神明の花火

「来週の木曜日、予定ありますか?」

 店長にそう尋ねられたのは八月最初の土曜日だった。

「毎年八月七日に行われる花火大会がここから見えるので、観に来ませんか。」

「いいですね。ぜひぜひ。」

 釜無川下流の一大イベントで、周辺は大規模な交通規制も入るほどの賑わいだと言う。

「ここは、ちょっとした穴場なんですよ。真上に上がる迫力こそないけれど、少し見下ろすような、横から見るような感じになるんです。」

 すると、さくらさんが割って入る。

「お店には場所だけ提供してもらうの。飲食物は持ち寄りで、純さん一家と原さん一家と、あとはこの三人。子ども向けは両家族に頼むとして、私達は大人向けの酒とつまみを用意する係ね。宮さんは、つまみの渇きモノを二、三種類、適当に買ってきて。費用は当日に割り勘するから、レシートを忘れずにね。」

 さくらさんの仕切り上手には脱帽する思いだ。

 当日は幸いにも定時で帰宅でき、指示されたつまみをぶら下げて店に向かった。コンビニ付近で浴衣姿の人を見かけ、平日にもかかわらずなんとなく町全体が浮かれているような雰囲気だった。東京でいうところの隅田川花火大会のようなノリだろうか。

 店に着くと、既にメンバーが揃っていて、賑やかだった。

「あ、宮さん!桃、持ってきたから。帰り持っていってね。そこに置いてあるやつ!」

 さっそく祐子さんが僕に言った。

「ありがとうございます。この前のきゅうりの漬物、とてもおいしかったです。」

「あら、なに?祐子さん、漬物って何?」

 加奈子さんがすぐに確認に入る。

「ほら、採れ過ぎたきゅうりできゅうちゃん漬けをね。そう、よかった。今日もあるよ。」

「わーい!祐子さんのきゅうちゃん漬け、おいしいよね。」

と加奈子さんが食べ物の準備をしながら喜んでいる。

「そういえば、今日、朱香里ちゃんは?」

 さくらさんが、加奈子さんに尋ねる。

「朱香里は学校のお友達と土手までチャリで出かけたの。」

「ダブルデートなんだってよ。」

 間髪入れず祐子さんが情報を開示する。

「本当は浴衣着たいって言ったんだけど、チャリ乗るんじゃ諦めろって。自分で着られないんだから、着崩れたら大惨事よね。」

「あら、加奈子さんは着付けできるの?」

「本格的なお着物は無理だけど、浴衣くらいなら大丈夫よ。」

「そうなの?じゃあ今後教えてよ。」

「いいよ。練習しよ。」

「やった。薫、来年は浴衣着せてあげるからね。」

「・・・別にどっちでもいいけど。あーもう、渉、こぼすな。」

 薫ちゃんのお姉さんぶりは今日も健在だ。その横で汰嘉也君はひたすら食べている。

「汰嘉也、俺にもそのチョコちょうだい。」

 渉くんが手を伸ばす。

「いいよ。じゃんけんな。」

 無意味なじゃんけんによる争奪戦に未知瑠ちゃんも参加する。朱香里ちゃんは中学に入ってからこのメンバーと遊ぶことも減ったそうで、やれ彼氏だのデートだのと思春期に突入しちゃって、と剛志さんは弱々しく笑って話していた。


