第36話

 屋敷の敷地内の一番奥、離れ座敷は六畳ほどの部屋に箪笥たんすや背の低い机など生活に必要だと想われる最低限のものが置かれている。い草の匂いが充満している室内はしばらく換気されていなかったのか、ほんの少しかび臭さも混じっていた。トランクを壁際に置いた直樹は出入り口と反対側にある障子を開けた。障子を開けた先は庭へと繋がっており、長く野晒しにされていた縁側は汚れて変色していた。


「・・・こりゃ掃除だな」


 障子を開けたことによって入ってきた風が箪笥上に積もった埃を吹き飛ばし、縁側の溝に詰まった土塊を室内に運んでくる。なんとなくだが、足裏がざらついているような気もする。


 長期間、滞在する予定はないが不衛生な空間で過ごした結果、体調を崩して滞在期間が延びるのは避けたいところである。

 利智は雑草が揺れている庭を眺めていた。その頭上に「利智、」と声を掛ける。

「これから、ここを掃除するから君は玄関から僕と君の靴を持ってきてくれ」

「くつ?」

「あぁ。何処を通るかは君に任せる」

「わかったぁ」


 何度も考えるが、長く此処にいるつもりはないのだ。用が済めばすぐにでもこの屋敷から出て行けるように準備しておいて、少なくとも損することはないだろう。


 この時まではそう、思っていた。得することは無くとも不利益が生じることはないと。


 渡り廊下へ繋がる扉を開き離れに風の通り道を作る。掃除に必要なものを思い浮かべながら直樹は母屋へと向かった。掃除道具が置いてある場所はわからないが、物置として使われている部屋の場所は覚えている。まぁ行けば何とかなるだろう、と思っていた直樹は失念していた。

 離れから母屋へは、つま先の爪の先すら入れないということを。


 案の定、直樹は渡り廊下の終わりで立ち往生していた。草枷はとっくに立ち去っていたようで誰もいない。他に誰か通りそうな気配もなく、声を出して呼んだところで誰かが駆けつけてくれそうな心当たりもなかった。

 利智に靴を取りに行かせて良かったな、と直樹は思った。確か庭から外に出て再び玄関から母屋に入るのであれば、誰の承認も必要なかったはずだ。そうなると、靴を持って屋敷内を彷徨くことになってしまうが、仕方が無い。


 うーん、と少し悩んで結論が出た直樹が離れに戻ろうと踵を返した時、

「ナオぉーーーーーーーーーっ!」

と利智が叫びながら廊下を走ってきた。母屋というか屋敷全体が静寂な空間であるため、利智の叫びはそれはもう、やまびこに引けを取らないほど響いた。そして、全速力の勢いのままに利智は直樹に突撃し、二人揃って渡り廊下に倒れた。


 数秒遅れて、草枷が現れた。音もなく、床板を軋ませることもなく姿を見せた草枷に直樹は目を見開き息が詰まる。文字通り、見下ろされている状況で草枷が口を開く。


「―― 何しているんだ?」


 しかし、直樹の耳に届いたのは草枷の声ではなかった。聞き覚えのある、低い声。これ以上、詰まる息はないと思っていたが、喉そのものが絞め上げられるような感覚に溺れそうになる。

 それでも、何とか正気を保ちつつ震える手で利智を膝の上から降ろし、尻餅をついた体勢から正座に変える。ぐわんと揺れる頭を三つ指揃えた両手の上に置いた。草枷が向き直り、その名を呼んだ。


「和樹様」


 直樹からは見えないが、草枷も頭を下げている。利智だけがその声の主と目を合わせた。草枷が来た方とは反対側から姿を現した人物は立て襟のシャツの上に豪奢ごうしゃ打掛うちかけを羽織っていた。


 久文和樹くぶみかずき。現久文家当主の長男であり、この屋敷の管理を任されている者である。そして、直樹の兄でもあった。

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