現実03―金曜の夜、彼の家でお泊り?
やっぱり、定時に上がるのは無理でした。
法改正に伴いバージョンアップしたシステムの仕様書にひととおり目を通して、庁舎を出る。自宅に帰らず、まっすぐ単身者向けのアパートへと向かう。
息を弾ませながら外階段を上がって、右端の部屋のチャイムを押した。
「公ちゃん、おつかれさま」
出てきた
「遅くなってごめんね。パン買ってきたよ」
「ありがとう。作り置きのミネストローネがあるから、一緒に食べよう」
「うん」
1LKの室内は慌ただしく片付けられた気配が残っていた。帰ってから今まで掃除をしてくれていたのかもしれない。
ジャケットを脱いだ亜蘭君は、コンロの上の小鍋を掻きまわしている。その間、私は寝室で部屋着に着替えさせてもらう。
リビングのローテーブルに専門店で調達してきたパンを並べていると、湯気が立つスープが二皿運ばれてきた。
「亜蘭君も着替えたほうがいいよ。シャツにスープが飛んだらシミになっちゃう」
「平気だよ」
いただきます、と告げるなりガツガツ食べ始めた。相当お腹が空いていたらしい。待たせてしまって申し訳ない。
私もハードパンをスープに浸して食べる。パンに練り込まれたチーズがトマトのスープと合っていて、とても美味しい。
金曜日に彼氏の部屋にお泊りなんて、甘い響き。
亜蘭君と付き合う前、年齢イコール彼氏いない歴だった私は、どんなに良いものだろうと憧れていた。
でも実態は週末それぞれ予定が入っているから、という切実な理由によるものだったりする。本音をいえば休日にゆっくり過ごしたい。まあ、一晩一緒にいられるだけでも嬉しいけどね。
そういえば、とパンをひとつ食べ終えた亜蘭君が口を開く。
「帰り際、前園に飲みに誘われたんだよね。断ったけど」
「前園? あいつ今日最悪だったんだよ。お客さんを窓口に案内したら、露骨に嫌な顔してさ」
「そりゃあ良くないね。仕事なのに」
「マジで顎だけでなく性根もしゃくれてるわ。ほんと腹立つ」
「前園もさ、色々たまっているみたいだよ。土日も仕事で集団面接に駆り出されるらしい」
「福祉課で?」
福祉課で集団面接。何かあったのだろうか。
まあ、いい。休日返上で働くがいい。前園よ。
私と前園と亜蘭君は、同年に一般事務で新卒採用された。それぞれ、市民課、福祉課、教育委員会事務局に配属されている。
任命式で彼の名が呼び上げられたとき、私は少なからず動揺した。
亜蘭……アランって! だって、私は公子。
道職員の姉は
今の時代かえって珍しい古風な名前揃いの一族で育った私は、カルチャーショックを禁じ得なかった。
周りの反応も私と大差はなかった。都会ならまだしも、人口四万人弱の小さな街である。
彼が入庁してひと月は、〈国枝亜蘭〉を一目見ようと、教育委員会事務局まで足を運ぶ物好きな職員が絶えなかったという。
ハーフかクオーターかと期待していたら純和風な容姿に拍子抜けしつつも、彼は高身長でそこそこイケメンなので、「へえあれがアランかぁ」とそこそこ満足して去っていくらしい。
ちなみに由来は、彼のお父上が作家エドガー・アラン・ポーのファンだから。
亜蘭と公子。字面だけなら不釣り合いな私たちが付き合うことになった経緯は、色々とあったのだけど。
「公ちゃんのメインテーマ、止めたほうがいいかもね」
からかい口調で亜蘭君が聞いてくる。
「案内係しているのときの? なんでよ」
「だって、ミッション、インポッシブル。不可能な仕事でしょ」
「……ドラマと映画は別モノなんだよ」
案内役でも損なことばかりじゃない。
転校手続きのため教育委員会に行くと、運が良ければ亜蘭君に会える。このくらいの私情は挟んでもいいでしょ。
ミネストローネの鍋が空っぽになって、満腹になったらしい亜蘭君はソファにもたれている。
少し気だるげな表情も良い。ちょいちょい、と手招きされたので、彼の横に膝を抱えて座った。
「公ちゃん、夏って忙しいかな。休暇が同じ日に取れたら旅行しようか」
「ほんとう? 嬉しい! あ、でも」
「何か予定が?」
「姉の結婚式があるの。身内だけの小さなパーティーなんだけど」
「お姉さん、道職員だよね。仕事は?」
「相手は警察官の人で、お互い転勤があると大変だから姉が退職するんだ。お父さんは勿体ないって文句たれてるけどね」
姉は家事がまるでダメだから苦労するだろうけど、立派な肝っ玉お母さんになりそうだ。
想像してニヤニヤしていると、亜蘭君は眠たげな眼をぱちくりさせて、
「公ちゃんも退職して結婚したいの?」
と言った。
は? 今なんて?
