しばしのわかれ

元風ススム

しばしのわかれ

 僕には愛する人がいる。愛を返してくれる恋人がいる。付き合いも長く、よく分かり合ってもいる。けれど、ちょっとしたことが受け入れてもらえなかった時に、少しだけ立ち止まってしまうこともある。

「あぁ、浮気だそりゃ間違いなく」

 直属の上司のその言葉は、川に浮く枯れ葉の様な心境の僕に見事なまでに突き刺さった。

「……い、いやいや課長。僕らもう七年になりますし」

「年数は関係ないだろうが。むしろそれだけ付き合ってるのに結婚してないんだろ。そっちのが問題じゃないか」

 人気の個室バルの向かい席に座る松雪課長の顔は、苗字に反して赤い。

しかしその表情は真剣そのもの。決して茶化そうとして言っている訳ではないということが分かる。

 それにしても、そこを突かれると何とも痛い。

「結婚は……したい気持ちはずっとあるんですけど、何て言うか、タイミングがなくて」

「んなもん自分から作らないとダメだろうが」

 至極もっともである。僕はわざとらしく話を逸らすことにした。

「ま、まあ結婚はさておき。ご近所さんからはホントの夫婦に間違われたりもしますし、最近はめっきり喧嘩しなくなったんですよ。浮気だなんて、栞梨に限ってそんなことは」

「いやいやいやいや佐野上。その油断がな? 縁が深まったと思える間柄の破綻をな? 招くんだぞ? 結婚してないってのは大きなディスアドバンテージだぞ? 俺の経験だとングォフッ」

 今にも面倒な説教を垂れ長そうとする彼の動作は、隣の女性による肘鉄で遮られた。

「ンググ……津野さん、痛い」

「何もしてませんけど?」

 澄ました顔でワイングラスに口をつける他部署のお局——津野主任は、横で悶絶する課長とその昔付き合っていたとかいないとか。こうして今そんなじゃれ合いができるのだから、後腐れ無く別れる事ができたのだろう、恐らく。

 普段であればなるべく避けたい目上二人との飲み会は、先日フォローしてもらったミスの穴埋めをちらつかされて確定したものだ。

 ただ、こうして人生相談に乗ってもらえることもある。緊張や面倒くささに目を瞑ればそう悪いものでもないかもしれない。下戸の自分の割には進んでいる、一杯目のグラスを見ながらそう思った。

「しかしねぇ……酒豪の恋人が記念日ワインに口をつけない、というのは……」

 課長が白髪交じりの短髪を撫でながら嘆息する。

 そう、それが酔いの回った僕が吐露した目下の難題。

 付き合って七年、同棲し始めて一年になる、二十八歳で僕とタメの、チャーミングな最愛の恋人、花江栞梨。

 彼女は大の酒好きで、ワインを中心としたアルコールに目がなく、何か楽しい行事がある日には酒が無いとへそを曲げてしまうような女性だ。

 にも関わらず、昨日僕が用意した栞梨への贈り物のシャトー・シャロンは、開けられることなく次の日を迎えた。

 何かやらかしてしまったとしか思えない。でも、それが何かが一切分からない。

 胃の奥底にじくじくした気持ち悪さを抱えたまま業務を終えた僕にとって、もともと予定されていたこの金曜日の飲み会は、現実逃避をするにはちょうどいい機会となった。

「で、何だ。オマエはきちんと追求せずにのこのこ出社しちまったのか」

「はい……今朝も早かったですし、仕方なく。でも、始めてなんですよ、こんなこと……」

 僕は嘆き、ビールを煽った。口に入った液体は大さじ一杯程度。口内に言いようの無い苦みが広がり、無意識に眉が力んでしまう。やめろやめろとせき止めようとする喉を気合いで押し広げ、食道に流し込んだ。胃までの内蔵が火事になるのを感じつつ、重さの変わらないグラスをテーブルに置く。

「というか佐野上くん……大丈夫? 顔、リンゴみたいよ?」

「だ、大丈夫です。何とか。意識ははっきりしてますんで」

「そうは言っても説得力があまりね……。こないだの飲み会の時、酔っぱらって帰って彼女さんに迷惑かけたって言ってなかった?」

「う。ま、まぁ……でも、今日は問題ないです……ちょっと眠いぐらいです、はい」

 主任が言ったのは二ヶ月ほど前の話。泥酔して前後不覚だった僕は帰宅してすぐ酔いの勢いで栞梨を襲った、という感じ。アルコールのせいで記憶は混濁。目覚めた朝は二日酔いで頭に鈍痛。彼女からは「ムードも何も無いクソセックスだった」と追い打ちをかけられた次第だ。自業自得だけど。

「ふーん。……ま、いいか。でさ、七年てことは、学生のころからでしょ? どんな出会いだったのよ」

「ああ、確かに気になる。オマエが嫌じゃなきゃ話せる範囲で教えてくれ。そこから原因や対策が仮定できるかもわからんしな」

 津野主任は興味津々、という感じに聞いてくる。課長も、不機嫌そうに眉を寄せながら「助言したろう」という空気を醸し出してきた。主任は好奇心明らかに、課長は僕のことを助けようとしてくれているがは分かる。

 こんなことを話すのは恥ずかしくはあるが、ムリに隠すことでもない、かな。

「ええとですね、それは……」

 僕は小さじ一杯ほどのビールを飲み下し、キャンパスの緩い空気のことを思い出しながらゆっくり言葉を紡いだ。


   *  *  *


 花江栞梨は、僕の所属していたサークルのマドンナだった。実年齢よりも年上に見られやすく、成人するよりも前にはもう妖艶な雰囲気を身にまとっていた。長い黒髪は絹のように美しく、ふとした時の指先の動きに魅惚れる者も多かった。

 その一方で中身は年相応で、しゃべり始めた時の明るさと、笑顔のあどけなさは随一。そこに軽快なトークスキルとちょっとしたスキンシップが混ざれば、同じサークルの男子たちがあっさり落ちるのもムリはない。僕も例に漏れず、一ヶ月もしないうちにしおり梨に魅了されてしまう。

 僕にとって彼女は煌めきだった。声も仕草も、それまでにみたどんな異性よりも魅力的だったのだ。これといったきっかけもなく、栞梨の雰囲気に惹かれていた。

 しかし、メンバーな二十人ほどサークルで女子の比率が低いともなれば、自然と競争率も高くなる。活動中たまに会話をするぐらいの平凡な一般男性であるところの僕にとっては、高嶺の花もいいところだった。

 だからこそ、

「うわぁ……マジで昨夜のこと覚えてないの。佐野上くん、ホントのホントに酒弱いんだね」

 という、初めて体を重ねた翌朝に向けられた言葉と視線の虚無さ加減は忘れられない。

 そう、高嶺の花のはずだった。

 転機は、たまたま二人でショッピングに出かけた日。今にして思えば、たまたまではなく仕込みだったのかもしれない。一緒に行くはずだった男女数名が急用だとかでドタキャンしたのだ。

 その日、栞梨は特徴的な長髪をバッサリ切って現れた。それは、彼女の決意の表れだった。

 それはもう驚いたが、舞い上がる当時の僕にそんな深読みはできる訳もなく。べた褒めにべた褒めを重ねたあとは、ただただ純粋に栞梨との時間を楽しんだ。

 サークルのちょっとした買い出しを済ませ、クレープ屋でたらふくスイーツを食べ、ゲーセンに少しだけ寄り、その後は目的もなくショップを巡ったりして。

 日も落ちたころ、彼女の提案で良い雰囲気のバーに入った。栞梨がお酒の愛好家で酒豪であることはサークルの飲み会で周知の事実だ。彼女は自分のペースで様々なカクテルを開けていく。

 二十代もまだ二年目だった僕は、よせばいいのにそれに張り合った。カクテルは一杯目で断念し二杯目からは柑橘系のサワーに切り替えていく。が、当時は気付いていなかったが僕は呑めない側の人間だ。三杯目から口に含むのも辛くなってきて、四杯目には目がかゆくてたまらなくなり、それを飲み干す前には瞼が五倍の重さになっていた。

 グラスワインで形が歪んだ栞梨のリップを見て、色っぽいな、と思ったのがその晩の最後の記憶。目が覚めた時にはいわゆる朝チュンだった訳である。

 毛布で胸を隠す栞梨に、やっちゃった? と恐る恐る聞くと、「ちゃった、なんて言わないでよ。ヤった! やったぁ! でいいじゃん」とにべもなく返される。心拍数が上がっていく僕に対し、不敵な笑みを浮かべる彼女はまさに無敵と言ってよかった。

 混乱する僕は、二重の原因からなる頭痛に耐えながらいろいろとまくしたてた。僕は栞梨に憧れていたということと、これをきっかけとして付き合ってもいいのか、ということを聞いたと思う。

 すると彼女はため息をついて、指でサイドの髪をときながら言った。

「んー……これ、さ。ほら、新歓コンパの時にさ。佐野上君が言ったこと、覚えてる?」

 春先だ。記憶をたどっていく。そう、確か、その日はビール一杯だけにしておいて、いい感じにほろ酔いだった。席を移るうちにたまたま栞梨の隣になって、何となく会話が盛り上がった時。確かに僕は、話の中で栞梨の髪について触れた。単純な好みをぶつけだ様なものでぶしつけだったかもと後悔したが、訂正することもできなかった言葉。

 短い方が、似合うかも。

「そ。キミのためだよ」

 どれだけ呑んでも変わらなかった栞梨の肌の色がリンゴの様に赤くなったのを見て、全身が沸騰したかのように熱くなった。僕は、絶対に責任を取ろうと心に決めた。

 後から聞いた話では、「草食系っていうか癒し系を求めてた」時期だったらしい。それだけ聞くと喜んでいいのかどうか分からなくなるが、どうも人と恋愛するのに疲れていた様だ。

 自分から好んだ男子はナルシストで自分勝手、言い寄る男と付き合ってみれば外観と雰囲気しか見ておらず自分のことを理解しようともしてくれない。大学に入るよりも前から男をとっかえひっかえして、場数ばかり踏んでしまっていた、と振り返ってはよく嘆いている。

 当時の僕は、そんなさなかの栞梨のチャームポイントを否定した。いや、厳密に言えば否定したつもりはなかったのだが。自慢の長髪が僕に刺さらなかったことで、彼女にはそう映った。 

 そのことが新鮮で、僕に興味を持ってくれたのだそうだ。

 もちろん僕だって栞梨の外側を見て憧れた一人だ。動機としては他の男子と変わるところなど無い。しかし、元来草食系にカテゴライズされる人間である僕はたまたま彼女の目に止まり、運良く気に入ってもらえて、親密になることができたのだ。

