カフェ龍
結局、あの寺院を再び訪ねようとスニーカーを履いたのは、梅雨入りが山梨に発表された後の週末だった。残業や東京出張などが続き、気付けば桜の話題などとっくに聞かれなくなっていた。梅雨のはずなのに快晴となったこの日、今度は最初から音楽は聞かず、あえて鳥の声を耳で探しながら歩くと決めてアパートを出発した。二度目の道のりは不思議と前回よりも短く思えた。そして分岐点にさしかかると、今度は右に進んだ。やはりくねくねとした農道だったが、寺院までは少し大回りするようだった。湾曲した坂を上がり振り返ると既にあの広い視野が広がっていて、つい立ち止まってぼんやりと眺めた時だった。耳元に虫の唸る羽音がし、思わずうぎゃっと叫んで首をすくめた。
ん?
みると自分の肩に蜂がとまっている。こ、これは、スズメバチだ。
ひいっ
体が固まる。硬直。刺される。刺すな。やめろ。黒いものを襲うんだよな。頭を隠せ?肩に居るのに?あれ、ゆっくり後ろに下がれっていうのは?あれはクマか。どうすればいい?え?どうしよう。だめだ。頭も働かない。叫べない。振り払えない。・・・万事休す。ああ、僕はここで蜂に刺されて倒れるんだ。人通りのない農道だからきっと発見されるのは遅いだろう。一人のときに限ってこういうことになるものだ。
「ああ、動かないで。キイロスズメバチだよ。とってあげるからそのままじっとしていて。」
後ろから声がした。人だ。僕に言っているのか?良かった。救世主、現る。助かった。
・・・かしゃ
ん?何の音だ?シャッター音がした気がする。・・・あれ?
「いいね。いい。ちょっと待ってね。」
カシャカシャ。連写の音。
「OK。ありがとう。お行き!」
ぶん、と耳元に低音をかすめて、僕の肩越しに蜂が去っていった。
「う、動いてもいいんでしょうか?」
固まった体はそのままにギリギリ声を絞りだした。
「大丈夫。もう行きましたよ。」
後ろからポンと両肩を優しく叩かれ、呪縛が解けたように体が動いた。振り向くと、背丈は僕と同じくらいの男性だった。何とも人懐こい笑顔で、今撮ったばかりの写真を僕の顔の前に見せた。スズメバチのアップ写真。
「すごく良い写真です。」
満足そうな満面の笑顔。
「あの・・・とってっていうのは、撮る、だった?」
ふふ、と笑う。
「ごめんなさい。すぐに追い払って欲しかったのはわかったのですが・・・。」
次の写真を見せようとスマホを操作している彼が僕の視界から消えた。
「こ・・・恐かった。まじで怖かった。終わったと思った。刺されて死ぬと思った。」
僕はその場に座り込んでいた。生まれて初めて「腰が抜ける」を経験した。
「蜂はむやみに襲いませんよ。まだこの季節は攻撃的ではありませんし。」
へたり込んだ僕に手を差し伸べてくれた彼の言葉も僕の耳には入ってこなかった。泥汚れと草の種がくっついたグレーのつなぎの裾を見つめ、意識的に深呼吸をする。
「虫が、好きなんですか?」
手を借りてなんとか立ち上がると、つなぎの下に淡い水色のネルシャツが見えた。
「はい。虫は友達です。」
満面の笑み。頭には、ベージュのキャップを後ろ向きに被っている。
「あ・・・そう、ですか。ははは。」
借りた手を反射的に離してしまった自分に驚く。まるで虫好きの人を気持ち悪がって手を離したように思われなかったか。ちょっと今のは失礼過ぎやしなかったか。
「生き物全般好きですが、虫は特に好きなんですよ。」
僕の瞬間的な態度や動揺に気付く様子もなく、彼はスマホをいじりながら言った。
「これ、最近のベストショットです。」
スマホには、虫の写真。画面いっぱいに、虫の姿。見たこともないが、見たくもないような虫の写真を楽しそうに見せられて、反射的に上半身が完全にのけ反った。
