現実02―マリアのランチ会

 けれども、ショックで抜け殻になっている暇は無い。

 案内以外にやるべき仕事は山のようにある。昼休みを返上して、住民基本台帳システムに向かっていると、


「あぁ、庁議ちょうぎやっと終わった。疲れた~。キミちゃん、ランチ行こうか」


 毛穴からやる気が抜け出ていくような、の~んびりとした声をかけられた。

 市民課長、真利亜まりあ華子はなこさんである。朝一番に始まった会議が長引いたらしく、今まで姿を見かけなかった。

 女学校の校長、はたまた童話に出てくるプリンセスが年を重ねたようなーー優美な雰囲気の彼女は、私をよくランチに誘ってくれる。

 いつもならありがたくお誘いを受けるのだが、今日はどうしても定時で上がりたかった。申し訳ないオーラを全身にまとって、祈りを捧げるように手を組む。


「ありがとうございますぅ。お供したいんですけどぉ、いま手が離せなくて。今度ご一緒させてくださ~い」

「やぁん。じゃ、あたしが代わりに残業してあげるぅ」


 初老女にぶりっこ返しをされた。

 ノーといえる勇気を持て、とは優柔不断な日本人を叱咤する前世紀からの格言だ。私もノーと言える日本人でありたい。

 が、上司に仕事を押し付けてまで断る勇気はなかった。とりあえず、ぶりっ子で対抗するのはもう止しておこう。


 五月の半ば。北海道は遅咲きの桜が散った時分。

 ピンク色の花びらが路面に張りつき濡れそぼっているのを横目に、マリア課長と並んで歩く。

 庁舎のはす向かいに、『Mr.キャサリン』という店名だけ聞いたら場末のスナックかゲイバーと間違えそうな喫茶店がある。

 味は家庭料理の域を出ないが、五百円の格安ランチと、マスターがこだわって淹れるブレンドコーヒーが人気だ。

 今日のランチメニューはミックスフライ定食。よし。私は小さくガッツポーズする。フライは誰が揚げても美味い。

 注文を取りにきたマスターに失礼なことを考えつつ、「デザートも付けようか。私はカップケーキ。公ちゃんは?」と課長が勧めてくれたので、メニュー表を手に取った。


「本日のおススメは、ほろ苦チョコのガトーショコラよん」


 このマスター、課長と同年代と思われるが、口調もオカマっぽいから色々と紛らわしい。

 赤エプロンの下は、年がら年中半袖シャツ。夏はいいけど冬は寒くないのか。


「じゃあ、ガトーショコラで」

「良いわねえ。甘いのが好きだけどほろ苦いのも捨てがたい。ちょびっと味見させてね」

「マリアさん、糖尿は平気なの? 人間ドックで引っかかったんでしょ」

「いいの! 病院で勧められたメニューを毎日食べるくらいなら、あたし早死にした方がマシだから!」

「贅沢舌だからねえ、貴女は」

「マスターには負けるわよぉ」


 長年組んだコンビのようなやり取り。でも、会話の内容が切ないな。

 苗字のインパクトゆえ下の名前で呼ばれたことがないという課長は、年配議員から「マリアちゃん」と呼ばれて親しまれている。

 見た目だけでなく仕草も気品あふれる彼女は、ブレンドコーヒーを美味しそうに啜った。


「で、最近どうなの。公ちゃん?」


 さりげなく尋ねられる。午前中の失敗を思い出し、私のテンションは急降下した。


「転入のお客さんを案内していたら、たらい回し、って言われました」

「あらま」

「でも、本当にそうだなって。私が付いていても、結局たらい回していることに変わりはないんですよね。なんだか虚しくなりました」

「わかるわぁそれ」


 マリア課長は大きく頷いた。勤続三十年のベテランで、役所の窓口業務を知り尽くしている。

 私などは見ていて危なっかしいのだろう、市民課に配属された当初から気遣ってくれている。

 丸メガネの奥の優しいまなざしで、新人職員のグチともいえぬような話を聞いてくれる。彼女がいなければ私はとっくに仕事を辞めていたかもしれない。

 口のなかのエビフライを飲み下してから、ぐっと身を乗り出す。


「ちょっと調べてみたんですけど。政令指定都市なんかの大きな街では、お客さんが窓口を回らなくて済むよう、一か所で必要な手続きができるシステムがあるそうです」

「〈総合窓口〉ね」

「うちにも導入できませんか……?」


 市民サービス向上のため設置されたという案内役は、親切な印象は与えられるかもしれない。しかし、どこか効率的じゃない。今の状況じゃ自己満足に成り下がっている気さえする。

 マリア課長は、空になったミックスフライの皿(この人は見かけによらず早食い)を脇に避けて、カップケーキの周りについた紙を剥がしながら、


「実現には、まず、スペースの確保が必要だね」

「はい」

「システムの整備と、関わる予算の確保も必要」

「ああ」

「新しいマニュアル作りと職員研修も」

「……ですよねぇ」

「あたしも前々から部長に掛け合ってはいるんだけど。状況はかんばしくなくてね」


 私ごときが考えつくようなことは、とっくに検討されていたらしい。

 予算を確保するには、財政課の承認を得て、予算案が議会で可決されなければならない。幾重にもわたる関門をクリアしなけれなばならないのだ。

 フォークひとつでケーキを綺麗に平らげてしまった課長は、コーヒーのお代わりを頼んでいる。


「すみません、浅はかなことを。私、やっぱりこの仕事に向いてないと思うんです。すぐにテンパるし……」


 ガトーショコラをフォークでぼろぼろ崩しながら、私はそこで口ごもる。


「役所の手順……融通が利かないシステムがわずらわしいって感じてしまうんです」


 こんな私にも夢はあった。

 寂れてきた商店街を大通りに移設して、大規模なマルシェにしたい、とか。地元をもっと住みよい街にしたくて、採用試験の面接で意気揚々と構想を語った。

 が、職員になって突き付けられるのは冷酷な現実だ。新しい事業を実現するには莫大な時間と労力がかかる。もちろん、お金も。


「向き不向きなんて、あって無いようなものよ」


 マリア課長は褐色の液体にミルクを注いでいる。失敗したら世界が滅亡する、くらいの慎重な手つきで。


「まずは、与えられた場所でベストを尽くすべきじゃない? それにね、歯車は回し初めが一番重いんだよ」

「…………」

「なぁんてね!」


 片目をつむって、人さし指を頬に当てる初老女。

 怖い! 何が怖いって、ぶりっ子ポーズをなんの違和感もなくこなしてしまうことだ。マリアの名がなせる奇跡だろうか。


「辞めるなんて寂しいこといわないでよ、公ちゃん。あなたには見込みがあるんだから」

「それ、何度も言ってくれますけど、見込みってなんですか一体」

「んー。公ちゃんを眺めていると、いにしえに忘れかけていたパトスがほとばしるのよ。何か大きなことを為す予感がするっていうか」

「パトス!」


 カウンター奥のマスターが急に叫んだので、私は驚いて身をすくませた。


「うっ……意味がわかりません」

「大丈夫。私の勘は当たるんだから」


 結局なんだかんだで丸め込まれてしまうのだ。

 午後の始業時間ぎりぎりまでMr.キャサリンに居座った私は、口の端にチョコをつけたまま席に戻り、前田さんに笑われるハメになった。

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