 豪運と言って差し支えない。彼女に言わせると「あの席で隣になったのも嬉しい偶然だしね〜。まぁでも、運命って言っておきなよそこは」とのこと。栞梨にとっても僕との出会いは幸運だったらしい。喜びが溢れるとはこういうことを言うのだろうと思う。ホント。

 ちょっとした衝突はありつつも関係を維持し、気がつけば大学を卒業していた。お互い何とか就職もでき、数年を経て、僕らは仲睦まじい……というのは大げさだが、関係の安定したカップルとなれた。

 長続きしたのは、彼女の気だての良い性格のおかげだろう。不満が溜まって爆発してしまわないよう、すぐに言い合ってガス抜きを行うようにしたのは栞梨の案だ。喧嘩する回数をグンと減らせたのは、僕らの関係が安定するのに大いに役立った。

 基本的には栞梨の方が気遣い能力が高い。僕も年を重ねるにつれ彼女に気を回して感謝されることは増えたが、二人の幸福のために何かしようとしてもだいたい彼女に先回りされてしまう。

 同棲を提案したのも栞梨だった。友人の不動産屋から得たというオススメ物件情報を嬉々として話す栞梨に敵う気はしなかった。何せ、本当に楽しそうに喋るのだ。

 女々しいが、一緒に暮らそうという提案は自分の方からしたかった。正直な気持ちを吐露すると、栞梨は朗らかに笑った。ジブリのアニメに出てくる活発な女の子が大笑いすると丁度同じぐらいのテンションになると思う。

 そして、こういうのに男も女も無いでしょ、と言われてしまえばグゥの音も出ない。

 実際、内見した物件はどれも僕の好みに合うものだった。栞梨は僕の性格も加味した上で候補を決めたのだという。僕はすぐさま、白旗を挙げた。

 しかし僕も男だ。やられっぱなしでは悔しい。僕はトライアンドエラーを繰り返しながら、栞梨が喜んでくれる方法を日頃から模索している。

 思いのほか評価が高いのが記念日に酒をプレゼントすることだ。

 もともと栞梨は自分で買う酒は自分で決めたい、という人間だ。付き合い始めのころは、僕が彼女に飲んでもらうための酒をコンビニで買ってきては「コレは好みじゃない!」といってよく怒られたものだ。ちなみに、今でもキリンとヱビスの味の違いは分からない。

 僕は酒は詳しくないが、酒を飲む彼女をみるのが好きだ。そんな安易な動機から、付き合い始めて四年目の日に彼女が普段飲まない酒を贈った。近場ではなく、デパ地下の酒売場担当と相談して選んだ限定もののウィスキー。恐る恐る渡すと、栞梨は苦笑いしながらも受け取ってくれた。

「そんな顔しないでよ。健くんがちゃんとした気持ちで選んでくれたんだもん。いただくよ。見られても恥ずかしくないように、麗しく飲まなきゃね」

 おどける栞梨の頬は、確かにほんのり紅に染まっていた。照れてるのか聞いたら頬をつねられたが。

 これだけいじらしい喜びを見せてもらっては、定番化して当然というものだろう。僕は次の年も、その次の年も酒の種類を変えて栞梨にプレゼントした。そのたびにとても喜んでもらえたし、それに合わせておつまみも奮発すれば、毎日の晩酌もとても幸せそうに楽しんでくれる。

 だから七年目の記念日となる昨日も、年に一度の特別な笑顔が見られるのだと確信しても仕方がないと思う。

 しかし、仕事が終わって僕と一緒に帰ってきたワインを見た栞梨は、一瞬顔を輝かせたが、その後、怖いものでも見たかのように視線が下がっていった。

「ああー……そうだったね! そうだったうんうん! とりあえず今はいいから、しまっといて!」

 リビングで座る、何故か床をじっと見つめながら話している。明らかにワインから目を逸らそうとしていた。テンションが上がるものと思っていたので僕は面食らい、あとで飲むのかを聞く。

「んー……いい。ごめんね、気分じゃないんだ。あ、うん、ちょっと体調がね。頭痛がするというか……いや、そんなに重くはないんだけど。あはは」

 どこか寂しげに語る栞梨。何かを誤魔化しているとか思えない物言いに、僕は何も言えなかった。圧倒されたとかではなく、藪をつついて蛇を出したくなかった。出せない不満なんて、僕らの間にあるはずがない……なんて自分勝手なことを考えてしまったのもある。

 昨日の夜の時点では話せないような事情があったのだろう。考えがまとまっていないのか、その悩みが話せる段階ではないのか、はたまた黙ったまま終わらせたいのか、分からないが。そう、自分に言い聞かせた。

 僕は、彼女が真相を話してくれるのを待つことに決めた。ミニワインセラーに閉じこめられたシャトー・シャロンの気持ちを考えないようにしながら。


   *  *  *


「とはいえー! とはいえー! もう気が気じゃないんですよー! なんで栞梨は僕に話してくれないんですかー! おかしいじゃないですかー!

「全然待ててないじゃねーか!!」 

 スパーン、とどこからか取り出したクリアファイルで僕をひっぱたく松雪課長。おかげでドロドロだった思考が覚醒する。テーブルを挟んだ目の前には苦虫を潰したような顔をした彼と、デザートをSNS映えしそうな感じにスマホで撮影する津野主任がいた。

「あ……ええと、スミマセン。僕、どこからどこまで話しましたかね……」

「まさか出会いから今までの話を全部されるなんてーって感じよ。このまま結婚式でゴールインみたいな話になったらどうしようかと思った」

「長すぎるわ! やっぱ佐野上にプレゼンはさせられない……もっと! 