「あ、ごめんなさい。」
すぐにスマホを持つ手を引っ込め、申し訳なさそうに首をかしげながら謝った。
「虫、かなりお嫌いなんですね。」
「ここ数年、ニュースでスズメバチ被害とか、聞くじゃないですか。」
すると彼は、ちらっと僕の外観を目で追って、何か気付いたように言った。
「まさか、スズメバチを初めて見た、とか?」
当然過ぎる質問を不思議に思いながら、はい、と言うと、彼は優しい声で言った。
「そう。それじゃあ腰抜かすほど驚くのも仕方ありませんね。」
彼は包むような温かい笑顔を僕に向けると、軽く手を挙げて坂道を上って行った。我に返った僕は、彼の背中に向かって慌てて叫んだ。
「あ、あの!」
彼は足を止めると、上半身をこちらに向けて僕の言葉の続きを待っている。
「あ、ありがとうございました!」
かろうじて言った僕の言葉を左手でひょいっと受けとめると、その手でキャップを前に被りなおしながら足取りも軽く去って行った。
彼の後ろ姿が見えなくなってもまだ動揺は収まらず、呼吸を整えながら街に目を向けた。前回は曇っていて見えなかった富士山が堂々たる姿を披露している。梅雨とは思えない澄んだ空と、ちぎって放ったような雲がまるで絵画のようにぽこぽこと浮かんでいる。いや待てよ、絵画のよう、とは何ともおかしな表現だ。絵画はこのリアルな風景を写し取って描いているのだから、絵画を鑑賞してリアルな空の下に居る気分になるのが正しいのではないか?そういえば学生の頃はよく行っていた美術館にも最近行っていない。仕事がひと段落したら、山梨の美術館にも一度行ってみようか。そんなことを思いつくほどに平静を取り戻した頃、僕はまた歩き出した。
傾斜の先を見上げても畑の樹木が視界を遮り、目指す寺院が近づいているのか不安がよぎる。でも見下ろす景色は同じだからそう遠くはないはずだ。足元を見ながら急勾配の坂を上がるとやっと道が開けた。顔を上げると、少し先の黒い建物が目に飛び込んできた。
「あれ・・・?」
つい口に出してそう言っていた。こんな建物があったなんて。テラスが張り出していて、カフェのようなテーブルとイスがちらっと見える。民家かな?もしかしてお店?小さな看板が道脇の植え込み付近に置かれているようだ。左に顔を向けるとゴールの寺院が見えた。前回は向こう側から来たためにこの黒い建物には気付かなかったらしい。このまま寺院へ行くか、なんとなく気になるこの黒い建物の正体を確かめてみるか。迷っていると、足元に何かが光ったような気がする。
「ん?ごみか?」
何か絵柄がついた光るものが落ちている。飴か何かの包みかな?と屈みかけた瞬間、スススッと前方へと移動した。虫だ。僕は反射的に一歩下がったが、妙に気になる。なんとも言えない光具合。赤と白と、でも青緑っぽくもあり、輝いている。その模様と光具合に目を凝らすも、そのフォルムはやはり虫だ。細長い形はハエでもカブトムシでもバッタでもない。自分の中で恐怖と好奇心とがせめぎ合う。恐々と半歩近づくと、ススッと前に進んだ。もう半歩動くと、また逃げた。これ以上近づくなと一定の距離をとっている。なんだろう、ふと記憶から呼び起こされる切ないようなこの感じ。切ない?虫相手に、なぜ切ないなんて。違う、この切ない感情は、振られた彼女に「友達のままでいようね」と言われたときの、あの感じ。いや。いやいや。何年も前に振られた彼女と虫をオーバーラップさせるなんて。何を考えているんだ、僕は。
我に返ると、いつの間にかさっきの気になる黒い建物の前にいた。小さな看板には「カフェ龍」の文字。どうやらおしゃれなカフェのようだがとてつもなく隠れ家的だ。コーヒーの一杯でも飲んで行きたいところだが、その前にさっきの虫はどこに行った?地面を見回したがもう見つけることはできなかった。
