第2章 これは今からの出来事 その6
夕方にはまだ早い。太陽の日差しは弱くなったとはいえ、まだまだ寒くはならない。
そんな家路。
神崎はしきりに左を気にしながら歩いていた。
揺れる赤い髪を視界の隅に捉えながら、なるべく存在を無視するようにしている。視界に収め続けているのは、いなくなったかどうかを知るためだけだ。
今歩いている道の人通りは少ない。駅とはまるで逆方向な上に、住宅地でもなんでもない。人が集まる理由が存在しないためだ。時間帯によっては込むこともあるが、今はその時間ではなかった。
だから嫌でも隣の存在を意識させられてしまう。無視しようとしても、あまりにも目立ちすぎる。
「この辺はあんまり人いないね。なんかふたりきりでデートみたい」
なぜかうれしそうに言う妹の姿は見ないでいる。
さっきからずっとその姿勢を貫いているにも関わらず、この女はいなくなるどころか話し続けている。最初は離れていた距離が知らぬ間にうんと近づいてさえいる。
「ねぇ、神崎君のお家ってどのあたりなの? 結構歩くよね」
片道二十分。歩くとそれだけかかる。自転車通学ならもっと速いが、神崎は歩いて通い続けていた。
しばらくゆるりと上昇していく坂道を歩き、階段のある横道で立ち止まる。
左手が斜面の舗装。そこを貫くように階段がある。急だ。両側に手すりが備えつけられていて、奥の様子は木の陰になっていて暗くて見えない。階段と手すりとの境界をコケや蔦がびっしりと覆っている。
「この上に家がある。こんな階段を昇る必要もない。帰れ」
反対側にずいぶんついてきた上に、さらに階段を昇る意味がない。これでようやく帰ってもらえると思うと、神崎の気もいくぶんか和らいでいく。
まったく相手をしなかったにも関わらず、家までついてこられてしまった。はっきり言ってしまえば、迷惑。
だが、そんな神崎の思惑を見抜いてか、赤髪は静かに口の端を上げていく。
「せっかくだし、おじゃましちゃおっかな?」
(なにがせっかくなんだ……)
鞄をうしろ手に腰のあたりで持ち、目を覗き込んでくる。ちょっと体が斜めになっている可愛らしい姿だ。神崎はそう思わないが。
「来んな。帰れ」
即答。
あきらかに落胆していく妹。しょんぼりとうなだれていく赤い髪の毛。鞄を持つ手がいつの間にか前に回っていて、全身がひどく小さくなって見えた。
「……そんなにキツく言わなくてもいいじゃない」
(きつく言った憶えはない)
それでも彼女にはきつかったのだろうか。神崎からはさっぱりとその心情はわからない。わかろうとも思っていないが。
「……そういうことだ。帰れ」
なにが『そういうこと』なのかはまるでわからない。自分自身でも明確とした理由を告げたつもりはない。気に入らないから――そう言ってしまってもいいが、はたして言っていいものかをわずかに悩んでしまう。だから、今は言わない。
と、その時。神崎は背後から人の気配を感じて振り返った。
ゆるりとした坂道を下ってきた人物――自分の母を見て、神崎の眉がピクリと跳ねる。
向こうもふたりの姿を視界に捉えたのか、「あら?」という口の動きをした。
両手に大きな袋を持っているのにも関わらず、それでもまるで平然と歩いてくる。近づくにつれ、それが去年郊外に建てられた巨大スーパーのものであることがわかる。神崎はひと目でわかっていた。もう馴染みのものだ。
もともと神崎家は駅前の商店街まで買い物に行っていた。だが、郊外の人口が増えてきて、買い物が駅前では遠いということで、このスーパーの建立が認められた。商店街側からの反発は大きかったが、それはどうにかして押さえ込まれた。
無事に出店の完了したスーパーは、こうしてこの辺りの住人に愛されていた。
もっとも、それでも片道徒歩十分もかかる。駅に比べれば半分以下だが、自転車を使えば三分くらいに縮まる。でも使わない。いや、使えない。
神崎が徒歩通学にしている理由も同じ。
高い場所にある神崎家。そのため、下に出てくるにはこの急階段を降りるか、かなりの遠回りをするルートを取るしかない。父親は車で通勤しているが、近い職場なのに時間が結構かかっているようだ。一回下に出て、それからまた上がってようやく道路。とても学校や買い物に使えるルートではない。
ちょっとした早足でやってくる母の姿は非常にパワフルだ。このパワフルさは、重い買い物袋をぶら下げて毎日歩いている成果だろう。
「今日は早かったわね。……あら、その子お友達?」
気づかれた。
ここにいて、しょんぼりとしている女の子を『知らない人』とは言えない。不自然さ濃度たっぷりの空気が辺りを支配してしまう。
「……クラスメイト」
限界いっぱいの譲歩。できれば知り合いとは思われたくなかった。
「そう。こんにちは?」
前半は簡単に。後半は真実妹に向けて。
妹は神崎の母の出現にようやく気づくと、慌てて顔を上げて挨拶を返した。「こ、こんにちはっ!」
「勇気がお友達を連れてくるなんて珍しいわよね。こんなところで立っていてもしょうがないから、上がってもらえば?」
「……なんてことを言い出すんだ」
(そんなこと言ったら)
神崎の危惧はどんぴしゃり。
「えっ! いいんですか?」
「そんなに驚くこと? いいわよね、勇気?」
前半は自問。後半は息子宛て。
非常に嫌だ。だがここでこそ『気に入らない』などとはとてもじゃないが言えない。こうなるんだったら、さっさと帰してしまうべきだった。
だが、もうあとの祭り。
「階段、急だから気をつけてね」
「はい。だいじょうぶです」
妹はすっかり元気になってしまった。語尾のハートマークが復活しているあたり、そのことを如実に語っている。
(……うそだろ)
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