ルリボシカミキリ

 日中はまだ陽射しが強く感じるものの、さすがにもう蝉の声は聞かれなくなり、朝晩の秋の虫の声が響き渡る九月下旬。僕は気持ちのよい午前中の空気と共に、カフェ龍に向かって歩いていた。道中の耕作放棄地では、ススキの穂がふさふさと風に揺れていた。

 後ろから、白い軽自動車が追い抜いたと思ったら、僕の少し前で止まった。驚いて僕も足を止めると助手席側の窓が開き、車内から声がした。

「おはよう!乗ってく?」

 近づいてのぞき込むと、運転していたのはさくらさんだった。

「さくらさんでしたか。おはようございます。」

「お店に行くんでしょ?乗って、乗って!」 

 左手で助手席のバッグとコンビニ袋を後部座席に移動させている。

「あ、いや・・・はい。では。」

 本当は歩いて行きたかったが、断れる雰囲気ではなかった。

「いつも歩いてくるんだったね。」

 坂に向かってアクセルを踏む。

「はい。今日は涼しくて、散歩も気持ちいいです。」

「あれ?散歩の邪魔しちゃった?」

 図星過ぎて言葉を詰まらせていると、

「ていうか、このままお店に行ったら早すぎるか。どうしよう。」

 ペロッと舌を出してさくらさんが笑う。

「お店が開くまで、ドライブでもする?」

「いや、だって、買い物とか、なんか用事があったんですよね?」

 後部座席のコンビニ袋には、何が入っているかはわからない。

「ううん。用事ってほどの事でもないの。あ、ねえ。この山の上の湖って行ったことある?」

 いや、ないです、と答えるとさくらさんはカフェ龍に行くための曲がり角を直進した。

「ちょっと、ドライブね。つきあって。」

 さくらさんは、山に登る道へアクセルを踏み続けた。

 ほんの十五分程度だろうか、山道を上ると駐車場が現れた。湖があり、市営キャンプ場となっているらしい。案内板に従い森の中を行くと、すぐにデッキ状になった展望台に着いた。山の木々は展望用にそこだけ切られていて街を見下ろすことができた。