短く! 簡潔に!」

「も、申し訳ありません……」

 首の後ろに手を当てながら、何度も頭を下げる。うぅ、ほろ酔い程度のつもりではあるが、頭を振ると頭痛が。やっぱりだめな感じかもしれない。

「まぁまぁ、愚痴れて良かったってことにしてあげなさいよ」

 手をひらひらと振る津野主任は「他人の色恋沙汰を聞くのって楽しいから私はぜんぜんオッケ〜」という顔を隠そうともしない。いや、今のは僕の脳内表現でもなく実際に聞こえたぞ確かに。このお局め。

 ちょうどその時、店員さんがラストオーダーを聞きにやってきた。僕はウーロン茶、あとの二人は梅酒ロックを注文。払います奢りだそういう訳には奢らせろちょっとだけでも恥かかせる気かいやいや千円だけでも云々のやりとりを経て、松雪課長は腕を組んで唸った。

「んんん……しかし聞いてみてもよく分からないな。佐野上の言う通り、何もなければそのまま受け取ってくれそうなもんだけどな」

「で、ですよねぇ……」

「津野さんはどうよ。理由、分かる?」

 一息ついて温かいお茶を飲んでいた主任は、課長に急に振られて一瞬固まった。

「……お、何か気付いたか」

「気付いたというか……んー……」

「何だよ煮え切らないな。分かったんなら教えてくれよ」

「さ、差し支えなければお願いします……」

 僕が情けない声で懇願すると、主任は目を閉じて天井を仰いだ。

「あー……やめとくわ。どうせ推測でしかないし」

「そんなぁ! 気になるじゃないですか!」

 何せ、一晩考えに考えて全く答えが出ず、仕事中も気になって気になって仕方がないくらいだったのだ。長年付き合った彼女の考えがここまで分からないというのは、いっぱしの大人としてカッコ悪いことこの上ない。藁にもすがる思いで主任にくいかかる。

「嫌よ。いい加減なこと言えないもの」

 が、残念ながらあっけなく拒否されてしまった。僕はよほどヒドイ表情を浮かべてしまったのだろう。課長が品のあると言えない笑い声を上げた。

「もー、そんな顔しないでよ。……彼女、周到な性格なんでしょ。すぐには話せないことなのかもよ」

「……そ、それはヒントですか」

「ノーコメント」

 ぷい、とそっぽを向いてスマホをいじり始める主任。この人は本当にマイペースだ。

「すぐに話せないこと……やっぱ浮気か」

 課長も課長でマイペースだと思う。

「アンタそればっかり言って佐野上くん落ち込んだらどうすんのよ」

 もう結構ダメージもらってます。

「えーだってその可能性だって高いじゃんよー。七年も結婚せずにだらだら付き合ってるんだろ。マンネリもいいとこだろう。浮気にもってこいってタイミングだ」

「い、いや……そこはきっかけがなかなか無いというか。結婚はしてなくても、長くつき合えてますし。そんな、浮気だなんてことはないって、信じてます」

 ぶーたれる課長に対し、僕は勇気を出して反論する。気持ちが通じたのだろう、彼の返事は先ほどまでと声色が違っていた。 

「佐野上」

「は、はい」 

「信じてます、と言ったが、現に彼女は理由を話してくれなかったんだろ。それは、何かを隠されているってことじゃないか。そんなんでもオマエは彼女の全てを信じられるのか」

「……え」

 課長の視線は鋭いものだった。ぐ、と胃が重くなるが、課長はただ悪口言うような性格ではない。背筋を伸ばし、次の言葉に備える。喧噪に包まれた居酒屋でもよく通る課長の声は聞き取りやすい。

「いいか。人間関係は腹のさぐり合いだよ。これは他人だろうと同僚だろうと取引先だろうと友人だろうと、もちろん家族や恋人だって変わらない。人にはプライバシーがある。タブーがある。ボーダーラインがある。そのラインを教えあうことが人間関係の営みであり、恋愛関係の営みだ」

 腕を組む課長は、息継ぎをほとんどせずにまくしたてる。

「だからこそ、一歩踏み込むのが大事なんだろうが。例えばオマエが明らかに何かやらかしてて、それに対して機嫌が悪いってんなら分かるよ。でも今回はプレゼントに対してだろ? 何かあるだろ。それをオマエは聞かなきゃだめだろ。そうやって大事なことを保留になんかしてたら、それは本当に彼女のことを見ているなんて言えないぞ」

 ズバズバと切り込んでくる。そしてそれは、反論を許さない。理不尽なのではない、ただただ事実を、そして自らの経験を、僕にぶつけてきているのだ。

「……つまりだな、恋は盲目だなんて言うが、恋のためにただ叫んだりつっぱしるだけなら、小学生にだって出来るんだ」

 少し寂しげに、課長は虚空を見つめる。その視線が一瞬横に行きかけたように見えたのは、恐らく気のせいだろう。

「不安があるなら目をそらそうなんて考えずに、言いたいことをきっちり伝えろ。それが誠意ってもんだ。もたもたしてるうちに彼女さんの気持ちが離れて、本当に浮気されちまうかもだ」

