第3章 小さな流れ その5

 おはよう。そんな声が随所で聞こえる。

 そんな朝一の学校で、珍しい組み合わせがそこにあった。

 ひとりは短髪の男――神崎。もうひとりはサラッとしたミドルの青髪――真実兄だ。

 今はどちらもひとり。その状況が珍しい。

 朝の屋上には人っ子ひとりいない。まだ夏の匂いを残す日差しが眩しい。

「……どうした? 珍しいな」

 神崎がいつもの場所に行き、今は立ってそこに寄りかかっている。青髪はその横、こちらは外向きで寄りかかっていた。

「そうだね」

 爽やかな風を運ぶ。

 ゆらり、流れる髪の毛を片手で押さえ、真実兄が顔だけを神崎に向けた。

「君は魔法を信じるか?」

(兄妹揃って初めて口にする言葉がそれか)

 途端に不機嫌な表情が浮かぶ。

「……そう。まったく信じていない――むしろ、嫌悪しているんだね」

 少しだけ哀しそうに目を伏せる。

 神崎は特に返事をしない。こういった輩はやはり相手にしたくない。

「愛が君に懐いているようだからね。君も魔法を信じるようになったのかと思っていたけど、どうやら僕の早合点だったようだ」

「……ああ」

 そう。神崎は未だに魔法など信じていない。

 妹に最近慣れてきたのは、あくまでついてくることだけであって、魔法云々はまるで別の話だ。魔法の話自体、初対面の時以来一度も聞いていない。

「そうか……。まだまだ時間は必要ということなのかもしれないな」

 つぶやく。

「なにがだ?」

「いや、ひとりごとだよ」

 柔らかい笑みを浮かべる。

(食えない奴だ)

 直感的にそう思う。妹のストレートな感情表現に比べ、この兄は含むところが多い。

 今の笑顔も、どこか裏があるとそう思ってしまう。実際のところはただ笑っているだけなのかもしれないのだが。

「ところで妹のほうはどうだい?」

「……なにがだ」

 兄が妙に軽やかな口調で切り出してきたために、一瞬本当になんのことかわからなかった。

「おや、気づいていないのかな?」

「だから、なにがだよ」

 兄はまた爽やかな笑みを浮かべた。塀の上部に手をつき、空を見上げている。

「愛は君に好意を持っているよ」

「そんなことはない」

「いや、誰だって見ればすぐわかるさ。気づいていないのは、君ぐらいじゃないのかな」

「……知らん」

 神崎はまるで興味がないのか、こちらは塀に背中を預けて空を見上げた。声は不機嫌だが、顔はあまりそうではない。認めないだけで、なんとなくわかっているのかもしれない。

「そっか。……いいんじゃないかな。君は君だ」

 あいかわらずお互いに顔が違うところを向いているが、これで会話が成立している。

(そういえば、こいつとまともに話したのなんか初めてじゃないか)