「いつ見ても、家族って面白いよね。」

 缶ビールを手にした独り者達は、両家族のわちゃわちゃした様子を遠巻きに眺めていた。

「さくらさんも、ああいう家族欲しいな、とか思いますか?」

 深く考えずに年頃の女性にそんなことを聞いた僕は、少し酔っていたのかもしれない。

「仮に思ったとして、明日にはああいう家族ができるんならいいんだけどね。実際には、結構な数のステップをこなさないとたどり着かないからな。」

 子ども達のコントのような動きを見つめたまま、さくらさんが答えた。

「なるほどね。」

 と店長がさらっと同意する。

「宮さんは?彼女とかいるの?」

 さくらさんが僕に話の矛先を向ける。

「もう何年もいません。」

「意外ですね。宮さん、モテそうなのに。」

 と店長が本音じゃない口調で言う。

「あれ、そういえば宮さんって、年、いくつだった?」

 さくらさんに聞かれたので二十五です、と答えると、

「なんだ。じゃあ私と一つしか違わないのか。そうなんだ。」

 いくつに見えていたんですか、など他愛のない話をしながらも、僕の目は店長の手元に缶ビールとグラスの両方が置かれていることを捉えていた。

「それで?結婚願望とかはないの?」

 さくらさんが僕に聞く。

「どうですかね。結婚って言われても全然、ぴんとこないです。」

「でもそろそろ同世代が結婚する年頃でしょう?」

 さくらさんが躊躇なく僕につっこんでくる。

「ちょうど、東京の同期が今の彼女さんと結婚を考え始めているようですけど。」

「あら、素敵。そういう幸せな友達を見ていて、いいなあとか、思わないの?」

「いいなあ、というよりは、大変そうだなあ、ですね。さっきさくらさんが言ったように、ステップがたくさんあるようだし。」

「そのステップって、“幸せの階段”って呼ぶやつではないんですか?」

 と、店長が言ったので、思わず三人とも笑いだした。

「面倒なステップか、幸せの階段か、正解がわかる人がここには居ないんだけど。」

 ひとしきり笑ってから、さくらさんと僕は二本目の缶ビールを開けた。店長はどうやら缶ビールとグラスとを交互に飲んでいるようだった。

「店長は?僕らより少し年上ですよね。」

 僕は店長に話を振ってみた。

「そうですね。お二人よりも少しお兄さんです。」

 年齢を明言しないことに意味があるのだろうか。

「結婚とか、は?」

 と僕が言ったとほぼ同時にさくらさんと店長が各々缶ビールで自分の口を塞いだ様子を見て、あれ、何かタブーに触れたのかもしれない、と不安がよぎった。

 若干の不自然さと共に店長が缶ビールを置き、何か言おうとしたように見えた時だった。

 ばあん

 大きな音がして僕はちょっと飛び上がってしまった。

「わー始まった!」

 全員が窓に顔を向ける。

 僕も体を窓に向けようと椅子を直しながら、赤くなった店長の横顔にさくらさんの視線が注がれていることに気付いてしまった。花火に消された店長の言葉を探しているようにも見えたが、次の花火を待つ店長に、言葉を続けるつもりがないことは明らかだった。店長の手元に置かれた缶ビールは半分から下に水滴をまとったままで、水らしきグラスの中身はいつの間にか空になっていた。

 ひゅー・・・ばあん、ぱらぱらぱら

「わーキレイ!」

 店内のすべての笑顔が瞬間的に照らされる。酒と仕事談義で盛り上がる純さんと剛志さん。ママ友会話で途切れることがない祐子さんと加奈子さん。キャッキャと大はしゃぎする三人の顔と、それを制御しようと花火に集中しきれない薫ちゃん。飲めない酒を僕らに付き合い、とろんとした微笑みで花火を眺める店長は、半分寝ているようにも見える。

