チャンネル

 好みのコーヒーに誘われて、翌週は夕方の時間にカフェ龍に行った。少し曇り空で眺めがあまり良くなかったこの日、僕がカウンター席に座るとすぐに窓辺の席に居た老夫婦が帰って行き、客は僕だけになった。

「オリジナルブレンドをください。」

 老夫婦の会計を済ませてキッチンに戻った店長にオーダーした。

「はい。ありがとうございます。」

 そう言って、店長は慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。しばらくその流れるような作業を眺めていた。見られているにもかかわらず、店長は緊張するでもなく、慌てるでもなく、言葉通り流れるように無駄のない動きで芳しいコーヒーの香りを立ち上らせる。

「なんだか、ほれぼれするな。」

 ここに居ると、なぜか心の声が口から出てしまう。意図せず飛び出た声を自分の耳で聞いたときに、あれ、と思った。どこかで聞いたことがあるような。

「お待たせしました。どうぞ。」

 店長がコーヒーを出した。

「はい。いただきます。」

 カップを持つ。そっと香りを確かめる。ほっとする香りだ。一口、飲む。

「はあ。おいしい。」

 またしても。はっと気づいて店長の顔を見ると、目があった。

「なんか、つい心の声が漏れているみたいです。すみません。」

 意味もなく言い訳じみたことを言った。店長は嬉しそうに笑いながら作業をしている。

 三口ほど飲んで、カップをソーサに置く。それを待っていたかのように店長が口を開く。

「たしか前回いらしたときに、来週の情報交換会の話はしましたよね。」

「あ、はい。SNSも見ました。情報交換会の開催通知と終了レポートだけでしたけど。」

 この店長だったら、もっとコーヒーのこととか、虫のこととかが随時アップされてもよさそうなのに、と不思議に思っていた。

「それ、全面的にさくらさんがやってくれているんです。私はそういうの不得手でして。さくらさんには助けてもらってばかりなんですよ。」

 と店長が言った。

「そうなんですか。」

 なんとなくカップを揺らしながら、先週会ったさくらさんのことを思い出していた。確かに、積極的なタイプのようだったな。

「山梨にはもう慣れましたか?」

「あ、はい、まあなんとか。でも職場の人以外に知り合いはいないし、休みの日にどこか行こうにも、自由に使える車がない者にとっては、何もないも同然でして。」

 つい言ってしまったものの、地元に住む人に、何もない、は禁句だった。しまったと思ったが、店長は眉一つ動かさず、穏やかに話を続けた。

「ふふ。東京の暮らしを基準にすれば、地方はどこもそうでしょう。」

 店長は、含みを持った優しい笑顔で手元に目線を落とす。

「電車も駅もないから、だから駅前商店街もないんですよね。」

 つい、無くて不便なものを挙げると、店長はうんうんと頷き、そして続けた。

「そう、通勤ラッシュの満員電車もないですよ。」

 ちょっと意地悪っぽく聞こえた。まあ、その通りなのだけれども。

「あと・・・夕日が、ないです。」

 僕がそうつぶやくと、店長は少し驚いた様子で僕の顔を見た。

「夕日、ですか?」

「そう。夕日。私鉄の高架線から見える小さな富士山の横に消えていくオレンジ色の丸い夕日。あれが沈むと夜が始まるぞって・・・でもここでは太陽のまま山に隠れてしまって。」

 店長が、無言で窓の外に視線をやった。なんとなくつられて僕も窓を振り返った。靄にかすむ眼下の街にぼんやりと建物の形が見て取れた。

「・・・山梨って、なんか、なんにもない感じがする。」

 本音であっても、あえてつぶやく必要のないことを口に出していた。少しの間があった。

「山梨にしかないものも、あるんですよ。」

 静かに店長が言った。

「そんなもの、ありますか?」

 そんなもの、本当にあるのだろうか。少し考えてはみたものの思い浮かばない。

「私もここに移り住んで思ったんですが・・・よく、郷に入らば郷に従えって言いますよね。あれは、いろいろな解釈ができるな、と。」

 窓の外から視線を外すことなく、店長は続けた。

「 チャンネルを切り替える、という感じなのかもしれません。」

「・・・チャンネル?」

 謎めいた言葉に眉を寄せていたのだと思う。店長は、僕の顔を見て優しく笑っていた。

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