第5章 地球の危機VS魔法世代 その4
放課後の定番ルート。神崎家の居間には三人の姿があった。神崎母子と真実妹。
それぞれの前の湯飲みは暖かく、小皿に乗る羊羹の大きさもまばらだ。
「お母さんたち、明日から旅行に行ってくるから」
突然切り出された。
「……は?」
あまりにも急。いつ決まったのだろうか。しかも、自分抜きで。
「いつまでだよ」
「三日くらいかな。お父さんの会社でその間は休みが取りやすいって言っていたから、旅行の予定入れちゃった」
「入れちゃったってなぁ……」
(俺には秘密かよ)
母は満足そうな笑みを浮かべ、右手を頬に当てる。
「新婚旅行以来なのよ? ふたりきりでもいいと思うんだけどなぁ」
「いや、そりゃいいけど……」
「でしょ? だから、勇気にはないしょで計画立てていたんだけど、まずかった?」
(まずくはないけど……ひとこと言って欲しかった気がする)
「……問題ない。ふたりで楽しんでくるといいよ」
そう言っておく。
「海外旅行には休みが短いから国内旅行にしたんだけど、国内だと彗星は落ちてきちゃうんだったわよね?」
「ああ」
「それでちょっと迷ったんだけど、せっかくだからってことでお父さんも賛成してくれて」
「会社……あんまり休みないもんな」
神崎の父の会社は拘束日数が多い。時間自体はそれほど長くはないが、休みは週に一回。しかも、それがなくなることさえある。スケジュール上では週に二回休みがあるのだが、なにかと呼び出されてしまうことが多い。
それが三日も休めるのだ。おそらくは彗星のためだとは思うが、滅多に取れる連休ではない。有効に使うことに異議はない。
「だからその間留守番頼んだわよ。羊羹は、勇気が欲しければ買っておけばいいから。あ、もし愛ちゃんが食べたいって言ったらちゃんと買ってくるのよ」
「あたしは、別にそんな……」
「いいのよ遠慮しないで。私たちが出かけている間も気兼ねなくうちに来ていいから」
ニコッと笑う。
母はすでに妹のことを受け入れている。
かなりの回数来ているからだろうか。それとも、気に入ってしまったからなのだろうか。
神崎にとって初めはそのことが厄介だったが、いつからかそう思わなくなっていた。知らず知らず、自分も妹のことを受け入れてしまっていたのだ。
「勇気、お母さんたちがいないからって、愛ちゃんに変なことしちゃダメよ」
「なっ! ……しねぇよ」
「そう。それなら別にいいんだけど。愛ちゃん、気をつけるのよ。勇気もなんだかんだ言ったって男だから」
「……はい」
ふたりとも顔が真っ赤になっている。神崎はかろうじてセーフだが、妹は完全にアウト。
母の不意打ちに、完全にしてやられていた。妹など耳まで真っ赤だ。
「それじゃ、お母さん買い物があるから、ちょっとスーパーまで行ってくるわね」
「ああ」
「なにか買ってきて欲しいものある?」
「……ないかな」
「じゃ、愛ちゃん、ゆっくりしていってね」
「はい。そうさせてもらいます」
母は残りの羊羹をひと口に放り込むと、お茶をずずっとすすった。
それから立ち上がり、手提げを持つと出ていってしまった。
静けさ。
それを最初に破ったのは妹だった。
「旅行行っちゃうんだね」
「……だってな。俺は置いてけぼりだが」
「あははっ。かわいそう」
全然かわいそうではなさそう。目が笑っているし、声でも笑った。
「こっちの身にもなってみろ」
不機嫌を装ったつもりが、できていなかったらしい。
「……? 神崎君は楽しいのかな?」
そう見えていたようだ。
もしかしたら顔が笑っていたのかも。そう思って口を引き締める。
その顔がおかしかったのか、妹の顔により大きな笑顔が乗る。口元を手で押さえ、笑いを必死に堪えているようにしか見えない。
「……ぷっ!」
噴き出した。
