現実01―公子、たらい回しする
今から少し昔。平成真っただ中の話である。
もしかして、わたし、向いてない……?
地元の
午前八時半。
総合庁舎の自動ドアを入ると、正面に、案内板と市のゆるキャラ〈風船鶏のふわり君〉の着ぐるみが展示してある。
あらためて見ても下手な配置だと思う。初めて訪れる人は、案内板をスルーして、着ぐるみに釘付けになってしまう。そこへ、
「おはようございます」
右のカウンターから挨拶するのは着ぐるみ……じゃなくて、接客の最前線、市民課市民係の案内役。私だ。
ふわり君に気を取られていた作業服姿の男性は、ああ、という感じでこちらに寄ってきた。
「〇〇市から引っ越してきたんですが」
「転入ですね、こちらへどうぞ」
転入だ。
私の体内でアドレナリンが大量に分泌されていく。
市役所にとって転入者はいわば新規のお客様。毎日大人数が転入転出する大都市を別として、貴重な存在である。
転入の場合、まずは市民課で住民登録を行う。これは私の担当なので、そのまま窓口へご案内。
作業服の男性、
「乳幼児医療と児童手当の手続きが必要になるって、前にいた市で言われたんだけど」
と、市民係での手続きを終えて金山さん。
私はにこやかにA4用紙を差し出す。そこには『転入してきた方へ』とタイトルがあり、手続きが必要な制度と担当課がずらりと並べられている。隅には空を漂う、ふわり君のイラストに『お早めにネ!』とおせっかいなセリフ付き。
席を立つと、市民係のデスクにいた女性職員が代わりにカウンター席に座る。彼女、結婚して園児の娘さんがいる
すべてのお客様に付いて回るわけではないけど、転入の場合、手続きが多課に渡るため案内役が付くことになっている。
前田さんが、いってらっしゃい、という風に目配せしてきた。
いってきます――!
頭の中で壮大なメロディが流れ出す。有名なスパイドラマのテーマ曲だ。爆弾の導火線が着火したイメージを浮かべる。
さて、ここからはスピード勝負。
今回のお客さんのペン運びはなかなかだし、上手くいけば三十分以内に戻ってこられるかもしれない。
難しい顔でプリント用紙と睨めっこを始めた金山さんをまず、同じ並びにある窓口へ案内する。わが市では中学生以下の子どもがいる場合、乳幼児医療助成制度の該当になる。
臨時職員の女性が窓口にいる医療助成係をクリアし、次は向かいにある福祉係へ。
「転入のお客様です。児童手当の手続き、お願いしまーす!」
自慢の美声を張り上げると、窓口に近い席の若い男がこちらを向き、微妙に顔をしかめた。むふぅと溜息をひとつ吐き、重い腰を上げる。
その態度はなんだ、
デスクワークだけでなく、窓口業務も大切な仕事だろうが。つれない態度をとる意地悪な職員は他にもいるが、研修で辛苦を共にした同期だからこそ腹が立つ。そのしゃくれた顎ひねり砕いてやろうか。
「……はい。児童手当の振込先口座を指定していただきたいんですけど。通帳番号ってお持ちですか」
前園の問いに、財布を探る金山さん。キャッシュカードの類がないか探しているのだろう。
「や。家に置いてきました」
「じゃあ、後日で良いのでこちらの窓口に提示してください」
「えっと、仕事が終わってからでいいですか」
「お仕事は何時頃に終わります?」
「六時だけど」
「あー庁舎は五時半に閉まるんで。年休を取ってきていただくか、もしくは昼休みにお願いします」
金山さんは男らしい太眉をひそめて、はあ、と浮かない返事。
今この時間だって仕事を抜けて来てくれているのに……。
なんだか申し訳なくなる。うちの役所は土日もやっていないしね。前園も少しは申し訳なさそうにしろよ。言い方や態度ひとつでトラブルになり得るんだぞ。ただでさえ市職員に対する市民の目は厳しいんだからさ。
前園の
息子さんの転校手続きのため、教育委員会へ案内している途中、
「あの、下の子を市立保育園に入れたいんだけど。その手続きはどこですればいいんですか」
え、娘さん、保育園?
完全に盲点だった。ふわり市の幼児の大半がそうしているように、英会話教育を売りにした私立幼稚園か、病児保育が評判の認可保育所に入るとばかり思い込んでいた。
もしくは、奥さんが別行動で手続きするとばかり。
「妻は今、妊婦なもんで。引っ越し疲れで、熱を出した子供と一緒に寝込んでいるんです」
「ああ、そうだったんですね……」
「園の手続きも役所で済ませられます?」
「いえ、保育園は児童課の
「ふうん。やっぱ直接行かなきゃダメですよねぇ」
「はい……すみません」
しょんぼりしたまま先導して、階段を上がる。気まずい沈黙が続く。
ていうか、どうして教育委員会事務局は三階なのよ。無駄に疲れるじゃん。
そして、奥さま妊婦さんでしたか。妊娠している方は、健康推進課で妊婦検診に関する手続きも必要です……と進言する余裕はなかった。
金山さんの表情はいまや嘲笑めいたものに変わっていた。
役所に訪れたスタートを「晴れ」としたら、前園のせいで「曇り」、現在は「雨」のち「雷」へと変貌しつつあった。金山さんは平静を装いつつも、氷のように冷たい声で独り言ちる。
私はそれを聞いてしまった。
「役所って、たらい回しするよなぁ」
がーん……。
爆弾はあっけなく爆発して、私の心は粉々にくだけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます