現実01―公子、たらい回しする

 今から少し昔。平成真っただ中の話である。


 もしかして、わたし、向いてない……?

 地元の府和梨ふわり市に戻って、市職員になって三年目。入庁して半年で抱いた疑惑は、確信に変わっていた。


 午前八時半。

 総合庁舎の自動ドアを入ると、正面に、案内板と市のゆるキャラ〈風船鶏のふわり君〉の着ぐるみが展示してある。

 あらためて見ても下手な配置だと思う。初めて訪れる人は、案内板をスルーして、着ぐるみに釘付けになってしまう。そこへ、


「おはようございます」

 

 右のカウンターから挨拶するのは着ぐるみ……じゃなくて、接客の最前線、市民課市民係の案内役。私だ。

 ふわり君に気を取られていた作業服姿の男性は、ああ、という感じでこちらに寄ってきた。


「〇〇市から引っ越してきたんですが」

「転入ですね、こちらへどうぞ」


 転入だ。

 私の体内でアドレナリンが大量に分泌されていく。

 市役所にとって転入者はいわば新規のお客様。毎日大人数が転入転出する大都市を別として、貴重な存在である。

 転入の場合、まずは市民課で住民登録を行う。これは私の担当なので、そのまま窓口へご案内。

 作業服の男性、金山かなやまさん35歳は、素早いペン運びで書類の項目を埋めていく。家族構成は、奥様と、8歳の息子さんに5歳の娘さん、と。これはフルコース、、、、、の予感。


「乳幼児医療と児童手当の手続きが必要になるって、前にいた市で言われたんだけど」


 と、市民係での手続きを終えて金山さん。

 私はにこやかにA4用紙を差し出す。そこには『転入してきた方へ』とタイトルがあり、手続きが必要な制度と担当課がずらりと並べられている。隅には空を漂う、ふわり君のイラストに『お早めにネ!』とおせっかいなセリフ付き。


 数多あまたある続きをいかに効率的に済ませるか。案内するのが、私の役目だ。


 席を立つと、市民係のデスクにいた女性職員が代わりにカウンター席に座る。彼女、結婚して園児の娘さんがいる前田まえださんもかつては案内役筆頭ひっとうだったらしい。

 すべてのお客様に付いて回るわけではないけど、転入の場合、手続きが多課に渡るため案内役が付くことになっている。

 前田さんが、いってらっしゃい、という風に目配せしてきた。


 いってきます――!


 頭の中で壮大なメロディが流れ出す。有名なスパイドラマのテーマ曲だ。爆弾の導火線が着火したイメージを浮かべる。

 さて、ここからはスピード勝負。

 今回のお客さんのペン運びはなかなかだし、上手くいけば三十分以内に戻ってこられるかもしれない。

 難しい顔でプリント用紙と睨めっこを始めた金山さんをまず、同じ並びにある窓口へ案内する。わが市では中学生以下の子どもがいる場合、乳幼児医療助成制度の該当になる。

 臨時職員の女性が窓口にいる医療助成係をクリアし、次は向かいにある福祉係へ。


「転入のお客様です。児童手当の手続き、お願いしまーす!」


 自慢の美声を張り上げると、窓口に近い席の若い男がこちらを向き、微妙に顔をしかめた。むふぅと溜息をひとつ吐き、重い腰を上げる。

 その態度はなんだ、前園まえぞの

 デスクワークだけでなく、窓口業務も大切な仕事だろうが。つれない態度をとる意地悪な職員は他にもいるが、研修で辛苦を共にした同期だからこそ腹が立つ。そのしゃくれた顎ひねり砕いてやろうか。


「……はい。児童手当の振込先口座を指定していただきたいんですけど。通帳番号ってお持ちですか」


 前園の問いに、財布を探る金山さん。キャッシュカードの類がないか探しているのだろう。


「や。家に置いてきました」

「じゃあ、後日で良いのでこちらの窓口に提示してください」

「えっと、仕事が終わってからでいいですか」

「お仕事は何時頃に終わります?」

「六時だけど」

「あー庁舎は五時半に閉まるんで。年休を取ってきていただくか、もしくは昼休みにお願いします」


 金山さんは男らしい太眉をひそめて、はあ、と浮かない返事。

 今この時間だって仕事を抜けて来てくれているのに……。

 なんだか申し訳なくなる。うちの役所は土日もやっていないしね。前園も少しは申し訳なさそうにしろよ。言い方や態度ひとつでトラブルになり得るんだぞ。ただでさえ市職員に対する市民の目は厳しいんだからさ。

 前園の不遜ふそんな態度のせいで、金山さんは明らかに苛立ちはじめていた。導火線を進む火の速度がぐっと増した感じだ。

 息子さんの転校手続きのため、教育委員会へ案内している途中、


「あの、下の子を市立保育園に入れたいんだけど。その手続きはどこですればいいんですか」


 え、娘さん、保育園?

 完全に盲点だった。ふわり市の幼児の大半がそうしているように、英会話教育を売りにした私立幼稚園か、病児保育が評判の認可保育所に入るとばかり思い込んでいた。

 もしくは、奥さんが別行動で手続きするとばかり。


「妻は今、妊婦なもんで。引っ越し疲れで、熱を出した子供と一緒に寝込んでいるんです」

「ああ、そうだったんですね……」

「園の手続きも役所で済ませられます?」

「いえ、保育園は児童課の管轄かんかつでして。ここから1キロほど離れた場所にある園内の事務所で手続きしていただくことになります」

「ふうん。やっぱ直接行かなきゃダメですよねぇ」

「はい……すみません」


 しょんぼりしたまま先導して、階段を上がる。気まずい沈黙が続く。

 ていうか、どうして教育委員会事務局は三階なのよ。無駄に疲れるじゃん。

 そして、奥さま妊婦さんでしたか。妊娠している方は、健康推進課で妊婦検診に関する手続きも必要です……と進言する余裕はなかった。

 金山さんの表情はいまや嘲笑めいたものに変わっていた。

 役所に訪れたスタートを「晴れ」としたら、前園のせいで「曇り」、現在は「雨」のち「雷」へと変貌しつつあった。金山さんは平静を装いつつも、氷のように冷たい声で独り言ちる。

 私はそれを聞いてしまった。


「役所って、たらい回しするよなぁ」


 がーん……。

 爆弾はあっけなく爆発して、私の心は粉々にくだけた。

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