 徐々に落ち着いた口調になり、僕の緊張も和らいでいく。

 課長の言葉は、しかと僕の心に刻まれた。

「……はい。わかりました」

 確固たるものはまだ分からない。でも、力強い課長の視線から目をはずすことだけはしなかった。

「おう。……雑に対応してるとな、俺みたいな目に……痛い痛い痛い津野さん髪はよしてくれ頭皮も心も超痛い」 

 津野主任は目をつぶったまま松雪課長にちょっかいを出している。そして、課長がそれを手で払ったりすることはない。

 今のこの光景も、彼と彼女がとった行動の結果なのだ。

 僕の中で眠っていた何かのスイッチを押してもらえた気がした。


   *  *  *


 終電でかろうじて最寄り駅に到着し、タクシーに乗車した。自宅までは歩いていける距離だがそうしないのは、津野主任に念を押されたためだ。危ないから、とか何とか。何故だろう、普通に歩けてるのに。

 僕は行き先だけ運転手に伝え、疲労を訴える足腰をシートに沈めた。深く、ため息をつく。脳裏に浮かぶの居酒屋での課長の説教だ。

 保留。そう、僕は保留にしていた。「気分じゃないんだ」と言われ、それが今までにないことだったから、曖昧に笑ってやりすごした。気が気でないなんて言いながら、朝になってもいつもどおり起きて家を出た。

 栞梨は朝、どんな顔をしていたっけ。きちんと栞梨を見て「行ってきます」と言えたっけ。

 乗り越えなくてはいけないことをぼやかして、話したいことを胸に押し込んで、聞きたいことを棚上げして、仕事を隠れ蓑にして解決を引き延ばした。

 何でだ。怖いからだ。

「浮気だ、間違いない」

 課長の声が頭の中で響く。浮気はないと思う。いや、浮気じゃないと思いたいだけじゃないのか。課長の指摘したとおりじゃないか。

 栞梨が記念日ワインを拒否した理由が分からない。分からないならどんな理由だって考えられる。だから、うんうんうんうん一晩悩むはめになったんだ。

 浮気かもしれないし、単に好みじゃないだけかもしれないし、本当に気分だったのかもしれないし、親のいいつけによって贈られたシャトー・シャロンは飲まないようにしてるのかもしれないし。そう、こんな荒唐無稽な理由だったとも考えられるんだ。

 事実は、まだ不明なままだ。栞梨の口から聞いてないんだから! まさに、シュレティンガーのキャット。箱を開ける前からそんなもん分かるわけない。

 ああ、僕は何をやってたんだ。言いたくないんだったら聞かなきゃ答えてもらえる訳ないじゃないか。だから、いろいろ、昨日から今日の時点で言えることだけでも聞けば良かったじゃないか。

 一歩、踏み込まなくちゃいけない。

 課長の助言が僕の中で燃え上がる。今回話を聞いてもらって教えてもらったことをかみ砕いて、栞梨が嫌にならないように聞くんだ。ほんの少しでもいい。真相に近づかなくては。栞梨の気持ちを、知らなくては。

 居酒屋の会話を思い出す。不安があるなら目を逸らすな。保留するな。痛い目をみるぞ。人間関係は腹のさぐり合いだ。オマエは彼女の全てを信じられるのか。マンネリもいいとこだろう。無責任なことは言いたくないし。周到な性格なんでしょ。何だよ煮え切らないな。結婚式でゴールインみたいな。とりあえずテーブルにおいといて。運命って言っておきなよそこは。責任を取ろうと決めた。七年って学生のころから。つきましたよ。いつ出会ったのよ。七年もつきあってまだ結婚してないのか。おきゃくさーん。早く栞梨さんと結婚しなさいよ孫の顔が早くみたいんだけど。結婚してないってのは大きなディスアドバンテージなんだぞ。ホントの夫婦に間違われたりもしますし。お客さん! もしもし!

「お客さん! 起きてください! 着いたよ!」

「はい!」

 そうだ。何だっけ、そう。保留にしてちゃ。だめなんだ

「起こしてくれてありがとうございました! お会計これで!」

「あ、はい、ありがとうございま……あ、お客さん! おつり……」

「とっといてください!」

 僕はタクシーを降りて、走った。頭がガンガンする。ジグザグ走行だ。でもせいぜいほろ酔いだから問題ない。まっすぐ。もう少しまっすぐ走る。駐車場を超えて、駐輪場の横を通って、オートロックを開けて階段を昇る。

 僕は。伝えないといけない。ずっと、ずっと保留にしていたことを。

 栞梨に。このドキドキを、最愛の人に。

 がちゃがちゃがちゃ、鍵を開ける。震える手で、ドアを開ける。

 廊下は暗かった。リビングのドアを開け、右手にある寝室への引き戸を引いた。LED灯の光がまぶしい。目を凝らすと、ベッドの上であぐらをかいてスマホをいじる栞梨の姿があった。

「……お帰り。無事で良かった。健くん既読つけないから心配したよ〜」

 眠そうに微笑む栞梨。ストレートボブの隙間から除く双眸は、僕の胸を温かさでいっぱいにした。

「たっ、ただ、いま……」

 いつもの雰囲気で迎えられ、落とし穴に落ちたような感覚に陥った。その底にあるのは固い地面でも槍でもなく、柔らかくてふかふかなクッションだ。僕は大きく息を吸って、吐いた。

