第35話

 久文家は異能を受け継ぐ一族である。その異能は紙と墨、自身の吐息によって完成する。筆と墨によって生み出され、久文の息を吹き込まれた言葉は時に魑魅魍魎を退散させた。また、ある時は言葉と息吹で紙は形を変え鳥となり、遠くへ想いを運んだ。


 言の葉を創造し生成し、あらゆる事に利用してきたこの家では、自ら生み出した言葉を扱うことが原則となる。

 美しい文字は時に毒にもなろう。愉快な言葉は時に刃にもなろう。久文家の手によって紙の上に産み落とされ、生命いのちを吹き込まれた言葉は森羅万象の把握すら現実へと引きずり落としてみせよう。


 ――― まぁ、理論上の話ではあるが。


 自ら想像し、創造した言葉でさえ不可能を可能にするのだ。古来より存在し、生活に根付いた言葉をそのまま組み合わせて使えば、どうなることやら。

 異能が染みこんだ紙は使用者を呑み、息吹を宿した墨は暴れ狂う。要は制御が効かなくなり、使用者の意図を超えるばかりか力と影響を持て余し碌なことにならないのだ。


 直樹も久文に生まれたからには、このあたりの教育を受けており、紙と墨あるいはペンを用いて異能を手足の延長として使っていたはずであった。それが、どうしてか今の直樹は本の文章という他者の言葉を身に纏い、その外見を偽る程度のことしか出来ない。

 直樹自身、異能が制限されていることに不便を感じはしなかった。しかし、正しく使える者や使えなくとも本来の異能の力を知っている者が近くにいるというのは結構、落ち着かないものだ。


 玄関で靴を脱いで、草枷を先頭として屋敷の中を進んでいく。静かな廊下に床板が軋む音が沸き上がって霧散していった。

 草枷が立ち止まる。直樹と利智へ向き直りその先へ進むよう無言で促した。二人の前には離れへと繋がる渡り廊下。かつて幼少期を過ごしたその場所へ通ずる唯一の通路を前に直樹は足を止めていた。

 片手にトランク、もう一方で利智の手を握る姿を草枷は傍らで、じっと見つめていた。おそらく、直樹が離れに入って行くのを視認するまでこの場を動くつもりがないのだろう。


 何度目かの深呼吸を終えた時、風が、夏にしては珍しい冷ややかな風が渡り廊下を横切った。それと同時に直樹は足を進めた。後ろを振り返ることなく、半ばやけくそにも思える足取りについて行きながら、利智は渡り廊下の入り口に目を向ける。


 草枷はまだ動かずにいた。その眉間に皺が寄っているのは利智から見えることはなかった。

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