第四話

【4-1】

幽霊は決して忘れることは無い。喜びも、悲しみも、そして愛も憎しみも。それは地獄にも等しいが長くは続かない。強い感情に囚われてしまった幽霊の行き着く先は悪霊である……

バートラム・マンスフィールド 1738-1802 英国



 作家デビューを果たし、これまで以上に文筆作業に力を入れるようなった富井は取材旅行に出るようになった。

 取材旅行と言っても月の一週間程度をキャンピングカーで縁と一緒に食べ歩きの旅に出るだけであり、とても毎日更新する全ての記事で紹介される店を取材するのは無理だが、記事の中でも注目が高かった店を自分の目と舌で確認して「殿堂入り」としてブログに掲載する。

 最終的にはそれらをまとめて出版する話も出てるので、富井はかなり本気だった。


 富井の『幽霊日誌』は既に強い影響力を持つに至っている。

 情報の正確さでは群を抜くという評価は当然として、個人のブログでありながら情報量も更新開始から五か月足らずで既に紹介された店舗数が一万を超えるのは異常と言うべきだろう。

 当然ながらその事を指摘して、個人で出来る事ではないので『幽霊日誌』は店から金を受け取っているステマ・サイトだという非難する者もコメント欄に現れたが、その声は紹介された店の情報の信頼性を支持するユーザー達によって現れるたびに一蹴されるのだった。


 当然ながら飲食店業界は限られたパイの奪い合いの世界であり、紹介された無名店が脚光を浴びて客を増やせば、紹介されない店舗の客が減るのである。

 そして『幽霊日誌』の影響力が増えるほど、その傾向は顕著になっていく。


 富井の元に、それらの店から自分たちの店の紹介を掲載するよう要望するメールが幾つも届くようになった。

 だが富井は応じない。掲載しないのは大手チェーンや既に有名な店。無名だが多くの常連を抱えている店。そして掲載するに値しない多くの店である。

 美味しい料理を出しながらも無名のまま閉店になるのが惜しいと思える店を紹介するのが彼の目的であり、リスペクトする要素の無い店を救うのが目的ではない。


 富井は一度紹介した店が新しいメニューを開発した場合。掲載するに値するメニューであるならば何度でも『幽霊日誌』で紹介する。

 結果。『幽霊日誌』で紹介された事で客が増えて経営難を乗り越えた店舗も新メニューの開発に力を注ぐようになったので、掲載されたければ彼らと同じように美味いメニューを開発すれば良いというのが彼の考えである。

 紹介するレベルに達していない店でも、多くの料理店が「まあこんなものか」と値段と味と量で納得出来る範囲の店もあるが、しかし、一度店に入って「もう二度と来ねえよ!」と胸の中で吐き捨てる料理に金を払う切なさを知る冨井は、その手の要求には応じる気はなかった。


「そもそもどう紹介しろと言うんだ? 値段の割には全く満足のいく料理ではありませんでしたと書かせたいのか? そんな事を書きたくないから、俺は美味い料理だけを紹介してるんだよ」

