第30話
ゆっくり食えと言ったはずだが、どうやら無意味であったようだ。ベタつく口まわりをしきりに舐め続けている利智に一度、お茶で流すよう促す。
「駆け落ちでもしてきたの?」
「そんなかんじー」
「いい加減なこと言うな」
利智があの家から連れ出してくれたのは確かだが、駆け落ちではない。そもそも利智の性別すら定かではない。
「ちぇー。・・・リーがね、なまえとからだをもらったから、その、おれいにそとにでたの」
「やっぱり駆け落ちじゃない」
「駆け落ちの意味わかってます?」
お茶はすっかり冷めて、湯飲みを持つ感触もひやりとしたものになってきた。
「利智に名前と体を与えて、そのまま連れ出してもらったんですよ。あの家は、僕には苦手なモノが多すぎて」
「逃げたくなっちゃったのね?」
「そんなところです」
直樹は空の湯飲みを持ったまま、肩をすくめる。いつの間にか雨は小降りになったのか居間には振り子時計の音が規則正しく刻まれる。
「あの、」
数秒の静寂を破ったのは胡桃の声であった。
「それじゃあ、先ほど来ていたクサカさん? は直樹さんの使用人さんってことですか?」
「久文家からの使いだって言ってたわりには結構、上から目線だったわよね。まさか、文ちゃんより偉い人なの?」
「そうです! 確かに偉そうでした!」
「いえ、彼は使用人をまとめる立場で・・・久文に仕えているというよりは、正確に言うと僕の兄に仕えているので・・・えーっと、」
直樹が草枷に苦手意識を抱いているように真桜と胡桃も彼に不快感を覚えたらしい。直接、言葉を交わしていないのにもかかわらず好感度をここまで下げて変えるとは逆に感心してしまう。
「まぁ、ナオはみくだされてるんだよね。あいつに」
「ほらやっぱり~」
「見下されてるって・・・僕の実力が血筋に伴わないのは事実だろ・・・」
陶器らしい温度を取り戻した湯飲みを両手で転がしながら、直樹は歯切れの悪い返答をする。
「文ちゃん」
「はい?」
言い訳のような、苦手な人を庇うような言葉を遮るように真桜から名前を呼ばれる。その声は少し低かった。
「あのね、自分を卑下しないの。使用人から下に見られているならなおさらよ。ね、くーちゃん」
「は、はいっ! 直樹さんだって言ってたじゃないですか。その、ご飯が上手く作れなかった頃、私に『私なんてって言うのが一番上達の邪魔になるんですよ』って・・・!」
「え、そんなこと言ってたの? 初耳~」
「リー、いわれたことないんだけど!?」
少し前の静寂は何処へやら。二人とも直樹を励まそうとしたのだろう。しかし、直樹すら忘れかけていた過去のやりとりを暴露されて、利智が騒ぎ出すとは誰が予想できようか。少なくとも胡桃には出来ないだろう。
久文の家について彼女達に話したことはほんの一部である。できるだけ大まかに、ぼやかして伝えたつもりだ。
正直なところ、久文家で過ごした日々を直樹はほとんど覚えていない。薄らと思い出せそうな時もあるが、利智と出会って家を出るまでの短期間の記憶がやけにくっきりとしすぎている。
あの家に戻らなければならない二日後を思うと、直樹は胃の底がずしりと重くなるような気がした。
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