すると止まらない。「あははははは」
お腹までも抱え出した。
「笑うな」
憮然として言い放つ。
なにがそんなにおかしいことなのかがわからない。変なことをしたつもりもなければ、言った憶えもない。留守番が決定しただけだ。
ただそれだけのはずなのに、目の前の赤髪は震え続けている。
「なにがそんなにおもしろいんだよ」
「ふふっ、ぜーんぶっ!」
笑顔が絶えることはない。そのこと自体に心地よさを感じ始めていた神崎は、自分の心に否定を投げ入れてみた。反応は薄い。
知らない間に、妹がここにいて自分に笑顔を向けていて当たり前になっていた。
まるで、太陽がいつも天から地上を照らしているように。
(もしも……もしも、この笑顔がなくなったりしたら――)
不意に浮かんだ考えを即座に切り捨てる。
考えることが怖い。その時の自分がどうなっているかわからないことが怖い。
だが、自然と頭はそのことについて考えてしまう。
当たり前のこと、それが当たり前ではなくなった時。その時には人は違和感と不快感に支配されてしまう。……当たり前が戻るまで、もしくは――
その当たり前を忘れてしまうまで。
「あたし羊羹好きだから、買っておいてくれるとうれしいな」
急に現実に引き戻されて神崎の返答が一瞬遅れる。
妹の言った言葉を脳内に送り込んで消化する。すぐにある部分に引っかかった。
「……ん? お前、別にいいんじゃなかったのか」
「ううん。ホントはよくなかったの。だって、羊羹おいしいから」
「……そうだな」
「だからね、神崎君がめんどうじゃなかったら買っておいて欲しいなって、そう思ったの」
「面倒、だな」
即答に妹の表情が沈む。
見る間に陰を落としていく顔は、あたかも午後にはしぼんでいく朝顔のように思えた。
「いきなり落ち込むなよ」
「だって……、早いんだもん、断るのが」
間髪いれずに『面倒』と言ったことに対してなのか、羊羹を買っておいてもらえないことに対してなのかがいまいちわからない。両方、という線が強いかもしれない。
「……ちっ、わかったよ。どうせ俺も買うつもりだったから、買っておいてやるよ」
「ホントっ!」
刹那の立ち直り。その変化は目を見張るものがあった。
伏せかけていた頭はぴょこんと跳ね上がり、爛々とした目でじっと見つめてくるので逃げたくなる。両指が交互になって握られた両手のためか、まるで祈られているように思える。『神様ありがとう』状態だ。
「別にお前のためじゃないけどな」
「いいよいいよ! 神崎君が買ってきてくれればそれだけで」
「……そうか。あ、でもやってるかな? 父さんの会社が休むくらいなんだから、羊羹屋なんてやってなくてもおかしくはないな」
「あ……」
また沈みそうになる。引き上げるかどうか瞬間悩み、そうすることにした。
「明日見てくる。土曜で学校休みだし。それで、もしやってたら買ってくる」
「……うん」
これで立ち直ってくれるだろう。羊羹屋がやっていてくれればなにも問題はないのだが、もし休みだったら困ったことになりそうだ。
羊羹購入が半確定したからか、安心た様子の妹はなにかに思い至ったらしい。かすかに目が輝いている。
「ねぇ、神崎君の部屋に行ってもいい?」
「俺の部屋? 行ってもなんにもないぞ」
「それでもいい。ちょっと見てみたいだけだから」
わくわくとした顔。手はお祈り、目は上目遣い。『お願い』ポーズだ。
その格好にまるで免疫のない神崎は、内心どぎまぎしながら表面は平静を装う。
「……荒らすなよ」
それだけが困ることだ。あとはなにも問題はない。断る必要もなければその理由もなかった。
それに対する答えは笑顔。「ふふっ」声も漏れた。
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