 今日も何通も届いている掲載要請のメールに吐き捨てるのだった。



『でもな、最近は美味いメニューが増えてるのは確かだ』

 突然声を掛けられて富井は振り返り、浩太朗を見て『いたのかよ』と呟く。

『トミーのブログのおかげだとは言えば言い過ぎだが、全く無関係って訳でもないだろ』

『無関係ではないか……』

 そう噛みしめる様に口にした富井は、俯くと「ふっ」と鼻を鳴らして二度肩を上下に揺すって笑った。


『間違っちゃいないよ。今のスタイルを貫いたからこそ起きた変化だ。そうじゃなければただの大手グルメ紹介サイトと変わらない……何も現状を変えられないだろ?』

『そうだな間違っている訳でもなく、きっちり成果が出しているのに方針を変えるなんて馬鹿のやる事だ』

 富井は当面は要請を無視する事にするのだった。



「ひろちゃん。今度はどこに行くの?」

 毎月下旬は取材旅行に行くと決めているので月も半ばになると縁がそわそわした様子でこう聞いてくるのだった。

「今月はね──」

 縁の質問に答えるために、大きな一枚の日本地図をテーブルの上に広げて説明を始める。

 小さな子供にページごとに区切られた範囲の地図を見せても理解出来ないと思っているから購入した。

 ちなみに地図の折り方はミウラ折り。登山が趣味だった富井とってミウラ折りに非ずんば地図に非ずとも言える。

 登山前には地形図をネットからプリントアウトし、ルートと注意事項を記入した上でコンビニでA3サイズにコピーしてミウラ折りにするのがお決まりだった。


「ここがお家がある場所ね。ここからずっと西、この地図の中では上の方が北で右が東。下が南で左が西っていうんだよ」

「うん、自信ないけど分かった!」

 自信が無い割には凄い良い返事だったが問題にしない。富井は地図を開くたびに同じ説明をする。教育とは繰り返しであると信じる富井だった。



「このお家がある所から、この西の方の大阪って場所に向かうんだ。途中で色々と寄り道しながらね」

「遠いの?」

「遠いよ」

「お泊りもする?」

「するよ」

「やった! お泊りだ」

 キャンピングカーは縁のお気に入りで、普段の買い出し等は軽自動車を使うのだが「大きい方じゃないの?」と必ず聞いてくるほどなのでテンションも上がっている。

 富井自身幽霊になってからは運転を苦にする事はなくなったのだが、やはり小回りが利く軽自動車の方が楽だった……燃費的にも。


「何食べるの?」

 旅の目的を理解している三歳児は、期待を込めて尋ねてくる。

「基本的に海の近くが多いから海で獲れる魚や貝とかがが多くなるよ。でも大阪は食い倒れの町だから色んなものを食べる事になるよ」

「縁ねエビ好きだよ」

「エビも良いね。でも縁が好きなスイーツも食べるよ」

「スイーツ!」

 その言葉に輝く目の光は、エビの時とは比べ物にならなかった。


 テーマである【無名店の美味いメニュー】はオジサン向けであり、豪華な料理もあまり紹介する事は無い。

 しかし、今は明らかに女性向けの美味しいスイーツが人気も凄く、特にインスタ映えするような料理が多く紹介され今回の取材旅行でも幾つも回る予定だった。

 味覚を獲得した幽霊達だが、あくまでも味を感じられるだけで食べられはしないので、形を崩すことなく目で楽しみながら味を堪能するのが女性陣の好みであり、どうしてもインスタ映えするような料理が中心となっている。

 三歳児ながら縁も女の子として好みは同じようで、見た目よりも味と量と値段を重視する富井とは違う。

 妥協案として【無名店の美味いメニュー】とは別に、【スイーツ紀行】というどうしよう無いほど投げやりなコンセプトのコーナーを作ったのだった。

 当然ながらこちらも出版される予定であり、編集部もむしろこちらへの期待が大きいようなのが納得出来ない富井だった。




 十九日の夜。浩太朗が家にやって来るなり『馬虎のラーメンが食いたい』と言い出した。

『何でこんな時間に?』

『ラーメンはむしろ夜に食うものだろう?』

 〆のラーメンと言う奴なのかもしれないが、富井にはそんな習慣は無かった。

『明後日の朝には出発なんだろう? 今日を逃したら下手すりゃ来月までお預けだよ』

『大体、お前が馬鹿なのは知ってるが馬虎って何だよ?』

『創業五十年の変わらぬ味を守り続ける老舗のラーメン屋、馬虎を知らないだと?』

『そんな驚いた顔されても知らないものは知らないから』

 富井はラーメンは好きだが、週に何回も食べるタイプでは無い。月に一回、多くても二回しか行かないので、彼が自分では良く行くと思っている店舗でさえ年に数回しか食べに行ってなかった。

 年に数回しか行かない数店舗を除けば、テレビで紹介されて興味を持った店に行くくらいなので、知る人ぞ知るという言葉でいうなら彼は知らない側の人間である。


『トミーは何でそんなにラーメンを食べないんだよ。おかしいだろ? 男なら黙ってラーメンだろうが!』

『ラーメンは身体に悪くても構わないから食いたいと欲求が限界まで高まって食べるモノだ。毎日ラーメンを食う奴は馬鹿だと思うし、何のリスクも感じずに食う奴はラーメンに失礼。強い罪悪感に駆られながらも葛藤の果てに食べてしまう禁断の味だろ』

 取りあえず方向性は違うが二人ともラーメン好きなのは確かなようだ。


『うわぁ~面倒くさい奴だこいつ』

『そもそもラーメンに健康志向持ち込む奴って何? 豚骨ラーメンの癖に豚骨を全く感じられないヘルシー系とか死ねよ。我慢に我慢を重ねた挙句に、あんなの食わされてたまったもんじゃない』

『うるせーぞトミー! 屁理屈捏ねてるんじゃねえ。さっさと食いに行くぞ』

 互いにラーメン好きであればあるほど方向性の違いが深い溝となるのがラーメン道である。



『とにかく俺が生きてた頃に良く通ってた店なんだけど、折角味を感じられるようになったのに、店長の入院で長期休業中だったのがやっとやっと再開したんだ。パープルちゃんも、もう寝てるんだろ。さっさと行こうぜ』

 パープルちゃんは縁のあだ名である。「縁」を「ゆかり」と読んで、更に「ゆかり」に「紫」を当てて、最後に英語でパープル。

 富井は浩太朗が自分の事をそう呼んでいる事を縁が知ったら本気で噛むだろうと確信している。そして今度は止める気もなかった。

『別に俺は食わなくてもさ……』

 ラーメンの美味い不味いは、好みで大きく分かれるので、味の好みを知らない相手の個人的なラーメン評は当てにしない性質だった。

『いいから行くぞ! そして醤油ラーメンを二杯頼むんだよ。死んだ祖父さんが枕元に立って馬虎のラーメンが食いたいと言ったとでも理由をつけて』

『そんな事したら俺がおかしな人扱いじゃないか。一人で行って客のラーメンのどんぶりに頭突っ込んで好きなだけ味だけ堪能して来いよ』

 これは幽霊に関する啓蒙活動の側面を持つ富井のブログや雑誌の連載でも、今までも、そして今後も記される事は無い秘密の幽霊の生態であった。


『馬鹿野郎! 馬虎は俺にとって聖地なんだよ。聖地でそんな罰当たりな真似が許されると思ってるのか?』

『そもそもお前等が飲食店でやってる罰当たりな真似が許されるとは思ってねえぞ』

『人は誰だって決して侵す事の出来ない。侵されることを許せない聖域を心の中に持ってるものだろ』

『何を格好良い事を言った的な空気を出してるんだ? 食事という人々の聖域は土足で踏み時煮る様な真似をしているお前らが言って良い台詞じゃねぇ!』

『な、なんていう正論! ……だが、だがな。世の中を動かすのは正論じゃなく暴論だ!』

 自分の食い意地の汚さを世界全体にスケールを広げただど? と訳の分からない驚き方をしてしまう富井は浩太朗と同レベルの馬鹿であった。



 深夜、ラーメン屋の帰り道……結局は暴論に押し切られたのだった。

『おい、どうしてくれるんだよ?』

『なんていうか悪かった……』

 責める富井の視線から顔を背けながら浩太朗は力なく謝る。

『美味かったら幽霊の誰かがレビューを送って来てるはずなのに、おかしいと気づかなかった自分が憎い。そしてお前は絶対に許さない』

『悪かったよぅ』

『大体さ三十年も経ったら店は同じでもラーメン作ってる奴は変わるだろうよ』

 浩太朗が常連だった時の店主兼調理人は二十年前に引退し、後を継いだ現店主兼調理人は長期入院のままで、店を開けて切り盛りしているのは金髪の若いあんちゃんだった。

『申し訳ない。まさか元の味すら維持できてないとは……』

『お前が生きていた頃の店主がろくに下の人間を育てないから、あんな事になる』

『本当にすまなかった』

『最初はお前がこういう味が好きだったんだと蔑みの気持で許すつもりだったのに、自分で不味いって言うか? 誰があんな店でラーメンを二杯も注文させたんだよ? この店のラーメンが好きだった友達の分と言ってお願いした俺の立場はどうなる?』

『それはお前が勝手にアレンジし──』

『ああん? 俺の爺さんが巻き込むな、あんな不味いラーメンが好きだったとか嘘言わせる気か?』

『ごめんなさい! もう許してください! お願いします』

 時の流れとは残酷であるという教訓である。


 今度カレーを食いに行こう。そうだ久しぶりにあの店の牛筋カレーを食べるんだと、富井は生前に月に二回のペースで通っていた店の味を思い出す。

 金沢カレーのように独特のまろやかな舌触りを持ちつつ、決定的に違うのは塩からくない味付け、全体的にマイルドでスパイスは強く主張しないが舌の上でコクが持続する。そんなカレーの味を思い出しながら「きっと縁も気に入るはずだ」と富井のにやけた顔に、やがて小雨が振りかかってきた。


