第32話

 夢現の境にある町にも列車は止まる。それは単なる移動手段であったり、夢から覚めるためであったり、と人によって様々な意味を持つ。ごく稀に意図せず迷い込んで来る者が町から抜け出す最終手段として使われると加賀が言っていた。

 今日も利用者で駅舎内は賑やかであった。その中でトランクを一つ片手に持った初老の男が人の波を縫うように歩いている。被っている中折れ帽子を落とさないように時折、抑えながら駅舎の厠に入って行った。

 厠には窓が一つ設置されている。明かり取りも兼ねているソレは大人が容易く通り抜けられる程の大きさであった。初老の男は周囲に自身以外、誰もいない事を確認し窓に手をかける。そして、なるべく音を立てぬよう、そっと窓を開けた。駅舎内は静かになることはないが、近くを通った者に厠の窓を開けている音を聞かれ、中に入ってこられると困るのだ。

 男はトランクを窓の縁に立てかけ、それを支えに窓を飛び越えた。靴底と地面が重たい音を出すが、駅舎内に届くことはないだろう。少し皺が寄った服を軽く叩き身なりを整える。

 トランクを抱え直し、男が顔を上げると目の前には一人の子どもと、スーツに身を包んだ青年が並んで立っていた。


「もうすぐ列車が到着いたします。直樹様」


 青年の真っ直ぐな眼差し、まばたきひとつすらしない視線に初老の男は肩を大きく上下させた後、懐から一冊の本を取り出し間に挟まっていた栞を引き抜く。すると、中折れ帽子も皺を伸ばした服も風に飛ばされる砂の如く消え去り、その場に残るは着物に身を包んだ長身痩躯な男、久文直樹の姿であった。

「ナオ!」

 トランクを持ったまま微動だにしない直樹の元へ子ども、利智が駆け寄る。脚に飛びつき、着物に顔を押しつけながら「ごめん」と小さく呟いた。その頭を撫でることで返答にしようと動かした直樹の腕にはぎこちなさが浮かび上がっていた。


「まもなく列車が到着いたします。お急ぎください。がお待ちです」


 青年こと草枷は繰り返し列車の到着が間近だと告げる。和樹かずき様、と名前を聞いた直樹は「は、」と息を詰める。


「・・・・・・・・・・・・わかりました」

 夏の晴天の下、降り注ぐ蝉時雨が空気の重さを増幅させる。くすんだ革靴の底で地面を擦らないように直樹は一歩を踏み出した。もちろん、忘れずに利智に手を伸ばす。

「・・・いくの?」

「あぁ。・・・行こうか」


 二人は草枷の後ろをついて行く。歩く姿勢や足音、呼吸にさえ気を遣っているのか、直樹は繋いだ手が緩まっていることに気づいていない。

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