「何か、探し物ですか?」
優しい声が、頭の上から降ってきた。驚いて直立すると、カフェのドアをあけて男性がこちらを見ている。短髪に水色のシャツ、濃紺のエプロンは白い紐が腰の前で結ばれている。その姿は、典型的で完璧なまでのカフェ店員だった。
「あ、はい。いや、いいえ。」
虫は探していたのだが、探し物というほどではない、という意味が伝わったとは思えない受け答えをした僕に、男性は何とも人懐こい笑顔で言った。
「あれ、さっきの虫嫌いの・・・?」
そうだ。この笑顔。つなぎの下に見えた淡い水色のネルシャツ。
「ああ、先ほどは・・・。ここ、カフェなんですか。」
まさか再会するとは思いもしていなかった。
「カフェです。私がやっています。」
「そうでしたか。あの、コーヒーとか、飲めますか?」
ちょうど開店するところだからどうぞ、と言って、彼は僕を迎え入れるためにドアを全開にしてくれた。しゃれた玄関マットを踏もうとする僕の足が、進むのを躊躇したとき、植え込み付近にちらっと光るものが見えたような、見えなかったような。
「あ、あの。店内に虫がいっぱいいたりとか、しないですよね?」
不安と不信が口から飛び出した。そう。この人は、スズメバチさえ恐れないような、虫の人だ。容易に近づいてはいけない、と僕の本能が制止する。彼は僕の言葉を理解したとたん、大笑いしながらもはっきり否定した。
「虫だらけのカフェ?猫カフェならぬ、虫カフェ?それは面白いですね。今後考えてみます。ふふ。残念ながらここは、ごく普通のカフェですので安心してどうぞ。」
そう言って、ドアを開放したまま店内へ戻った。僕は、恐る恐る店内へと入り、後ろ手にゆっくりとドアを閉めた。
店内は、落ち着いた木目のフローリングにアースグリーンの壁。床と色調を合わせたウッディなテーブルとイスの足は黒いスチールで、全体の印象をすっきりとまとめている。天井からは、統一感のある黒スチールを工夫したおしゃれなペンダントライトが規則正しくぶら下がっている。席数は多くないが、何よりも、思わず声を上げたのは、テラスに出られる掃出し窓が例の景色を捉えていることだった。
「うそ・・・これ・・・すごい。」
窓の景色に対峙して立ち尽くしてしまった。この景色に、ほのかなコーヒーの香り。視覚と嗅覚が同時に自分好みに満たされて思わず時が止まったと思った。我に返って振り向くと、人懐っこい笑顔が言った。
「初めてのお客様にはオリジナルブレンドをオススメしているのですが、いかがですか?」
「あ、はい。ぜひ。お願いします。なんか、すみません。」
ちょいちょい、我を忘れてしまう自分がちょっと恥ずかしくなった。そんな僕の返事を得てから彼は挽き終えていたコーヒーの粉をドリッパーに入れた。
「この景色はいいでしょう。どうぞ、好きなところに座ってください。」
満足げな顔でコーヒーを淹れ始めた。客は僕一人。端の席に座ろうかと奥に行くと、壁の本棚に図鑑や写真集が並んでいた。虫、花、雲・・・。棚の下の段に置かれたかごには写真が入っている。スズメバチの写真。シャツの柄で、僕の肩が写っているのがわかった。他にもいろいろな虫の写真が入っている。そうか、写真を撮っては、ここに置くのか。
「この写真。さっきのですよね。」
そう言いながら振り返ると、彼の左手に握られたシルバーのポットが周期的に傾けられ、その度に湯気が立ち上る様子が見えた。店中が淹れたてのコーヒーの香りで満たされていく。思わず、鼻から息を吸った。
「あまりに良い写真が撮れたので、戻ってすぐにプリントしたんですよ。」
淹れたてのコーヒーを運んできた彼は、窓側の真ん中のテーブルに置いた。