 家まで近いので小走りに移動する富井の横を浩太朗が「お化けは濡れない~」と有名なアニメの主題歌の替え歌を口ずさんでいた。

『あれは……?』

 住宅街の人気の無い路地裏。富井の家から百メートルほど離れた一軒家の門扉の前に一人の女性……何と表現すべきだろう、透明な水の中に入れた手の肌の色の様に温かみの無い顔色と何を見つめるのでも無く見開かれた目まるでそれは──まるで幽霊だと仮にも幽霊である富井はそう思わせた。


 だが幽霊と呼ぶには余りにも不自然だった。

 実際の幽霊の姿は生前の姿がと全く変わらない。むしろ年を取って身体が衰えていた者なら、幽霊になった後の方が溌剌として軽快な動きをみせるほどだ。

 一方でこの女性はあまりにも一般的に想像する幽霊を思わせる姿で佇んでいるのが、余りにも富井の知る幽霊像とはかけ離れたいた。

 フラフラと歩いては足を止めて立ち尽くし、また再び歩き出すという動作で狭い犯意を行ったり来たりしている。

 やけに存在感が薄く、しっかり幽霊が見える筈の富井の目にも映画に出てくる幽霊のように透けて見えている。

 部屋着のようなこの季節としては薄手の白いブラウスにスカートに黒いストレートの長髪と、実にオーソドックスな夏場の幽霊スタイルで、富井は「幽霊の前にザが付くような幽霊」と思うのだった。


『あれには関わるな』

 いきなり浩太朗が前に立ちふさがると、首を小さく左右に振る。

『視線を合わせるな。足元を見ながらゆっくりと後ろにさがるんだ』

 浩太朗の肩越しに一瞬目が合う。ぼんやりと周囲に視線を彷徨わせるだけの彼女の目に、その一瞬だけ訴えかけるような色が見えた気がしたが、「止めろと」と低く抑えた強い浩太朗の声に気圧されて、富井はゆっくりと来た道を戻ってその場を立ち去った。


『アレはなんだったんだ?』

『悪霊……その手前の状況だ』

 富井の質問にショウは苦虫を噛み潰したよう顔で、その二文字を口にした。

『悪霊だって?』

『ああ、俺達幽霊は忘れる事が出来ない。だから時間が心の傷を癒してくれるなんて事は無い。だから折り合いのつけられない耐え難い痛みを抱えたまま死んだ奴は遠からず幽霊としての器が壊れて悪霊と化す。お前も見たはずだあの自我すら失った目を、あれは死後そんなに経ってない証拠だ。まだ自分が死んだ事も気づいていない。そして自分がどんな感情を抱えて死んだのかも思い出していないんだ。あの様子なら比較的長い……そうだな三日、いやまだ二日は余裕があるが自分の中の怒りや憎しみを取り戻したら瘴気を放ち始める。そうなれば完全に悪霊だ。やがて湧き上がる怒り憎しみによって生きてる奴、死んでる奴お構い無しに巻き込んで滅びる爆弾の様な存在だ。被害は怒りや憎しみが強いほど広い範囲に及ぶ……良いか? 絶対にアレには関わるな。むしろ取材旅行を前倒して出かけろ』

 強く釘を刺されたが、富井は彼女の事が妙に気に掛かった。

 もしかしたらだが、彼女の心の痛みの原因を取り除く事が出来れば悪霊化を止められるのではないか?

 その根底には、彼が幽霊達に抱いていた友好的な印象を覆す様な彼女への態度に対する反発もあるのだが、それとは別に何か説明のつかない感情が富井の中にはあった。


『俺は他の馴染みだった店に行ってくる』

 そう言って立ち去ろうとする浩太朗の背中に『後進の料理人を育てる育てない以前に、流行り廃りが激しいというか味の進化が著しいラメーンの世界で数十年前の味を守り続けて人気店として生き残るのは本当にレジェンド級の店だけだぞ。十年前は行列の出来る人気店だったごく普通のラーメン屋なんて、そこら中に転がってるだろ』と止めの一言を投げかけた。

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