第3章 小さな流れ その6

 珍しく雨の日。

 最近晴ればかりが続き、もう雨は降らないのだろうかとさえ思えるくらいの期間を置いて。

 どんよりとした雲が空を覆い始めたのが、夜半を過ぎた頃。朝靄にしける空気が静かに震えだし、やがて小粒の雨が降り注ぎ始めた。

 次第に強くなっていく雨は窓を叩き、まどろむ余裕を与えずに覚醒の音をあげる。

 昨日は少しだけ早く眠りについた神崎は、ガラスを叩く雨の音で起こされたひとりだ。

 ふとんは足の上に乗せたまま。上体だけを起こし、半分開いていない目をこする。何度か左右を見てから、おもむろに大きく伸びをした。

 どんなに大きな音がそこにあろうが、二度寝の危険はどこからでもやってくる。

 神崎は足をふとんから引きずりだし、立ち上がって着替えを探す。すばやくこれを終えると一階へと降りていった。

 部屋を出ると、包丁がまな板を叩く元気な音が聞こえてきた。

 居間に辿り着き、そこに座るとテレビの電源を入れた。

「あら、今日は早いのね」

 息子の存在に気づいた母親が台所から顔を出す。手にはエプロンの端――手を拭いている。

「これじゃ、な」

「そうよね」

 親子揃って真っ黒な空を見る。

 日の出前なのか、本当に暗い。いくら早起きとはいえ、あけぼのがないのも寂しい。

 ようやく画像が映りだしたテレビでは、お天気お姉さんが滑舌悪く放送をおこなっている。どうやら、全国的に雨のようだ。

 なぜこんな大雨の日に、わざわざ放送局の屋上で雨ガッパなのだろうか。傘も同時に差してはいるが、おそらく重いだけだろう。

「今日はやまないかな」

「たぶん。ほら、今やっているけど一日中青よ」

 日本の縮尺が細かく四角で区切られている。そして全国にある四角がすべて真っ青に染まっている。この青、これは天気予報では雨を指している。晴れなら無色、曇りなら灰色、雪なら白といった具合だ。

 六時間ごとの天気予報では、全国まったく変わらずに真っ青。珍しいことこの上ない。

「……すごいな」

「そうね」

 ちゃんとした朝がやってくれば、もしかしたら少しは明るくなるのかもしれない。だけど、今の状態では夜とまったく変わりがない。これで学校へ行く、というのも不思議な感じがする。

「それじゃ、お母さんはご飯作っちゃうから」

「ああ」

 なにもすることがなくなってしまった。

 このままひとりで呑気にテレビを見ているという方法もあるが、あまり意味はない。いっそ自室に引き返ったほうがいいかもしれない。

 思ったら即行動。自室へと帰る神崎。

(もう一回寝るかな)

 まだ広げたままのふとんを見てそう思う。だが、この雨だ。寝るのにはちょっとうるさい。それにせっかく起きたのに二度寝でぐずる可能性を作るのもおもしろくない。

 しかたなく読みかけのマンガを手に取り、ふとんを壁まで引きずり寄せる。その上に座って壁を背にする。

 このまま長い朝はしばらく続いた。


 神崎は闇夜同然の道を歩いていた。

 朝だというのに外灯が点いている。月明かりがない分、普段よりも暗い。

 いつもなら散歩の人間や犬と行き違うものだが、あいにくそれもない。

 静寂。そう表現するのもいささかおかしいが、人気のない通りは雨音以外の音がなにもなかった。

 不気味に明滅する外灯。

 一定間隔に据えられているそれらは、一部が壊れると途端に一帯が暗くなる。今通ったこの場所は、かなり前から電球が危なくなっていた。夜道では蛾などの虫たちが電球と戦いを繰り広げているが、雨の今ではそれもない。

 学校まではまだ十分はかかる。雨が降っていることを考慮に入れて早目に家を出たが、どうやらそれは正解のようだ。

 そこかしこに大きな水たまりができている。それらをいちいち避けているとそれなりに時間がかかる。学校までよけいに五分上乗せといったところか。

 それにしても誰もいない。

 学校へ行く小中学生。それに神崎と同じ高校生。通勤姿のサラリーマンがいてもおかしくはない。

 だが、未だにひとりの姿も見ていない。

 家々に明かりは点いているから『人間が消えた』という可能性はない。一瞬そんな危険な思考をしてしまった自分を恥じながら、神崎はふと考える。

(もしかして、電車が止まったか?)

 そうならば会社員の姿がないのもうなずける。電車が止まってしまえば、近くに勤めていない限り通勤ができない。

(学校……休みか?)

 もしそうならば、神崎以外の人間がいないこともうなずける。学校が休みになってしまえば、学校へ行く人間などそうはいない。

 しかし、その考えを大きく否定してしまいそうな影が前方に見えてしまった。

 ヒョロリ背が高く、同じ制服の男。

 声をかけようかどうか迷い、結局かけないことにした。

 真っ暗なのに、暗い色の傘――神崎も同様――を持っていて制服が紺色のために、うしろから見ると周囲の色に溶け込んでしまっている。

 ほんの少しだけ早足になって影に追いついてみる。

 横に並ばれてやっと気がついたのか、眼鏡がどんよりとこちらを向く。

「……よぉ」

「暗いな。どうした?」

「いや、どうもしないんだが……雨だと気が滅入る」

 はぁ、山村の溜め息は深い。

 この男、雨だと本当に元気がない。傘を持つ手に力はなく、歩く足元も頼りない。

「まぁ、元気出せ」

「そうしたいのはやまやまなんだけどな……」

 どうやらダメらしい。

 横にいるだけでどうにも暗くなってきそうだが、ひとりでいるよりはマシだ。神崎は山村といっしょに学校に行くことにした。

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