「オリジナルブレンドです、どうぞ。さっきはちょっと意地悪をしてすみませんでした。」
楽しそうに笑う。僕が席に着くと、彼はかごの写真を数枚取り同じテーブルに着いた。
「いえ、意地悪だなんて・・・。」
冷静になれば、確かになかなかの意地悪だった、と僕も気付いたので言葉を濁した。
「いただきます。」
僕はコーヒーカップを持ち上げ、さりげなく香りを確かめた。強い特徴はないが、ほっとする香りだ。すぐに、一口すする。
「うん。おいしい。酸味控えめで強すぎない。」
目の前に淹れてくれた人が見守っていることを忘れ、本音が口から出てしまった。
「お口にあいましたか。良かった。コーヒーお好きなんですね。」
今度は嬉しそうに笑う。この人は、表情が豊か過ぎて、つい顔を眺めてしまう。好みのコーヒーだったことは事実で、しかもかなり好きな方だったのだが、この受け答えはまるで通を気取った面倒くさい客と思われたのではなかろうか。
「好きですけど、でもこだわり屋じゃないし、詳しいわけでも違いがわかるわけでも・・・。」
もう一度、口に運ぶ隙に彼の顔をちらっと見ると、変わらず嬉しそうに微笑んでいる。
「おいし・・・あ、あの、虫の写真が趣味なんですか?」
ごまかすように、虫の写真に話題を変えた。
「虫は趣味ですが、写真はなりゆきです。見つけた虫は写真に撮っておくようにと・・・。」
開店直後のためか、はたまた超隠れ家的立地のためか、他のお客さんが来ないのをいいことに、僕はいろいろと質問していた。彼は、面倒な顔一つせず、すべて答えてくれたが、質問したこと以外は、自分からぺらぺらと話し出すことはなかった。
私は、生まれも育ちも東京です。母方の祖父がこの近くに住んでいて、よく遊びに来ていました。親戚もこの辺りに多くて、私にとっては第二の地元みたいなものです。祖父は無類の虫好きで、ずいぶんと鍛えられて私もすっかり虫好きにさせられました。祖父は数年前に亡くなってしまいましたが、その時にこの土地を譲り受けてこの店を始めました。昔からこの眺めは大好きでしたし、なにより、祖父がいつも仲良くしていたであろう虫達と、私もお近づきになれると思いましてね。
写真は、このカフェに集まるようになったご近所さんのものがほとんどです。店ができて、すぐに常連になってくれましてね。祖父譲りの虫好きだってことで、皆さんが目撃した虫の名前とか生態とかを尋ねてこられるんですが、図鑑で説明しても「さっき見たの、本当にこれかなあ?」って言うんです。標本写真と本物とでは印象が違うんですよね。それで皆さん、写真を撮ってくるようになったので、ここですぐにプリントしておくようにしました。日付と解説を簡単に裏に書いておくと、なかなかのデータベースになって面白いんですよ。ばらばらに持ち込まれる写真ですが、不定期で情報交換会を開いて常連さん達で共有するんです。人が集まるって、とても面白いです。
コーヒーは学生時代のバイトがきっかけでハマって。卒業後にお店を持つことを目指していろいろ修行しました。あちこちのお店で働きながらこだわりのカフェを見たり、理屈やうんちくも聞いたりして、まあ本当にいろいろと。それで最後にたどり着いたのは、誰のものでもなく自分の好きなコーヒーを淹れたい、というところでして。多くの人に好かれなくても、自分が一番好きなコーヒーを提供する、をコンセプトに店を始めました。
「僕の好みにドンピシャです。コーヒーも、この景色も。」
少し大きな声になったのは、本音だったためだと思う。
「・・・虫は、ちょっと、ごめんなさいですけど。」
と僕が言葉を続けると、彼は「いいんですよ、お気になさらず。」と言って笑った。僕は、改めて窓の外の景色に目を向けた。この景色を大きな窓に閉じ込めてコーヒーを飲みながらゆったりと眺めるなんて、最高だ。・・・と、店内にBGMがないことに気が付いた。