「うわあ。」

としか声が出ない。高所恐怖症なら避けるべき高さから盆地を見下ろしている。

「結構な、展望スポットでしょ。」

とさくらさんが手すりにもたれて言った。

「すごいですね。なんか、虫が飛んでいなければずっと居られる。」

 ぶんぶんと音を立てて黒っぽい虫が忙しそうに飛び回っている。

「刺されない様にしないとね。」

とさくらさんが笑う。そう言いつつも、片手にスマホを準備している。

「いつでも虫の写真が撮れるようにしているんですね。」

と僕が言うと、手にしたスマホを見つめてさくらさんが言う。

「でも、もうだんだん、終わりに近づいているからな。」

 終わり?と聞くと、撮り溜めた写真を見返しながら言った。

「そう。夏が終わって、葉っぱが色づき始めたら、もう虫も少なくなってくるから。」

 そうなんだ、と思った。虫の忙しい季節は、意外と短いらしい。

「そうなると、情報交換会も少なくなっちゃいますね。」

 さくらさんは大きく頷いて、スマホをしまった。

「そうなの。秋冬は、ほとんどネタがないから。お店も静かになっちゃう。」

「でも、ネタが無くても行くでしょう?」

と、眼下の街並みに釘づけにされた視線を外さないまま僕が何も考えずに言うと

「そうでも、ないんだけどね。」

と意外な返事が返ってきた。二人で横に並び、前の手すりにもたれかかった。

「僕は、行きますよ。店長のコーヒーをお目当てに。」

 少しの間があって、含みのある話し方で口を開いた。

「コーヒーはね、あまり得意じゃないの。」

「あ、そうか。いつもハーブティーですね。・・・冬はホットで飲めばいいじゃないですか。」

 さわさわっと風が吹きぬけていく。何とも気持ちがいい。

「あのハーブティーはさ。私が無理にメニューに入れてもらっただけ。」

 無理に?店長はそんなニュアンスでは言っていなかったけど。

「あのお店、大好きなのに、私、コーヒーが飲めなくって。それで、ハーブティーを置いてって頼んだの。単純に、私のわがままで。」

「いや、女性客に好評だって店長嬉しそうでしたよ。さくらさんのおかげだって。」

 しばらく、お互い黙っていた。会話が途切れたことに気付いて、横にいるさくらさんの顔を盗み見た。眼下の街並みを見つめている。

「店長はさ、優しすぎるところがあるんだよね。」

 さくらさんが、口を開いた。僕は同意の意味で頷いた。

「私、いろいろと、つい口出しちゃうんだけど・・・店長は却下しないんだよね、私に気を遣っているんだと思う。」

 僕はちょっと驚いた。

「え、どうなのかな。だって、さくらさんのアイディアとかすごく喜んでいましたよ。気を遣っているとかじゃないんじゃ・・・」

 さくらさんは、少し頭を横に振って僕の言葉を遮った。

「店長のこだわりのコーヒーが、さ。宮さんも絶賛の、オリジナルブレンドの美味しさが、私にもわかったなら、そうしたらもう少し、違ったと思う。」

 ん?さくらさんには、何が引っかかっているのだろう?コーヒーが飲めたら何が違ったと思っているのだろう?

「の・・・飲み物は、あ、いや、食べ物もだけど、好みや体質みたいなものもあるから。あう、あわないっていうのは仕方ないですよ。僕もね、トマトは苦手。トマト好きにフルーツトマトを奨められて、これはトマトというよりフルーツだから、って無理やり食べさせられたけど、やっぱり僕にとってはトマトだよね。アレルギーでなくても、食べず嫌いなわけでもなくても、やっぱりどうしても、受け付けないモノってあるじゃないですか。」

 僕は、なぜか矢継早に口から適当なことをしゃべっていた。さくらさんは少し遠くに視点を合わせて聞いていたが、少しの間をおいて口を開いた。

「うん。あう、あわないって、あるよね。無理に好きになろうとしても、無理なもの。」

 いや、僕が言いたかったことはそういうことじゃなくて・・・なのに、期待外れな言葉ばかりが僕の口から流れ出てくる。

「ああ、でも、だからといって、トマトを見るのもいやとか、そういうことじゃないし。サラダに乗って出されれば残さず食べるし、煮込まれたトマトソースはどちらかというと好きな方だし。ただ、生のトマトだけをがぶりとするのは無理というか、その、ちょっと苦手というか、好きじゃないっていうか・・・。」

 なぜ僕は、トマトについて話しているのだろう。こんなにもつまらないトマトの話を。

「そう。私もコーヒーはだめ。無理に飲んでも、やっぱり胃の調子が悪くなっちゃう。」

 皮肉っぽいニュアンスさえ感じ取れるさくらさんの言葉は、いつになく、か細く響いた。

「なんかさ、常連ぶっていろいろ言っているんだけど、所詮はただのお客さんのくせにって、自分でもそう思う。」

 違う。違うよ、さくらさん。誰もそんなこと思っていないよ。だってあんなにみんな、楽しく過ごしていたし、さくらさん自身も楽しんでいたじゃないか。何か誤解することでもあったのだろうか。頭の中が激しく動揺しているのに、会話は途切れていた。すると、頭を介さずに口先が暴走した。

「お見合いの席で出されたら、トマトジュースも飲み干せると思うんだけどね。」

 思いがけない例え話だったらしく、急にふふっとさくらさんが笑った。

「なんで?なんでお見合い?」

「いや、可能な限り断るけど、お見合いの場だったらちょっとの無理もするでしょう?」

「そうなの?お見合いで無理してもかえって逆効果じゃない。むしろ苦手ですってはっきり言った方がいいんじゃない?」

「でもお相手がトマト農家のお嬢さんだったら、はっきりとなんて言えないし。」

「じゃあ、逆に自分がトマト農家だったら?お相手がひきつった顔でおいしいです、って言うのと、最初からトマトは苦手ですって言うのと、どっちがいい?」

 僕は活性化した脳内でリアルなお見合いのシーンを再生してみた・・・のだが。

「・・・えっと、自分が農家っていう設定が難題過ぎて、想像不可能です。」

 話がおかしな方向に行き過ぎて、お互い目が合ったら吹き出してしまった。

「なんかごめんね。私の悪い癖でさ。なんでもやり過ぎたり口出し過ぎたりして、それで自分で勝手に落ち込むって、これパターンだから。またやっちゃった。ごめんね。忘れて。」

