第3章 小さな流れ その2
昼休み。
青い姿が制服に囲まれて全然見えない。
パン争いを放棄してまで兄と話をしようと思っていたのだが、どうやら無理なようだ。
ふぅ、軽く息を吐くと、神崎はすでに手遅れだろうパン争いをあきらめて、そのまま屋上に向かっていった。今日の昼は断食決定。
そんな神崎のうしろ姿をじっと見る視線。
赤髪が手にキルトを持ってそのあとを忍足で追う。まるで尾行だ。
(なにやってるんだ)
神崎はすぐにその存在には気づいていた。半分呆れながら、それでも気づかないふりを続けている。
階段を昇っている時に、踊り場で赤い髪が目に入りそうになってしまったが、上を見るというアクションを取ることにより回避。これで尾行に気づいたことに気づかれていないはずだ。
屋上に出るまでの間、ずっとそのまま。
空が見えてくると、今日も晴れていて気持ちがいい。
やはりこの場所が落ち着く。
いつもの方角、いつものポジションまで来ると、囲いに背を預けた。この時間だとその方面だけが日陰になる。冬だと逆方向に行くことになるのだが、今は冬ではない。暑い日差しをまともに喰らうのは命取りだ。
(ほんと、なにやってるんだか)
完全に呆れて、神崎は階段がある場所を見ないようにして注意だけを向けていた。
雨が校舎に侵入しないように、階段の上には四方三メートルほどの囲いがある。高さも同じ。完全コンクリート仕様で無骨。もっとも、校舎などもともと無骨な作りだ。最新鋭の学校ならまだしも、もう作られて何十年というこの校舎がきれいだったら逆におかしい。
そんな無骨な場所で、なぜかそこだけ新しいドアの陰からこちらをうかがうように覗き見る人影がひとつ。
赤い髪が見えてしまっているために、その正体も非常にわかりやすい。
彼女がなにをしたいのかさっぱりわからないので、神崎は寝てしまうことにした。
断食だし、日陰はほどよく暖かくて気持ちがいい。腹が減っていると眠れないという話をよく聞くが、自分にはまるで関係がないようだ。すぐに睡魔が襲いかかってきた。
目を閉じると、まぶたの裏が少し白く感じるが、それでも直射日光よりはマシ。
もう二度と開けられないのでは、そう思うほどにまぶたが張りつく。
そのまま何分たったのかはわからない。不意に誰かの気配を感じて、神崎は重いまぶたを無理矢理持ち上げた。
いくら日陰とはいえ、青空は抜けている。目がくらみそうだ。
「……」
すぐそこに顔が来た。
長い髪が垂れ下がり、頬の辺りを彷徨いくすぐったい。
「……どうした?」
「うん、あのね……」
言い淀む。
手にはキルト。目が逸らされていて、顔が少し動くと髪も動いてなおくすぐったい。
あまりのくすぐったさに、神崎はたまらず体を起こした。
急に起き上がったことに驚いたのか、妹はビクッと体を強張らせた。急に持ち上げた顔につられて赤い髪が背中に回る。
「用がないんなら、人の顔を覗き込むな」
いつまでもためらっている妹の姿がもどかしく、神崎は不機嫌になった。
妹はハッと顔を上げると、
「お弁当作ってきたの!」
そう言ってキルトを神崎の顔面に押し当てた。本人はそうするつもりはまったくなかったのだろう。「あっ!」慌ててキルトを胸に引き戻す。
いきなり殴られて――実際違うが――、神崎は頬をさすって呆然とする。
「ごめんなさいっ!」
いきなり地上三十センチくらいまで下がる頭。その際に赤でさらに殴ったことを彼女は知らない。
頬と頭頂を両手で撫で、不機嫌ながらもどこか愉快な気持ちになる自分がいる。それは神崎には予想外だった。
「いいよ、別に」
もしかしたら今の声はやさしい響きだったのかもしれない。
恐る恐る顔を上げていく妹は、片目だし、それは薄くしか開かれていない。神崎の顔を確認すると、ようやく両目が通常サイズに戻った。
赤くなっている神崎の頬を見て、妹の眉尻が下がっていく。
そっと手を伸ばしかけて、ハッと引っ込める。結局膝の上に戻った手が、もう片方の手と複雑な動きをしながら絡み合っている。
「それ」
このままでは埒があかないと思い、神崎はキルトを目で示す。
その目の動きを追い、目的のものに行き着くと、
「お昼いっしょに食べようと思って、お弁当作ってきたの……」
その声には自信というものがまるで感じられない。もじもじとした様子や、人差し指の謎の回転運動など普段の妹らしくない。
「昼はいつもいっしょだろう」
初日以来、必ず妹はここに来た。
追い返すことも場所を変えることもできたのだが、追い返しても帰らないし、なによりこの場所を神崎が好きなために変えるつもりは毛頭なかった。
自然、いっしょに昼食が日課になってしまっていた。
「うん。そうだったね」
恥ずかしいのか照れ笑いを浮かべる妹。
ようやく覚悟を決めてキルトから弁当箱をふたつ取り出した。
(そういえば……)
そこでようやくあるひとつのことに神崎が気づいた。
妹はスカーフを二枚取り出し、一枚を自分の膝の上に広げる。もう一枚は神崎に手渡した。
大きなほうの弁当箱を手に持つと、「ハイ!」神崎に突き出す。
「ああ……ありがとう」
礼を言うのはためらわれたが、弁当を作ってもらって感謝なしよりはいいだろう。
滅多に聞くことのできない『無愛想男の礼』を聞けたことがよほどうれしかったのか、赤い髪がフワリと広がった。両掌が合わさって人差し指が下唇に当てられている。
「どういたしまして」
満面の笑顔。
眩しい。単純にそう思った。
その笑顔のために、さっき浮かんだ疑問が記憶から外れる。
弁当箱を開けると、中は色とりどりの世界だった。どうやら彩りだけではなく、栄養面のことも考えて作ってあるようだ。
「これ、全部」
(作ったのか?)
「うん。すっごい時間がかかっちゃったけど」
恥ずかしそうに頬を朱に染めながら、妹も自分の弁当箱を開いた。中身は神崎のものの縮小版。
「へぇ……」
感心して妙に何度もうなずく。
「本当に俺がもらっていいのか?」
念を押して訊いてみる。もしかしたら真実兄のものかもしれない。
「うん! 食べて食べて!」
自分のものに間違いないようだ。
弁当箱に付属の青い箸を手に取ると、試しに卵焼きを掴んで口に運んでみた。
ひと口かじると甘い味が口内に広がっていく。
柔らかいし、ほどよく甘い。焦げ目がほとんどなく、かなり上手でおいしいもの。
「……うまい」
思わず口をついて出た。
「ホントっ! よかったぁ……」
ホッと胸を撫で下ろし、妹も卵焼きを食べた。神崎の反応が怖くて、ずっと緊張しながら一挙手一投足を観察していたのだ。「うまい」最高の褒め言葉。
妹の顔が幸せに満ちるのはあっという間だった。
「おいしーっ!」
(自分で言うか?)
自画自賛。その様子がおもしろくもあり、神崎の顔には珍しく笑顔が浮かんでいた。その笑顔を妹はもとより、神崎自身でさえも気づかなかった。
その時階段からまたひとり誰かがやってきた。
それは裏工作を失敗して、競争に正々堂々と参加していた山村だった。
山村は屋上に出るなり、和やかな様子のふたりを見て首を傾げた。
「……どうなってるんだ?」
ひとりごちる。
右手にクリームパン、左手にコッペパンを持ちながら。
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