「BGMは流さないんですか。」
そう尋ねると、ああ、そういえば、と言って、彼は天窓を動かし始めた。すると、頭上からふわっと風が入り、同時に、鳥の声が聞こえてきた。
「BGMは、自然の音です。」
ステレオ設備は取り付けてあるらしいが、クラシックやジャズ、ヒーリング音楽、オルゴール集、といろいろ試した結果、どんな音源よりも鳥の声、虫の声、風に揺れる葉の音や遠くの雷鳴まで、リピート再生せずとも飽きることのない天然の音が一番マッチしたのだと彼は楽しそうに語った。
「それ、わかります。散歩しながら僕も同じことを思っていたんですよ。」
そう言ったときだった。
「ちょっと、店長!聞いてよ!」
と言いながら、若い女性が入ってきた。
「あ、ごめんなさい。お客さんがいたの。」
僕の姿を見るなり、驚いた顔で急に立ち止まった。
「いらっしゃいませ。」
彼は片手で僕に合図をすると、すっと立ちあがってキッチンへ行ってしまった。
「あ。いいのかな?」
彼の行動を目で追いながら彼女がそうつぶやいたので、僕は両手を出して、どうぞどうぞ、とジェスチャーした。常連さんらしい女性に対して、一応、気を遣ってみたが、実際この静かな店内だと、会話は筒抜けとなるに違いない。
「いつものでいいですか?」
店長と呼ばれた彼は、キッチンに入り「いつもの」を作り始めたようだった。常連らしき女性は僕に軽く会釈をし、キッチンに立つ店長の正面に位置するカウンター席に座った。
「いいの?」
小さい声で店長に伺いを立てる。僕は、そろそろ出た方が良さそうだ、とカップの残りを口に流し込んだ。コーヒーがすっかり冷めていたことで時間の経過を認識したが、同時に冷めてもおいしいコーヒーが僕をその場に引き止めてしまった。
「初めてのお客様で、つい長話をしてしまいました。」
慌てるでもなく、ペースを乱さずに店長は飲み物の支度を始める。
「初めましてなんだ。そっか。リピーターになってくれそう?」
彼女なりに小さい声のつもりらしいが、結構聞こえている。僕はどうしていいかわからなくなって、とりあえず聞いていないふりで空のカップを持ったまま屋外の景色を眺める。
「気に入っていただけたら嬉しいですね。でもそれはお客様次第ですから。」
カランと氷をグラスに入れる音がした。背中越しに、会話が途切れているのが気になって仕方がなかった。もしかしたら、僕のせいで話したいことも話せないのだろうか。僕の中で、人の会話を盗み聞きするような無粋な真似をするくらいなら席を立てよ、と言う自分と、この冷めても酸っぱくならないコーヒーと景色が織りなす素敵な空間を堪能しない方がよっぽど無粋じゃないのか、という自分とがケンカしている。背後ではからからっとグラスの氷が混ざる音に続き、どうぞ、と彼の優しい声がした。コースターに乗せられたであろうグラスからもう一度、液体の中で氷が溶ける音が、かしん、と鳴った。
「ふふ。ほれぼれする。」
彼女がコースターごとグラスを引き寄せ、ストローを挿す音がする。
「お話、聞きましょうか?」
彼女が一口、二口飲み込むのを待って、店長が声を掛ける。
「うん。藤の花に来たの、マルハナじゃない?今年こそ写真撮ろうと待っていたやつ。動き早すぎて動画撮ったけど、なんか違うような、そうなような。どうかな?」
「ふん。んんん。残念。これはクマバチかな。もう一回。うん。そう。ほら。クマバチ。」
これは、たぶんだが、恐らく、きっと、虫の話をしている。虫の動画を見せるために来たのだろう。さっきの話にあった、虫好きの常連さんの一人に違いない。
ピヨ~ カアカアカア