「とりあえずシャワー浴びてきなよ。……あ、お酒抜いた方がいいか。顔ひどいよ? ミネラルウォーター、冷蔵庫で冷やしてるから飲みなね」

 マイペースで温かい栞梨の声。それを聞いて僕の心は弛緩していく。荒ぶる息が整っていく。

 そうだ、彼女の言う通りにして、いつもどおりの生活に戻れば、ベッドで温もりに包まれて。

「いや……それじゃだめなんだ」

「へ、何が?」

 僕は、寝室のカーペットに足を踏み出した。

 頭をフル回転させる。居酒屋で松雪課長と津野主任と話したことを、タクシーの中で考えたことを、言葉として口に出そうと試みる。

「……栞梨……その、僕は……」

 だが、日本語が頭の中でうまく構築できない。いや、構築できて話せないのか、舌が壊れてしまったのか、きちんと言葉を話すことができない。

「だから、ええと……言いたい……あれ、とかが……」

 カーペットの柄を見る。あずき色の花柄。何をしてるんだ、視線を上げて。そう思っても、動悸が早まるばかりで体が動かない。

「……僕の……栞梨は……」

 やっぱり、だめなのか。ぐちゃぐちゃになった脳内で、それだけを思う。保留にし続けて。肝心な時に、言えないのか。

 僕の心が、暗闇に包まれそうになった。その時だ。

「健くん」

 力なくぶら下がっていた僕の手を、栞梨の白魚のような指が優しく包んだ。

「がんばって」

 煌めきに覆われる。僕は軽くなった顔を上げて、言葉を紡いだ。

「僕と、結婚してくれ」

 時が止まる。僕は続けて言った。

「浮気しちゃ、やだ」

 空間が固まった。僕も栞梨も、動かない。

 あれ、僕が言いたかったことって、解決したかったことってこれだったっけ? 頭痛と酔いで頭の中がぐじゃぐじゃで、よく分からないぞ。

 何言った僕いま。プロポーズしたな? プロポーズしたぞ? あ、違う、いや、違わないけど、あ、うわーあー。

 頬が熱を持ち、目が充血していくのを感じる。やらかした。こんな状態じゃこの後どうしたらいいか分からない。

 栞梨の反応も大概だった。鳩がマメマシンガンをくらった、ぐらいに目を見開いている。口もあんぐりと開け、見るからに放心状態だ。目も泳ぎまくっているので頭が真っ白なんだと思われる。こういう表情をした時の栞梨は、数秒後に爆発する。だからそれに備えて僕は待つことに。

 ってだめだ、だめだだめだ。保留にしてたらまた同じことの繰り返しだ。僕は一歩前に出て、栞梨の手を握り返した。

「ど、どうかな」

「どうかなじゃ、なーいッ!!」

 天井がひっくり返った。正確に言うならば、瞬く間に栞梨に組み伏せられた。彼女は馬乗りのまま僕の両方の頬を力一杯つねる。

「あっ、いだ、だだだだだっだららららららら!」

「はぁ!? 誰が!? んなこと!! するって!?」

 右をつねる、左をつねる、右をねじる、両方ねじる。この世のものとは思えない酷い痛みが僕の顔を襲う。恐らく小学生以来の激痛だ。

 栞梨は涙目になりながら声を張り上げた。

「いまさらッ、する訳ッ、ないッ、でしょうがァ!」

「ぎぇゃっ」

 僕の頬はフランスパンのようにちぎられた。いや、気のせいだ、ある、まだある。僕は情けない悲鳴をあげてから手で頬をさすりまくって悶絶した。

 でも、そうか。栞梨の言葉を聞いて、僕の心は深淵に落ちていってしまう。

「……する訳ないんだ……結婚……でだだだららららら!」」

「そっちじゃないよバカッ!!」

 もう一度頬をつねられて現実に引き戻される。痛みで涙を流しながら、僕は、怒ってても栞梨は相変わらず綺麗だ、などと場違いな事を考える。やっぱり、酔いでどうにかしている。

 そんな最愛の恋人は、愛憎入り交じったような不可思議な表情のまま叫ぶ。

「しないのは浮気だっての! 結婚は、するよ! してあげるよ!」

 ぱちん、と両手で頬をはたかれ、そしてまた時が止まった。今度は僕が目を見開く番だ。

「え……いいの?」

「するよ! もー……しない理由がどこにあるっての!」

 栞梨はそう言い切って、深く、大きく、ため息をついた。

「……待ってたよ」

 肩まで伸びた艶やかな黒髪を揺らし、少しだけ潤んだ瞳を向けてくる。栞梨。そこに怒りの炎は見あたらず、穏やかな光を灯していた。

 僕も体中に巡っていた混乱を排出するために、息を大きく吐き出す。

 婚約してしまった。付き合って七年にしてようやく。割と勢いで。実感が湧かない。

「ありがとね。末永く幸せにしてよ」

 照れながらもこっちを真っ直ぐ見つめることをやめはしない。こんな熱い視線を送られれば、ドギマギしない訳がない。 

「……よろしくお願いします。幸せにします」

 僕もどうにか目を逸らさずに返した。近い将来お嫁さんになる彼女は、満足そうに不敵な微笑みを浮かべた。

「で、そんなことよりさ」

「ソンナコト!?」

「ああうん大事だけどまあそんなことよりさ。結局何で浮気なんて疑われなきゃいけないのあたし」

 頬を膨らませて不機嫌をアピールしてくる栞梨。この変わり身の早さである。七年翻弄され続けた今でもやっぱり敵う気はしない。いや、振り回されるのは好きだからいいんだけども。

