、そういうことでございましょう?」
ここで、視線をニック殿下へと移すと、殿下は苦笑しながらも、ゆっくりと頷きました。
今回の婚約破棄についての一部始終については知らされましたが、国王陛下に無断で事を運び、挙げ句の果てには公爵家までもを巻き込んでの独断専行。王家の恥となったネトラリアン殿下は、今となっては、目の上のたんこぶでございます。公に処分しては、王家の恥さらし、かと言って、放置するわけにも行きません。
そこで、おそらくは療養と言う名の軟禁。ネトラリアン殿下は一生をここで過ごすことになるのでしょう。第二王子派閥の貴族も、今回のネトラリアン殿下の所業には呆れ見限っているでしょうし、そうでなくても、第二王子派閥というだけで、この王国内で生きる上で、肩身の狭い思いをすることになるでしょう。
それに、第二王子ネトラリアン殿下は、事実上の継承権剥奪ということになるでしょうから、第二王子派閥に居座っても旨味などございません。
頭の回転の早い貴族であれば、第一王子派閥に鞍替えするだろうことは、容易に想像がつきます。これは勘ですけれど、私の捜索も、そうした派閥が増えた結果のことなのではないでしょうか。
第一王子派閥に鞍替えできない貴族はいくつかあるでしょうが、私の実家……フリュッセリュ公爵家がその代表でございましょうね。
私はニック殿下に向き直り、淑女として丁寧な礼をいたします。
「ニック殿下、このような場を設けていただき、ありがとうございましたわ。ですが、ここにいても、ただ時間を浪費するだけでございましょう。もう、宮廷の方へ戻るべきだと具申いたしますわ?」
「た、確かに、その通りかもしれないね」
若干、引きつらせていた表情を取り持ちながら、ニック殿下は阿呆を一瞬だけちらりと見ます。しかし、すぐさま、私に向かってニコリと微笑みながら、私をエスコートしようと手を差し伸べてくださいます。
あれほどの大立ち回りをした私に対して、この紳士な対応。その気高い人格が伺えるというものですが……。
殿下のお手を蔑ろにすることはできない私は、一瞬だけ躊躇いながらも、御手をお借りすることにいたしました。
そうして屋敷を出た私たちが宮廷に戻るべく、お庭を歩いていた、その時のことです。
「あ」
私の向かう先、視線の先に、カイゼルの姿が見えたのです。こうして目にするのは、カイゼルに連れられて王宮に来た、あの日以来でしょうか。
なぜここにいるのか、という疑問は浮かびましたが、私は思わず声を上げて駆け寄ろうとしてしまいました。しかし、今の私は、ニック殿下の婚約者。そんなはしたない真似はできないと理性が訴え、ギリギリで踏みとどまります。
カイゼルもこちらに気づいたようで、一目で不慣れだと分かる礼をして、こちらに近づいてきました……、そこで私は、無意識に、パッと殿下の手を払いのけてしまいました。
「ネトーブリアン姫?」
「……あっ」
やってしまったと気付くのは、カイゼルが目の前まできた時でございます。そんなことは知らないカイゼルは、ニック殿下に向かい、膝をついてから口を開きました。
「ニック殿下、ご機嫌麗しゅう……ええと、本日も良いお日柄で……」
「…………やあ、君の活躍は聞いているよ。君を僕の直下においてよかった。ところで、その変な挨拶、誰に習ったの?」
ニック殿下は一瞬だけ私を不思議そうに見たものの、その無礼を咎めることなく、立ち上がったカイゼルとの会話に華を咲かせ始めました。それを後ろで眺める私は、周りからどのように見られているのでしょうか。
殿下に無礼をしてしまったことを悔やむ小娘?
それとも、殿下に構ってもらえずに、嫉妬する婚約者?
そのどちらかかもしれませんし、どちらでもないかもしれません。ただ、私は先程までの気分の良さの中に、陰りが混じっているのがわかりました。
それは、一刻も早く、ここから離れたいという暗い欲求。
「ネトーブリアン姫には言っていなかったかな。カイゼルには、僕の秘書になってもらうことにしたんだ」
しかし、この状況がそれを許してはくれません。立ち話をする気満々のニック殿下を少しだけ恨めしく思いながら、私は一歩前に出て、カイゼルと相対します。
思わず、猫だった頃のことを思い出して、その胸に飛びかかってしまいそうになりますが、そのようなはしたない真似は、流石にできません。それでも、決して短くない期間、ともに過ごしてきた
「ご機嫌麗しゅう、姫殿下。お元気そうで、何よりでございます」
カイゼルは、機敏に膝をつき、首(こうべ)を垂れて、恭(うやうや)しく、たどたどしく、そしてーー、疎々(うとうと)しく、口上を述べます。
そんなカイゼルを見て、私の晴れ晴れとしていた胸中は、一瞬で、星のない夜空のように暗くなって行きました。
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