 さくらさんの軽自動車で山を下り、カフェ龍に着くと看板は「OPEN」になっていた。僕が車を降りると、店長が店の入り口横に立って右手でこいこい、と手招きしている。そのまま帰宅するつもりだったさくらさんは、慌てて車を停車させ、店長の元へと走り寄る。店長の左手はふんわりと握られているから、ほぼ間違いなくその中には何かの虫がいるのだろうと想像がついた。さくらさんは、なに?なに?なに?と繰り返しながら、店長の左手を凝視している。店長は楽しそうに微笑みながら、さくらさんに向かって、待て、と言う。歩いて近寄った僕がさくらさんの横に到着すると、そっと左手が開かれた。

「きゃああ!ルリボシだ!」

 そこには、綺麗な空色と黒の模様をした虫がいた。

「き・・・きれい。」

 僕も思わず声に出してしまった。身体と同じくらい長く細い触覚はY字にピンと伸び、黒い斑点が規則正しく付いている。左右三本ずつ均等に広げた足で支える長方形の身体は美しい空色に、墨汁を垂らしたような斑点が縦二列に三つずつ付いている。透き通っているわけではなく、光に反射するわけでもないのに、その空色は何とも例えようのない美しさで、虫に限らず生き物にこんなにも惹きつけられたのは初めてだった。

「よく見てごらん。触覚の黒いところはふさふさになっているんだよ。」

「あーほんとだ!すごい。すごい。すごい。初めて見た!すごい。」

 さくらさんは自らの手に持って、顔を近づける。もう食べてしまうかと思うほどの近さ。

「嚙まないんですか?」

 さすがに触るのは無理だが、自分史上で虫に最接近した僕が店長に聞いた。

「大丈夫。カミキリムシでもこれはそうそう嚙まないよ。」

 さくらさんが、「あっ」と言う声と同時に、虫は羽を広げて飛んで行ってしまった。

「あー残念。もうちょっと見ていたかった。あーん。」

 三人とも飛び立った虫の姿をめいめいに空に求めたが、その行先は知り得なかった。

「きれいだったでしょ。」

 店長が僕に言う。

「はい。初めて、恐くない虫を見ました。」

 僕もちょっと興奮していた。

「私、まだ手に感触がある。カブトムシよりも繊細な感じ。この辺によく居るの?」

「そうですね。生息域としてはほぼ全国ですが、ここで見かけたのは私も初めてでした。」

「また会いたいな。会えないかな。会ってくれないかな。」

 さくらさんは木の周辺をうろうろする。

「たいていは、倒木の付近にいる虫なんですが、気付いたら靴に掴まっていました。」

「いたら目につきそうなくらい綺麗な色だった。」

「それが、土や草木の中では意外と目立たないんです。面白いものですよね。」

 あっとさくらさんが大声を上げた。

「え、いた?」

 つい僕も反応してさくらさんの方を見たが、何かを捕らえたというよりは、何かを思い出した顔だった。そして頭を左右に振りながら、うなだれた。

「写真、撮らなかった・・・よりによって、キレイなことで有名なヤツだったのに。」

 店長がちょっと困り顔で声を掛ける。

「さくらさん、ごめんなさい。先にカメラって言えばよかったですね。」

 さくらさんは、謝らないで、と言って頭を横に振り、肩をすくめてにっこり笑うと手を振りながら車へと戻って行った。この日、さくらさんは店に顔を出さなかった。

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