 転校以来、妹とはよく話したが――最近になってやっとだが――兄とはまるで口を聞いていなかった。

 いつも女子数名に囲まれていたし、自分は特に興味がなかったからだ。

 と、そこで神崎の脳裏にひとつの記憶が浮上した。

「……なぁ」

 顔だけを青髪に向ける。

「お前さ、前に里裏たちに呼び出されたことあったろ?」

「里裏? ……ああ、彼らか」

 里裏というのは、最近不良入りしてしまった同級生だ。似合っていない金髪に、似合っていない着崩し制服。身長が低いためか、威圧感もほとんどない。

 初めて真実兄が授業に遅刻するか、そのギリギリだった事件に関わっていたひとりだ。

「あの時どうやって切り抜けたんだ? あやまって見逃してくれそうな雰囲気じゃなかっただろう?」

「そうだね」

 青髪は爽やかな笑みこそ消しているものの、未だに油断できない妙な雰囲気を醸し出している。下手な疑問では軽く受け流されてしまいそうだ。

「今の君には説明できない」

「どうしてだ?」

「どうしても。僕としては教えてあげたいんだけど、君がそれをまだ拒んでいるから」

 済まなさそうな顔をして、兄は軽く頭を下げる。

「……どういう意味だ」

 途端に神崎の顔と声が不機嫌に染まる。

「説明してあげたいのはやまやまなんだけど……」

 どうしようか。青髪が揺れる。

 あごに当てている手の親指があご下を撫でる。

「愛に訊くっていうのはどうだろう。……いや、でもそれじゃ愛がかわいそうだな」

 ひとりごと。

 だんだんとイライラしてきた神崎は、ついに真実兄の制服の襟を掴み上げた。

「教えろ」

 脅迫。

 だが平然としたもので、青髪は両手を肩の高さくらいにまで上げる。

「まぁまぁ。ちょっと落ち着いてくれよ。僕は暴力が嫌いなんだ」

「ならどうやってあの場をしのいだ」

 手に力がこもる。

 さすがに少し苦しくなってきたのだろう、ようやくあきらめたのか兄は両手を頭の高さにまで上げた。

「……しょうがないなぁ。そんなに知りたいのなら特別に教えてあげるよ」

 急に手が離される。神崎のほうが背が高いので、少しだけ浮いていた分、兄は着地時によろけそうになってしまった。

 襟元を正し、そこがまっすぐになると真実兄は神崎と三歩の距離を置いた。

「聞くよりも見たほうが早いと思う。僕に殴りかかってみてくれないか?」

(殴れだ? まさか俺のことを暴力魔だとでも思ってるのか?)

 そう言われると殴りづらい。さっきまでなら充分行けそうだったのだが、今となるとどうも気が萎える。

「遠慮しないでいいよ。別に軽くでもいいから」

 爽やかな笑みで待つ青髪。そうされるとよけいに行きにくい。

「……わかったよ。ったく、あとで後悔すんなよ」

 一歩だけ前に出て神崎は拳を引いた。そして、痛いだろうが歯は折れないだろう程度の力で殴りかかった。

 ……殴れない。

 拳を突き出す、まではできるのだが、そこが限界。それ以上行かない。届かない。

「どうなってるんだ!」

 一向に前に進まない己の手が不気味でならない。まるで目の前にいる男の前に、見えない壁でもあるかのようだ。

「これでわかった? つまりはそういうことなんだよ」

 兄が「手を戻していいよ」と言う。神崎は言われた通りに手を下ろした。ちゃんと動く。

「……お前、一体なにをした」

 まるで催眠術でもかけられてしまったとしか思えない。腕が自分の言うことを聞かない。そのことがこんなにも不快であるとは思いもよらなかった。

 正面の男がそれをやってのけたとするならば――神崎はその考えを即座に切り捨てる。

「魔法。僕がそう言ったなら君は信じる?」

 兄が探るような鋭い視線を送ってくる。

「信じない」

「そうだよね。そう言うと思ったよ」

 爽やかな笑みに変わり、兄が青髪を手ですく。さっきからずっと風にあおられて顔にかかりっぱなしでいるのだ。

「だから催眠術ということにしておくよ。これなら君も信じられるだろう?」

「信じない」

 即答。

 これは予想外だったのか、真実兄の手の動きが一瞬止まる。

「……困ったな。君はオカルト関係がまるでダメなのか」

「そういうことだ」

「じゃあ……あれだ。合気道。僕の気合いが君に勝っていたから、君は僕を殴ることができなかったんだよ」

 もはや思いつきに入っている。百パーセント嘘だとわかる。だが、それでもまだ魔法とか超能力と言われるよりはマシだ。

「今のは合気道なのか?」

「きっとそうだよ」

 妥協点決定。実際の合気道とはまるで違うが、気合いが気合いを勝った結果、ということになった。それは一種気合道だろうが。

 そのあと、ふたりの間にはなにも話さない時間がしばし流れた。

 チラと腕時計を見た神崎兄のほうを向く。

「……授業、遅れるぞ」

「そうだね」

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