 既にビールから一人でワインに切り替えているさくらさんに、酔いにかまけて気になっていたことを聞いてみた。

「さくらさんは、お仕事とかは?」

「今は、ちょっとお休み中。」

 特に言い澱むことなく普通に答えた。

「大学から東京に出て勤めてたんだけど。こっちに戻ってきてから一年以上経っちゃった。」

「山梨が実家ってことですよね?」

「そう。まあ、実家っていっても母が一人で暮らす市営団地だけどね。」

 カシューナッツを口にぽいっと放り込んだ。

「なんで戻ってき・・・」

 つい口から飛び出た言葉をぎりぎり制止したつもりだったが、間に合わなかった。

「母が病気しちゃって。・・・それと、私も東京のスピードに疲れちゃったんだよね。」

「スピード?」

 そう。と言ながら視線を落としたのは、話題のせいか、酔いせいかはわからなかった。

「都心の人って歩くのが早いじゃない。ものすごい数の人間が無言でずんずん進んで行く中で、その速さに付いて行くのに必死だったけど、必死過ぎて、心が折れちゃった。」

 通勤時間帯の新宿の様子を思い出し、あれのことか、と思った。

「確かにね。山梨は歩く人で混雑することがないから、ベクトルを見ることもないし。」

 と僕が言うと、キョトンとした顔で僕を見た。

「ベクトル?」

 人混みを歩く時のコツですよ、と答えた。ベクトルってつまり向きと強さを表す矢印で、新宿でも渋谷でも、人混みをうまく歩くには人のベクトルを見ればいいんです。目の前を歩く人、正面から近づいてくる人、自分とは違う方向に行く人、後ろから距離を縮めてくる人。縦横無尽に動く人達のベクトルを察して、自分のベクトルの向きと強さを調整すれば、ぶつかることなく行きたい方向に歩いていけますよ。

 ちょっとした間があった。

「あれ?僕、何か変なこと言ったかな。」

 さくらさんは不思議そうな顔をしていたが、やがて口を開いた。

「そういうのって、どうやって習得するの?」

 眠そうな店長に、僕らの会話が聞こえているかどうかはわからなかったが、うつろな目でさくらさんの表情をちらっと盗み見たように感じた。

「どうやってって、別に。ベクトルっていうのは単なる僕の表現ですけどね。ぶつからずに歩いている人はみんなそういう感覚でいるんじゃないですか。」

 理解できたのかどうかわからなかったが、さくらさんは少しだけ乾いた笑顔を浮かべた。

「ふふ。なるほどね。なんとなく、わかるような気もするな。都心の人って、そういうのが自然に身についているんだな。私には、すごく頑張らないとできないことだったけど。」

 ワイングラスを指でなでたさくらさんは、慎重に言葉を選んで話しているようで、いつもとは違う顔を見た気がした。

「あ、でも、山梨に来たら、そんなの、一切、全く、何の役に立ちませんでした。」

 僕が二本目の缶ビールを飲み干すと、さくらさんはワイングラスに二杯目を注いでいた。さくらさんは、かなり酒が強いようだ。

 外は、花火と共に、昼間とはまた違った様子の町が見下ろせる。夜景の街並みも、東京ほど派手さや明るさはなく、夕涼みにはちょうどいい熱量だった。そんな夜景を瞬間的に花火が照らす。これほどの規模の花火を、こんなに優雅に楽しんでいる両家族を改めて眺めた。この人達は、本当に幸福感を店いっぱいに充満させていて、それを同じ店内で同じ様に過ごしている僕は、肌から幸福感を吸収しているような感覚を覚えた。類は友を呼ぶ。悪口を言いたくなければ悪口を言わない人達と過ごせ。楽しく生きたいなら楽しく生きている人達と過ごせ。いつだったか、誰からだったか、そう言われたことを思い出した。僕は今、自ら幸福感を放ってはいないと思う。僕にとっての幸せが何かも皆目見当がつかない。そんな僕でも、幸福感が溢れ出ている人達と時間を共にし、その人達の中に身を置くことは気持ちがいい。この人達と一緒に居られることで、いつか自分も幸福感を放つようになれるかもしれない、と思えてくる。そうなりたい、なんて大それたことまでは言わないまでも、なれるかもしれない、と思えただけで、なんだか楽しい気分だった。もしかしたら、この人達と情報交換会を開いたさくらさんも、似た感覚を得たのではないだろうか。さくらさんにとっての幸せが何なのか、僕にはもちろんわからない。けれど、さくらさんも幸福感が溢れたらいいな、と思った。店長と一緒にさくらさんもこの店を幸福感で満たしてくれるようになったらどんなに素敵だろう、と思った。さくらさんの美しい横顔の向こうに、店長の笑ったような寝顔が見えた。

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