「健くんの信頼損なうようなこと……したっけ」

 姿勢をちょっとずつ調整してぐぐぐぐと体重をかけてくる。下腹部に大きなお尻を乗せられているので、苦しいし身動きが取れない。僕は言葉を選びながら話した。

「ええと……昨日僕があげたシャトー・シャロン、もらってくれなかったじゃん」

「え、もらったよ。テーブルしまっといてって言ったもん」

「い、いや、でも飲んでなかったでしょ。今までそんなこと一度も無かっしさ。記念日の贈り物だし、その日のうちに楽しんでくれるのを期待してたんだ。栞梨が目の前にあるお酒を飲まないなんて、思わなかったから」

「人をアル中みたいにー」

「そこまでは言わないけど常人以上は飲んでるでしょ……」

「あはは否定しない。それで、なに、まさかそれが意味深に思えたとか、そんな感じ?」

「う、うん」

「はァ〜ぁぁ……マイナス思考もいいとこだよそれ。また健くんのメンドくさいのが出たねぇ……」

 栞梨は右手を頬にあてて嘆く。メンドくさいと言われると心外だが、女々しいだなんだと言われなくなっただけマシだろうか。いずれにせよ反論できる話ではないので僕は苦笑いだけしておく。

「飲み会でなんか言われた?」

「……鋭いね」

「何年健くんの彼女やってると思ってんの。まぁ、もうすぐ彼女じゃなくなる訳だけど」

 そんな事を、頬を染めながら言うのはズルい。僕は彼女の真下にある僕の一部がどうこうならないことを祈った。

「言われた……というか……釘を刺されたというか……」

「んふふ、いいよ。言ってみな」

 そうして栞梨の顔に張り付く笑みは果たしてどんなものなのか。肉食獣に狙われた草食動物であるところの僕としては、観念するまでもなく今日の居酒屋で話したことを洗いざらい話した。

 話すうちに、最初の疑念が改めて浮かび上がってくる。結局じゃあ、昨夜のやりとりは一体何だったのか。浮気じゃないのは、嬉しいんだけど。

 その考えが表情に出ていたのだろうか。栞梨は大きく目を見開いてから、からからと笑った。

「……何で笑うんだよ」

「っふっふっふっく……だって、うん、そう勘違いするか……みたいな……っふくくく……いやあ、いい課長さんだね! めっちゃ親身じゃん! 一回会ってみたいなぁ。あ、会うか、式で」

 二度目の不意打ちも、何とか耐える。酔っぱらっていて自制がききにくいから勘弁してほしい。

「まぁ、でも、そうだね。うん。健くんから見たら、訳分からなかったよね。そこは本当に、ごめんね」

 栞梨はひょいと僕の身体から下りて、隣に座った。僕も体を起きあがらせて寝室の壁に背中をつける。肩を寄せ合って、ようやく目線が同じ高さになった。

「ワイン、ありがと。嬉しかった。本当だよ?」

 ふと彼女の瞳が見えなくなったと思ったら、頬にキスされていた。ちゃちなスピードじゃない。僕の心臓のスピードもちゃちじゃなくなってきた。

「でもね、どうしても受け取れないワケがあるんだ……」

 急に声のトーンを落とす栞梨。僕は思わず身構えてしまう。

「ど、どうしても受け取れない、ワケ?」

「はいここでクイズー! あたしが最近酒を飲んでないのは、なーんでだ!」

 このテンションのアップダウンである。いや、だから分からないんだって、口に出しかけたが、その問題内容に疑問符が飛び出しまくった。

「え……え? 最近? 昨日じゃなくて?」

「まぁ気づいてないと思ったよ。しばらく忙しそうだったしねー。はい、実は十日ぐらい飲んでませーん。すごくない!? 以外と禁酒やれるのかもしれない、あたしー!」

「き、禁酒してたの……?」

 そういえば、空き缶の量が減ってるかもしれない、とは思った。が、先週から出張があったり、激務で帰りが遅くなってたので注意を払えていなかった。

「んー、とはいえ禁酒のための禁酒じゃないからね」

「ダイエット?」

「バカ!」

 違うらしい。

「っていうか居酒屋でほぼ答え出てたじゃん。ほら、お局さんがさ」

「え、津野主任が? え……あぁ」

 そういえば、一つ気になったやり取りがあった。

「いい加減なことは言えない、とか、栞梨は周到な性格、とか、その辺……?」

「そ。それを踏まえて、ラブラブカップルが一緒に暮らしてて、ある日突然酒好きの彼女が酒に手をつけなかった! って、一つしかないっしょ」

「一つしかない……?」

 お酒は一週間ぐらい飲んでないし、飲まないし飲めない。津野主任は分かってそうだけどいい加減なことは言えないと表明した。栞梨は、こう見えて周到な性格だ。で、ラブラブカップルの酒好きの彼女が酒に手をつけない。なーんでだ……。

 頭の中の宇宙を、いろいろな星がぐるぐる回る。その真ん中に大きすぎる星があるんだけれど、まぶしすぎて見えない。この問題は彼女にとって、そんなことなのかもしれない。灯台もと暗し、的な。