「だって、さっき仕事の愚痴を言っていたでしょ。で、お姉さんの結婚話。つまりそういうことなんじゃないかって」
「違うよ!」
「自覚していなくても潜在意識で願っているとか」
「……ちがう」
「いま目線が左上にいった。言い訳を考えているサインだ」
僕はそうなってもいいけど、と無邪気に笑う。
亜蘭君はメンタリズムに凝っているらしく、こうしてときどき私を見透かしたような発言をする。
いつもなら笑って許せるけど、今は違った。ざわりと感情が波立つ。
理由はわかっている。
彼の指摘があながち間違っていないからだ。
たしかに私は案内役に嫌気がさしている。結婚退職する姉をどこかで羨ましく感じていた。
だからって、それを面と向かって指摘されたくなかったのに……。
「公ちゃん、どうしたの? 体調悪い?」
「……帰る」
「えっ」
心配そうにのぞき込んでくる彼から顔をそむけて立ち上がる。
「もしかして、さっきの? 失礼だったよね、僕。勝手にサインを読み取って。ごめんなさい」
ほら、亜蘭君が謝ってくれているんだから。戻りなさい、公子。
怒って帰るほどのことじゃない。わかっている。でも、ダメだった。
「私と亜蘭君は同期なんだよ。辛いなら辞めてもいいって……それは私を下に見てるってことじゃん」
「そんなつもりじゃ! いや、そう感じたなら謝るよ」
泊まりグッズが入ったトートバッグを肩にかけて、トレンチコートを羽織る。コートの裾から、部屋着のスウェットズボンがのぞいているけどかまわない。
あたふたし始めた亜蘭君のシャツには、よく見ると、赤いシミが付いていた。ミネストローネが飛んでついた染み。ほら、言わんこっちゃない。
「公ちゃん、お願いだ。落ち着いて話そう」
「ごめん。今日は帰るよ」
後から思い返しても、どうしてここまでヒートアップしてしまったのか不思議である。
『たらい回し』といわれたことが
今日、このタイミングだったから、としかいいようがない。
アパートを出て、行けるところまで全力ダッシュする。
近道をするため公園を横切っていると、パンプスのつま先が何かを踏んだ。
「痛っ!」
街灯の下で拾ってみると、
中央にエメラルドグリーンの石がはめ込まれている。十字の横棒が羽になったデザインで、天使みたいなシルエットが洒落ている。
「誰かの落とし物かな」
持ち主が探しに戻ってくるかもしれないので、ベンチの上に置いておく。ほんとうは交番に届けるのがベストだけど、そこまでの心の余裕はなかった。
不親切でごめんなさい。持ち主さんの手元に無事戻りますように。
今日は泊まりじゃなかったのか、と詮索してくる両親をやり過ごし、自分の部屋に直行する。
トレンチコートを脱いで、そのまま布団にもぐりこんだ。
携帯電話の着信はなし。安心したような、寂しいような、複雑な気分になる。
「ばか……」
誰に向けるでもなくつぶやいた。
二十代半ばを過ぎたというのに、自身の感情さえ満足にコントロールできない。そんな現状が
明日になったら、全部夢でした、で済めばいいのに――――
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