第39話

 いつからそうなっていたのかは、わからないが直樹たちは母屋へ入れるようになっていた。二人で和樹が指定した部屋へと向かう。

 そこは屋敷の奥の方にあり、代々、ここの管理を任された久文家が使用してきた場所である。

 離れから距離があるとはいえ、それほど遠いわけではない。それなのに、誰ともすれ違うことがなかった。廊下には二人分の足音が響くだけで、それ以外に物音が一切何も聞こえない。直樹は空飛ぶ魚と音が消えた地域を思い出していた。要は現実逃避である。


 どれだけゆっくり歩こうとも、思考を四方八方に飛ばしてみても、現実に向き合わねばならないときはやってくる。


 目的の部屋の近くまで来た時、障子が開け放たれていることに気づいた。夏を迎えてしばらく経った今、暑さや風通しのことを考えると当然の状況ではある。

 しかしここに来て、直樹の歩く速度は急激に落ち込んだ。無意識のうちに極力、足音を立てぬようにと摺り足で元来た道を引き返そうとしたつもりが、屋敷の古さには勝てなかったのだろう。少しばかり体重を預けた片足によって、床板が小さな悲鳴を上げた。


 直樹の背中にはどっと脂汗が噴き出て、心臓が大きく跳ね上がった。隣を歩いていた利智は突然、廊下の真ん中で固まってしまった直樹を見上げた。その顔は迷いに揺れ、顔面蒼白というに相応しいほど血の気が引いていた。

 おそらく、今の直樹は頭が真っ白というやつである。そんな状態から抜け出すきっかけにでもなれば、と思い利智は直樹の名を呼ぼうと口を開いた。しかし、その前に、


「入りなさい」


 と大きくはないがよく通る声が廊下を通り抜けていった。その声に直樹は、びくりと震えた。そして目を閉じ、深めに息を吸って、吐いて、和樹の元へと再び歩き出した。


「…失礼します」


 部屋では和樹が筆と墨を用いて何か書いていた。いつか聞いた話だが、彼は世間的に書道家という立場にあるらしい。仕事中なのだろうか。このまま入っても?


 直樹が部屋の入り口で考え込んでいると、和樹は筆を置き、もう一度「入りなさい」と言った

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