突然、天窓からカラスの声と、あれは、とんび?の声がした。騒いでいる。
「あ、またやってる!」
彼女が窓に走り寄ってきた。
また?何かと思い窓外を見ると、トビらしき大きな鳥が、自分より小さな体のカラスを攻撃している・・・いや、違う、攻撃されている。
「かわいそうに。カラス、意地悪しないで。ほらほら、トビも逃げな、避けてほら。」
独り言より少し大きい声でそう言いながら、鳥達の様子を食い入るように見た彼女だったが、ふと、僕の存在に気付き戸惑う表情を見せた。鳥に気を取られて、僕のスペースにうっかり入ってしまったことを気にしたようだ。
「よくあることなんですか?あれ。」
僕は彼女と目線を合わさずに鳥達の様子を見ながら言った。
「そうなんですよ。」
微妙な安堵感が漂う。
「カラスって、自分の縄張りに入られると、自分より体の大きいトビでも追っかけ回すの。」
横目に彼女を見ると、窓ガラスに鼻がつきそうなくらいに顔を近づけて、トビの行方を追っていた。僕は、美しい横顔だな、と思った。
「ああ、行っちゃった。」
急に窓から遠ざかると、足早にカウンターに行き、無言で布巾を持ってきた。
「ちゃんと拭いておくからぁ。」
交わされるはずの会話をいくつか省略し、恐らく店長に投げ掛けられた言葉と共に、窓ガラスについた自分の指紋を拭き取っている。
「綺麗になったかな?どうかな?いいかな?」
拭いた場所をいろいろな角度から見て確かめると、僕にも尋ねた。
「そっちから見ても、大丈夫?綺麗になっているかしら。」
あ、はい。と、ちょっと頭を動かして窓ガラスを確認しながら返事をしたものの、本当のところは汚れ具合も見えていなかった。
「コーヒー、美味しいですよね。」
彼女は、改めて僕との距離間を図るように話を変えた。
「ええ。とても。深煎りだけど強すぎなくて、冷めても酸っぱくない。」
僕はあまりお世辞を言わない。もし好みでなかったらこの時も正直にそう言ったと思う。
「あ、すごい。店長と同じこと言った。」
嬉しそうに笑うと、顔だけカウンターに向けて言った。
「店長。こちら、店長とコーヒーの好みが同じ。」
カウンター越しに、店長が満面の笑みを浮かべた。
「あの、ここに座ってもいいですか?」
ちょっと遠慮がちに、でもまっすぐに僕の目を見て彼女が許可を求めた。
「はい。どうぞ。」
許可を出したが、そう答えるしか選択肢はなかった。カウンターから透き通ったグラスとコースターを持ってきて、僕の斜め向かいに座る。
「初めてのお客さんですよね。ここでお会いしたことないですものね。」
「はい。初めて来ました。」
「私、近所に住んでいて、ここによく来るんです。さくらです。よろしくお願いします。」
「えっと。宮崎です。虫好きの常連さん?」
店長が寄ってきて会話に加わる。
「さくらさんは、情報交換会の発起人です。」
二人は顔を見合わせて、互いに優しい笑みを浮かべた。
「宮崎さんは、この近くではなさそうですね。どちらからいらしたんですか?」
「ええ、東京なんです。」
「東京?東京からわざわざここに?」
「いえ、仕事の都合で二月からこっちに仮住まいです。一年だけの予定なんで。」
「宮崎さん、虫が苦手のようですよ。」
店長が補足すると、さくらさんはにやりと笑って言った。
「私もそうだった。会のみんなも最初からそんなに虫好きなわけじゃないから、大丈夫。」
大丈夫、とはどういう意味だ?
「次回は再来週の土曜日。午後の二時から。良かったらぜひご参加くださいね。」
手渡された名刺サイズのカードには、店の名前とSNSのアカウントが記されていた。
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