引っ越し
製品開発から製造までを行なう三百人規模の会社に入社した僕は、新人研修が明けるタイミングで発足した新製品開発プロジェクトのメンバーにいきなり加えられ、マネジメント業務をアシストしながらなんとか仕事を覚えてきた。アシスト、などと格好つけた言い方をしたところで、所詮は雑務をすべて引き受け走り回るだけのことだったのだが、もうすぐ入社三年目となる頃には新製品も試作ラインの立ち上げにまでこぎつけていて、僕はいつのまにかプロジェクト全般を細かく把握できている社内で唯一の人間となっていた。本来なら、製造ラインのことは工場にお任せでも進められるのだが、プロジェクトにおける裁量こそほとんど与えられない代わりに、どの部署からの指示でも対応可能なアシスタントとして定着していた僕は、なぜか工場業務にまでかかわる流れになっていた。
忘れもしない、初めての山梨出張の日のことだ。特急あずさの指定席券を片手にホームを歩いていたときに、そこがあの、いつも羨ましく眺めていたホームであることにやっと気付いた。そうか、ここがあの憧れへの入り口か。このホーム、この電車、よくよく見ればいつものあの特急じゃないか。今この瞬間までそのことに気付いていない自分に笑ってしまった。なんだ。ここか。発車の時を待つ特急に乗り込むと早々に缶コーヒーとサンドウィッチをテーブルに乗せる。知らずにとった指定席は、座ってみれば進行方向左側、すなわち、山手線を眺める席だった。なんだ。ここなのか。再び笑いが込み上げる。わざと窓辺に肘をつき、過密を極める十二番線の混雑に目を向けた。あの人混みの中に、押し潰されそうになっている自分を見つけることができるような気がしてくる。そして、あれほどの人数がいても知り合いは一人もいないことがなんだか不思議に思えてきた僕は、自分の日常を客観視することの非日常感をぼんやりと味わっていた。
山梨出張も回数を重ねると、平日朝の特急あずさは仕事で利用する人ばかりであることがわかり、この十番線が特別な世界の入口だと思ったのは単なる僕の幻想で、旅気分に浮かれ気分の特急車両など存在しないと知った。空間的余裕こそあれど仕事に向かう人々特有の静けさを信州方面へと運ぶ車内もまた、僕の単なる日常の一環となりつつあった。
特急あずさで進行方向左側の指定席にこだわらなくなった頃、僕は山梨に転勤になった。一応、一年のつもりで最低限の荷物だけの簡単な引っ越しを済ませたアパートの室内はかなり殺風景だ。しかし、ここは驚くことに窓から陽射しが十分に差し込み、日の出と共に部屋が明るくなる。ベランダ側の敷地は全室分の専用駐車場で、その先は畑。隣の建物からの視線を気にする心配は皆無だった。大げさに聞こえるかもしれないが、こんなに空間を持て余したアパートが世の中に存在するなんて、と本気で思った。徒歩圏内には約五分行くとコンビニが一軒、その少し手前の道端に三台並ぶ安売り自販機が現金を使える最も近い場所だった。生活する上で欠かせない車でならスーパーとドラッグストアとホームセンターが比較的近くにある。最初こそ、これしか店がないとがっかりしたものだったが、たんたんと日常生活を送るだけであれば、意外と困らなかった。
引っ越してみて知ったことはいろいろあった。この街のエリアは甲府から釜無川を超えた場所で「川向こう」と呼ばれるらしい。川を境に若干方言も違うらしいのだが、とても僕には分からない。盆地特有のケーブルテレビは市単位で設置され、奇数チャンネルでは市内の行事や市議会中継、農作業指導、歴史・観光スポット紹介などが繰り返し流されていて、ローカル過ぎる情報が逆に面白く思えた。
桜前線の話題が聞かれる頃には、工場とアパートを往復するだけの生活にも慣れてきた。日が昇るのが徐々に早くなり、明け方薄暗い時間に周辺の畑から響いてくる消毒車の騒音で目を覚ますことが増えると、休日に時間を持て余すようになった。通勤用に借りている社名入りの車で県内を観光するのは憚られ、そうかといって一年と決まっているのにわざわざ自家用車を購入する気にはなれない。なんとなく見た県内ニュースで山梨でも桜の開花宣言が発表されたと知った日の週末、少し肌寒く薄明るい曇り空ではあったが、僕はフル充電した音楽プレーヤーをポケットに捻じ込み、スニーカーの紐を締め込んだ。ケーブルテレビで紹介されていた桜の名所で知られる寺院までは徒歩で四十分程度と、散歩にはちょうどいい距離だ。そういえば、学生時代には暇にかまけてよく数駅分の距離を歩いたよな、などと思い出しながら車通勤で鈍った体をほぐすように歩き出した。
出発して二十分後、高台に近づき道の両脇が果樹園ばかりになると歩道の縁石がなくなり、道は狭まり、白線が消えた。僕は音楽を諦め、イヤホンのコードを巻きながら坂を上っていた。人が歩くための道路ではなく、農作業用の車両が行き交うための狭い道は、音を遮断しているとゆっくりと近づいてくる軽トラに気付けず危険と判断したためだ。そういえば歩いている人は誰もいない。車の運転手は歩いている僕を怪訝な顔で見て行く。そんなに歩行者が珍しいのだろうか。それにしても、だんだんと坂がきつくなってくる。意外と、坂がキツイ。畑が広がる風景は、行けども行けども変わらない。畑の木々の枝に付いた硬そうな新芽に、開花宣言は聞き間違いだったかもと不安を感じたとき、分岐点にさしかかった。どちらでも行けるようだったため、気の向くままに左の道に進んだ。