「もー。まだ分からないかぁ。……じゃあ、これならどう?」

 栞梨はそう言って僕に体を密着させる。顎を僕の左肩に乗せて、悩ましげな声を出しながら僕の右手の甲を片手で掴んで持ち上げた。彼女の細い指先に捕まった僕の手は、ゆっくりと誘導される。

 栞梨はパジャマズボンを少しだけ下ろす。僕の手の平はその下腹部に着地して、彼女の肌の温かさを感じとった。

「……なーんでだ」

 太陽がそこにはあった。

「……あッ」

 あまりの驚きに完全に呼吸が止まる。全くそこは想定していなかった。「ぅ、ぁ、ま、まじ、ほんと?」

「ん……今日ちょっと休み取って産科行ってきたんだ。ばっちり、できてます。ぼちぼち二ヶ月ぐらいだって。おめでとう。あ、ここで浮気だなんだ言い出したら流石に許さないからね。訴えて勝つから」

 凄んでくる栞梨に対し、僕は首を左右に振りまくることしかできない。急に「産科」だなんて具体的な単語が出てきて、ますます理解が追いつかない。

 だって、え? つまり、できた? どうして? 付き合い始めたころから避妊はちゃんとしていたし、ゴムはつけてたし、何なら生でした時のことなんて思い出せないぐらい昔だ。

「え、え、いつ?」

 いつのアレですか、というまでもなく栞梨は察してくれる。

「クソセックスの時しかないっしょ」

「……ァーーー」

「ナマで入れたじゃん。……って覚えてないのか。でまぁ外出しはしてたけど、多分アレで一等大当たり」

「ァーーー……」

 栞梨の気遣いがマックスすぎてもう何も言えない。そしてこの流れでゴメンなんて言おうものならはっ倒されるに違いない。

 いやでも、本当に?

「もう、いつまでもそんな顔してないでよ。健くんと、あたしの子だよ。パパと、ママになるんだよ。もっと喜んで、ね?」

 甘い声と共に僕は栞梨に抱きしめられる。どうにか、心の奥底からにじみ出る今の感情を言語化する。

「お、おめでとう……ありがとう……」

「ん、おめでとう! ありがとう! 結婚も子育ても大変らしいけど、がんばろうね」

 押しつけられる大きい胸も、その後に飛んできたキスも、もはやどんな感触だったか分からない。

 僕の心と体が、様々なものでいっぱいになっていた。。

「まぁ、もしや、と思ってたのはもうちょい前だったんだけどね。こっそり家庭用検査薬でチェックしたりしてさ。でもそれも何かの勘違いだったら困るし、きちんと検査してもらって結果を見てから話したかったんだ。ぬか喜びさせたくなくてさ。今日話せて良かった。あーなんか肩の荷が下りたわー」

 突然のことに対する驚き、それに伴う混乱、結婚と新しい家族に対する責任、緊張、生命が芽生えた感動、それが自分と栞梨だからこそできたのだという喜び、栞梨への愛情、まだ実感の湧かない我が子への愛、そういったものが。

「だからホントさー、検査の予約した直後にシャトー・シャロン見たからさー。健くんが気合い入れてるのも知ってるから、よけいに飲みたくなっちゃうじゃん? だからどうしても視界に入れたくなくてねー。ごめんねー。赤ちゃん生まれて、授乳期が終わったら飲むからね。シャトちゃんとはしばらくお別れだねー。あ、でももしあたしが飲みそうになったらちゃんと止めてね! 頼りにしてるからね!」

 七年の思い出が、脳裏によぎる。涙が堰を切って溢れ出てくる。

「あ、これでアレかな、エンジェル婚とかできちゃった婚とか言われなくても済むのかな。あたしが妊娠のこと言うのより健くんがプロポーズしてくれた方が先だったもんね。そういう問題じゃないかな。どうかな。あーでも式やるならお腹が目立たないうちのがいいかな。もう少し経つと大きくなっちゃうし……色々考えなきゃね! ……あれ、健くん、泣いてる? ……んゃっ、や、やだなあもうあたしまでもらい泣きしちゃうじゃん」

「栞梨」

 そして、僕という名の朱に染まった器が満タンになった結果、いらんものまで溢れることになった。

「うん? ……うん、今ならいいよ。いつもは恥ずかしいから拒否っちゃうけどさ、今日ぐらいはロマンチックでベタなセリフの一つや二つ」

「栞梨」

「ん?」

「吐きそう」

「……は?」

「……吐っ……う、るるる」

「だっ……我慢して! トイレ! ダッシュ!」

 血相を変えて僕を連れ出す栞梨と、せり上がってくる胃酸に抗う僕。口を抑えながら廊下を走って、どうにか大惨事は避けられた。

 疑問と結婚という二つの保留を解決どうにかできたのに、自分の酔い具合を把握できてなかった。それを伝えたら「自分のことなんだから早く言え」とまた頬をつねられた。

「あたしとこの子を守ってもらわなきゃいけないんだよ。もう、キミだけの体じゃないんだからね」

 その言い文句って男が言う方だよなぁ……と思いつつ、僕らの関係を如実に表しているようで何だか面白い。

 踏みとどまらずに一歩進めて、良かった。

 僕が力なく笑うと、彼女もはにかんだ。その笑みはやっぱり不敵で、そして慈愛に満ちていた。


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しばしのわかれ 元風ススム @keikazato

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