お幸せに

 夏の終盤に通過した台風一過の暑い土曜日。二週間ぶりに店に行った。昨夜のうちに雨はあがり、湿気を帯びた田畑の土にはまだ雨の匂いが残っていた。風は時折わっと吹き、台風を無事にやり過ごした鳥や虫が慌ただしく活動を開始している。舗装されたアスファルトはほぼ乾いていたが、雨に乗じて躍り出てしまったのかミミズが息絶えたているのが何か所にも見られた。たまに、まだうごめいているミミズもいた。そのままでは干からびるか、車に轢かれるか、鳥に食べられるか、いずれにせよアスファルトから無事に土までたどり着ける確率は低そうに見えた。なぜ土からアスファルトに這い出してしまうのだろう。ミミズの気持ちは僕にはわからないな、などと考えながら、坂を上った。

 店に近づくと、道にしゃがみ込むグレーの人影が一つ。店長がまた、つなぎを着て「活動」しているのだ。店の開店時間には少し早かったか。

「店長。おはようございます。」

 少し手前から声を掛けた。顔を挙げた店長の右手には、割り箸でつまんだ大きなミミズ。

「やあ、おはようございます。雨上がりは忙しいですね。」

 同意を求められても、特段、僕は忙しくはないのだが。

「ミミズ、どうするんですか?」

「救出です。」

 そう言って、土の中に放した。

「さあ、幸せにおなり。」

 店長が生き物を救出したときには決まってこう声を掛ける。つられて僕もミミズにむかって、お幸せに、と言った。

「来る途中にも何匹か見ました。ミミズ達は、なぜアスファルトに出てくるんですか。」

 店長がすっくと立ちあがる。その左手には、こんどは黒いものが動いている。

「雨で、土の中だと息苦しくなるので土以外の場所に行こうとするようです。鳥や虫の餌ならまだしも、ただ干からびるだけの最期は切ないで、救出を試みているんです。」

「あ、の、その左手の生き物は・・・」

 ちょっと顔を背けがちに手が開くのを待つ。

「これは、コクワガタのメスです。ほら。」

「いやいや近付けないで。遠目でいいです。遠目がいいです。・・・結構、小さいですね。」

「まあ、そうですね。こいつもうっかり道の真ん中に居たので。」

 そういうと、道端の木の枝に乗せて「幸せにおなり。いいパートナーがみつかるといいね」と言った。数秒後、「あ、写真忘れた。またさくらさんに怒られる」と無邪気に笑った。

「そろそろ開店時間ですか?」

 そう言って、僕の腕時計をのぞき込んだ。

「いえ、僕が来るのが早過ぎたようです。あと三十分はありますよ。」

 少し肩をすくめて、店長はグレーのつなぎの埃をはたいた。

「店の支度をしなくてはいけませんね。」

 雨あがりは忙しいです、と唱えながら裏口に消えた。と思ったら、すぐに顔を出した。

「あと三十分ほど。散歩していますか?それとも開店準備をお手伝いいただけますか?」

 お手伝いします。と答えると、店長は、にっこりと笑って再び裏口に消えた。ほどなくして、店のドアが開いた。

 開店前の店内はいつになく静かで、ほの暗い店内の空気はまるで眠っているようだった。今から、これらの空気を目覚めさせなければならない。開店準備は何度か手伝ったことがあったが、店長と二人だけなのは初めてだった。僕は特に指示をされずとも掃除道具を取り出し、床をからぶきし始めた。店長も何を指示するでもなく、キッチンの中で準備を始めている。キッチンは、なんとなくだが店長の「城」のような気がしていて、僕はキッチンだけは入らない、と決めていた。さくらさんも、店長とどんなに親密に話をしていても必ずカウンター越しだった。店長がこの店に格別な想いがあることは、僕やさくらさんのみならず、常連客のみんなにとって、共通かつ暗黙の了解事項だった。

「今日は少し早かったんですね。」

 キッチンから店長が僕に声を掛けた。

「そうですね。休みに用事が何もないな、と思ったら、なぜか朝早くから目が覚めてしまって。部屋の掃除や洗濯も済ませてから出てきたんですが、それでもまだ早かった。」

 僕が床掃除を終えるタイミングを見計らって、しぼった台布巾をカウンター越しに渡す。テーブルを拭く間、店長は透明なガラスのポットに水を入れ、テラスのプランターに水をやっている。少し植物の様子を確認し、葉っぱをいくつか切り取っている。

「あれ、それって、ハーブティー用のハーブだったんですか。」

 店長が近寄ってきて僕の鼻先にハーブを掲げた。くんっと嗅ぐと、爽やかな香りがした。

「おお、ミントだ。」

 今度は僕の方からミントに鼻を寄せて、くんくんと嗅ぐ。

「あれですね。天然の香りって、ガムとかと似ているけど、なんだかちょっと違う。」

 僕が言うと、店長はにっこり笑ってキッチンに向かいながら言った。

「これもさくらさんのアドバイスなんです。最初はコーヒーだけだったんですけど、女性向けにハーブティーを加えてみたらって。おかげ様でとても好評です。」

「へえ。さすが。そうか。それでさくらさん、いつもハーブティーを飲んでいるんだ。」

「さくらさんには感謝することばかりです。あ、たまには飲んでみますか?ハーブティー。」

 ちょっと迷ったが、やっぱり店長のコーヒーがいいです、と答えた。

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