クランク状の道なりに坂を行くと、突如、道の脇に石仏がでんと座っており、その前で女性が手を合わせている最中だった。邪魔をしないようしばらく遠目に見守っていると、お参りを終えた女性は、僕に気付くことなく坂の上へと姿を消した。僕はゆっくりとその場所まで進んだ。畑しかないところに、突然の石仏。地蔵ではなく、石仏。僕の体よりは二回りくらい大きいだろうか。肩幅に比べて若干頭が大きく感じる。その表情はひょうきんなようで、ふてくされているようだ。後ろに枝を広げる桜の木は、まだ数輪のつぼみがほころぶ程度だが、満開になれば背景に桜をまとうこの石仏の表情も違って見えるかもしれない。先ほどの女性によるものか、新しい花とペットボトルが供えられていた。脇に立つ小さい説明看板によると、地元の人々に親しまれているこの石仏は富士山を見て皆の幸せを祈っている、らしい。石仏の前にしゃがみ、とりあえず手を合わせた。石仏の顔を見上げ、その視線を追って振り返ってみたが、背の高い樹木が並ぶ林しか見えない。
「富士山、見えていないですよね?」
とつぶやいたところで返事はない。改めてまじまじとその顔を覗き込む。何かを諭すような、無心のようなその表情は何も変化しないが、閉じたような細い目は富士山を見るというよりも、大きな耳で何かを聞いている様にも見えてきた。
「どうも、お邪魔しました。」
石仏に別れを告げ、再び坂を上がった。少し行くと横に行く道があり、ようやく寺院の石門に到着した。急な石段を一段ずつ上ると、木像が両脇に鎮座する門が出迎えてくれた。なんとなく一礼してから恐る恐る境内に入る。参道の右側は小さな石仏達が横並びになって参拝者の足元を見守り、左側には太く大きな桜の木が広い間隔で数本、堂々と空に枝を広げているが花は見当たらない。そのままゆっくり歩を進めて数段の石段を上がると、そこは広い平地で右手に本堂、左手にさっきよりも大きな桜の木が四本並んでいた。満開になったらさぞかし綺麗だろうけれども、黒に近い色をした枝にちら、ほら、と開いた花は白い空に溶け込んで意図的に探さなければ見つからなかった。桜の木の下にはブランコと鉄棒があり、近所の子どもだろうか三人で遊んでいる。寺の檀家でもない余所者が入って良いものかと少し不安だったが、遊具が設置されているなら問題なさそうだ。しばらくの間、四本の桜の木を見上げ、気の早い花を目で数えながら満開の様子を想像した。
そして、後ろを振り返った僕は、思わず息をのんだ。
絶景だった。
今上ってきた畑地帯は広くなだらかに下り、やがて街が広がる。視線をまっすぐ正面に伸ばすと、左側から山が流れ込んで来る。薄い雲の隙間から点々とこぼれる弱い日差しが、その山の向こう側まで広がっている街を照らす。平地に広がる街並みを奥まで見ていくと、やがて斜めに上って行って向こう正面の山に溶け込む。視線を戻して右へ、左へと街並みを追うが、やはり最後は山に吸収されていく。なるほど。これが甲府盆地なのか。取り囲む山の高さは雲に覆われてわからないが、目立った建物もなく小さな人工物で構成されているこの盆地の景色は、これまで都内の展望台から当たり前に見てきた関東平野とは全く異なっていて面白い。わずかなスペースも見逃さずあらゆる地面がみな人工物で埋め尽くされた都内の圧縮感とは違い、ここは場所を選んで建てているような広々とした開放感にも似た雰囲気を感じる。ふと、以前テレビでみた、激安店での野菜詰め放題の様子が頭に浮かんだ。ビニール袋にニンジンをぎゅうぎゅうに詰め込むのが都会なら、ここは買い物かごに数本のニンジンを入れるようなイメージ。
「・・・ん?何故、ニンジン。」
自分の妙な例えに思わずつぶやいた声は、背後の山から途切れることなく聞こえてくる鳥達の会話にかき消された。ここは、よくある環境音楽CDのような鳥達の美しい声が絶え間なく響いている。視覚と聴覚が目新しい刺激の虜となり、時間の経過がわからなくなった頃、ふと子ども達の声が耳に入ってきた。
「あ!むしてんちょうだ!」
「こんにちは。」
むしてん、ちょう?僕は、その言葉を漢字変換できない心地悪さで子ども達の方を見た。そこにはグレーのつなぎを着た男性が子ども達に囲まれていた。
「もういるの?」
子ども達は男性を覗き込んで尋ねる。
「いや、もうちょっとだね。でも本当に、もうちょっと。楽しい季節になりますよ。」
「また教えてね。」
「はい。またぜひやりましょう。」
男性は子ども達に手を振って、こちらへと歩いてきた。僕は慌てて街の方を向いた。
「ここの桜はもう少しですね。」
と、声がした。思わず周囲を見回したが、どうやら僕に声を掛けたようだった。
「あ、ああ。少し早かったようです。」
一瞬、無視しかけたことを取り繕うように、僕はそう応じた。
「この景色、最高ですよね。満開になるのが楽しみです。」
にこやかに笑って、彼は石段を下りて行った。
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