第37話
痛いほどの静寂の重みに直樹は頭を上げることが出来なくなってしまった。背中は炙られているかのように熱いが、手足の先は冷たく湿っている。こめかみを汗が一粒、流れて渡り廊下の床に音もなく落ちた。
「…とうとう、茶を持ってくることも出来なくなったか」
薄っすらと怒りを含んだ和樹の声に直樹は一瞬、呼吸が止まった。その様子に、利智は自身の小さな手を丸まった直樹の背に置いた。
「申し訳ありません」
今の和樹の言葉は草枷に向けられたものである。形ばかりの謝罪を述べている態度からして、どうやら草枷は和樹の指示に背いてまで直樹の元へと来たようであった。和樹と草枷が不仲そうであろうとも利智にとってはどうでもいいが、直樹に危害が及ぶ可能性が少しでもある限り二人から目を離すわけにはいかない。直樹が床に頭を付けたまま動かなくなってしまったのもあり、状況把握と威嚇を兼ねて、利智は嫌味を言う和樹と不服そうにそれを聞く草枷をじっと眺めていた。
話が終わったのか、草枷が踵を返しこの場を去った。それでも利智は和樹を見つめ続ける。直樹は微かに震えながら頭を下げたままであった。
「――― 直樹、顔を上げなさい」
先ほどとは打って変わって、穏やかな声で直樹の名を呼ぶ。手を置いた背中がゆっくりと動きだしたので、利智はその手で直樹の着物の袖を握ることにした。
上体を起こした直樹はよほどひどい顔をしていたのだろう。和樹は眉を寄せるも、目を閉じ少し長めに息を吐いて直樹と向き合うようにしゃがんだ。
「おかえり」
打掛の裾がふわりと広がり、廊下が彩られる。
「っ、た、ただいま、戻りました…」
まさか向き合うことになると思わなかったので、直樹が腹の底から絞り出した声は引きつり、目線はそのへんを飛ぶ蚊より彷徨い、揃えていた三つ指は固く握りこまれてしまった。
その様子を見て和樹はひとつ頷き、
「落ち着いたら、部屋に来なさい。場所は覚えているな?」
と立ち上がり、打掛を引きずって母屋の奥へと戻っていった。
重く息苦しいほど静かな屋敷には不釣り合いに豪華な後ろ姿を直樹と利智は眺め続けた。正座をしたままでは視野に限度があるため和樹が廊下を曲がる頃には、二人とも四つん這いになって、その豪奢な打掛が曲がり角に消えるのを見届けた。
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