山梨への転勤

 正月気分がようやく抜けて、寒さの話題が当たり前になっている二月のある夜、僕は行きつけの居酒屋で同期の古田と飲んでいた。

「山梨工場に転勤だって?」

 古田が切り出した。

「いや、転勤って言っても工場の新しい生産ラインが立ち上がるまでの期間限定だから。」

「意外と工場長に気に入られて、本社に戻ってこなかったりして。」

 そう意地悪く笑いながら、唐揚げをほおばる。

「よせよ。山梨になんて長居できっこないって。」

 僕も負けじと唐揚げの最後の一つをほおばる。

「どのくらいの期間なの?新棟の建設は始まっているんだろ。」

「二月からの一年間。でも、状況次第で延長もある、って部長がやたらと強調するんだよ。」

 空いた皿を店員に渡し、ビールを追加オーダーする。

「家はどうすんの?」

「会社が借りてくれるアパート。工場からはちょっと遠いけど。」

「工場の周り、アパートどころか建物一つないからな。少しでも中心寄りだといいな。」

「中心?中心って、どこなんだろう。」

 新しく泡を湛えたビールを二つ受け取ると、今度は厚焼き玉子をオーダーする。

「え、山梨の中心、だろ?えっと、県庁所在地・・・甲府?」

「甲府、行ったことあるの?」

 口の周りについた泡をおしぼりで拭く。

「いや、通過したことしかないけど、城があるよな。駅から見上げるように石垣があって。」

「あ、それ。それさ、ないらしいよ。」

 古田は少し冷めた軟骨揚げを口に放り込み、咀嚼したまま声を出す。

「ん?」

「城。立派な城がありそうな石垣だけど、あの上って、ただの公園で城なんかないらしい。」

 僕は空いた皿を通路側へ置く。

「え、そうなの?」

「この前、山梨工場の人達がそう話しているのが聞こえた。」

「なんだ。見かけ倒しだな。」

 焼きたての焼き鳥を受け取り、テーブルの真ん中に置く。

「まあ、仕事でもなければ甲府なんて行かないよね。富士山の方ならまだしも・・・。」

「なあ、甲府って何があるの?つうか、何かあるの?」

 焼き鳥に七味を振る。

「よくわからないけど、何も無いらしいよ。」

「うそ、やばいじゃん。そんなところに異例の転勤だなんて。」

 古田がレバー串を取り、先端の一つをくわえながら続ける。

「ま、行ってみれば意外と住みやすいかもしれないぜ。工場栄転も夢じゃないな。」

「よせよ。あんな、何もない田舎に栄転なんて、縁起でもない。」

 ビールジョッキを置くと、古田はふと真顔になって言った。

「俺は無理だな。一年だけでも山梨なんて絶対無理。」

「春菜さんが泣くからか。」

「どうかな。あいつ、泣くかな。つうか、俺が泣く。」

 古田はいつも真顔でのろける。春菜さんとは、合コンで知り合ったと聞いている。

「でも言うほど遠くないよ。新宿から一時間半で甲府に着くし。」

 つくね串を僕が口に入れると、古田はまっすぐ僕の顔を見て言った。

「でも、会社帰りのデートはできないだろ。」

「さて、どうだろう。定時であがって甲府に六時半に着けば新宿に八時か。でも最終は・・・。」

 古田は湯気が立ち上る厚焼き玉子を受け取り、大根おろしにしょうゆをかける。

「真剣に計算しないでいいよ。どうせお前にはデートのお相手もいないんだから。」

「まあね。おかげ様で、今回も打診があったときに即答できて良かったよ。」

 僕は厚焼き玉子の一切れを崩れないよう慎重に自分の取り皿に運んだ。

「そうだよな。俺だったら、すんげえいろんなこと考えるわ。俺じゃなくて良かった。」

 そう言うと古田は、最後のレバーをくわえて串を引き抜いた。もう何年も彼女がいない僕には、社会人らしいデートや大人の恋愛がちっともわからない。そのためか、古田のおのろけも未知の世界の話としていつも興味深く聞かせてもらっている。

「飽きないものなの?平日も休日も、しょっちゅうデートしていて。」

「二年以上経つけど飽きないね。自分でも不思議。美人過ぎないのがいいってことかね。」

「自分で言ったな。」

「いや、本当に。超絶美人でなくていいんだ。俺にとって可愛いければそれで。その方が心配も減るし、可愛いところを俺だけが知っているっていう感覚がある。」

 空串入れにいれた串をつついている。

「お前にとっての可愛いってどういうところ?」

「教えねえよ。春菜の可愛いところにお前が気付いたら、俺の心配が増えるじゃねえか。」

 真顔で言っておきながら、少し耳が赤くなった。

「そういうのって、独占欲?ジェラシー?」

「お前も彼女ができるといいのにな。毎日楽しいぜ。まじで。」

 さらっとはぐらかされた。

「でもなんか、デートに行く場所とか日程調整とか、そういうのちょっと面倒じゃん。」

「いやいや、面倒じゃないって。計画するのも楽しいから。」

「そうなの?」

「お前にも、そういった楽しさを教えてやりてえな。」

 再びビールジョッキを持ち上げる右手は、妙に肘が高い。

「つうか、俺のデート中、お前は何をしているの?」

「は?何、を?」

 即答できない問いに、僕は持ち上げかけたビールジョッキを置いた。

「お前だって俺と同じ時間を生きていて、俺が春菜と幸せな時間を過ごす間、お前は・・・。」

「何を、しているかって?」

「そう。一日の約三分の一がプライベートタイムだろ。その時間を俺は春菜と過ごすか、デートを計画して楽しんでいる。じゃあ、その同じ時間でお前は何をしているわけ?」

「・・・ん。そう言われると。」

 返す言葉が見つからず、ビールを口に流し込んだ。古田が彼女と幸せな時間を過ごしているとき、僕は何をしているんだろう?特別な趣味もなく、なんとなく家に帰って、なんとなくテレビを見て、なんとなくネトゲなんかをして、なんとなく・・・。

 なんとなく。もし今の古田が自分よりほんの少し輝いて見えるとしたら、それは彼女がいる、という人生的アドバンテージのためと考えるのは、もしかしたら違うのかもしれない。日々なんとなく過ごしている自分が、妙にくすんでいるように思えてきた。古田と僕との間には、明らかな違いがあることはどうやら事実らしかった。

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