第三話
【3-1】
四世紀ほど昔、生前は平凡で名もなき数学者だったある幽霊が、四十八のフェルマー予想に挑み、一瞬の後に「フェルマーの予想に何一つ嘘も誤りも無かった」と言い残して満足気に消滅したという話は幽霊ならば誰もが一度は耳にする有名な話だが、これは『深く没頭する事は危険』という啓蒙の意味で有名な話なのである。
それくらいの事は幽霊には出来て当たり前の事なのだから……
赤峰 良治 1903-1965 日本 富山県
当然の事だが富井も生きている人間との付き合いがある。
だがそれは以前に比べるとかなり減ってしまっているのも事実だった。
多くの友人達が、両親と兄夫婦の飛行機事故と会社の倒産。そして姪を引き取った事など一連の話を知って心配するも気軽に慰める事も出来ないと感じたのだろう。約束もなく「今度ゆっくり飲もう」と言うのが精一杯だった。
友人達の中でも積極的に動いてくれたのは就職の話を持ってきてくれた友人達であった。
「信頼出来る保育園に預けるて働くという選択肢もあるぞ」
そう勧めてくる友人もいた。別に就職に心を動かされた訳ではないが、就職するにはとても乗り越える事の叶わない巨大な壁がそそり立っている事に富井は気づかされる。
それは「健康診断を受けられない」という悲しい事実だった。
アルバイトならいざ知らず、きちんとした会社に再就職となれば健康診断書の提出は必須である。
残念な事に富井には心臓も欠陥も無い。心拍を計る事も血圧を測る事も出来ない。胃カメラを入れたら見てはいけない物を見てしまった医師の灰色の脳細胞が狂を発するかもしれない。
『縁が小学校に通うようになっても俺は就職出来ないんだ……縁が友達を家に連れてきても、有名人気ブロガーで広告収入で食べてますと言うしかないんだ……せめてユーチューバーって名乗りたいよね』
富井がそう愚痴るのを面倒くさそうに見ている浩太朗。
『いや、その気があるなら身体をしっかりと作り込めばいいのではないか?』
『作り込んだとしても、血液検査とか尿検査といっても血も尿もないからな。それにレントゲンはどうしようもないから』
今の富井の日常を見ていて彼が人間じゃない事を察する事の出来る人間はいない。
例え、縁の様に幽霊を見えてしまう人間でも、いやそういう力があるからこそ実体化した身体を持つ富井を幽霊だとは思わないだろう。
『就職どころか飛行機も乗れないな。普通の幽霊なら乗れるのに』
東京オリンピックをやり過ごした日本の各空港での検査も強化されており、搭乗前にX線検査機を通過する必要があるので洋三の指摘は正しい。
そんな事よりも富井を落ち込ませたのは、心配して熱心に就職話を持ってきてくれる友人に対して首を横に振り続けなければならない現状だった。
「友達の心遣いがこんなに辛いなんて……」
そんな頃。日本の状況を羨望していた海外の幽霊達も歯止めがなくなった事で遂に行動に出た。
富井の一番の友人と知られる──両者ともにその評価に疑問を呈するだろうが──浩太朗の元に押し彼らは寄せて来たのだ。
『アメリカ版も作れ? ……アメリカ版じゃなくニューヨーク版? ニューオリンズ版にロスアンゼルス版? それって州単位ですらないよね……んなの出来るか!』
浩太朗の魂の叫びが炸裂する。まあ彼自身が魂そのものなのだが。
当然の事ながら幽霊は世界中にいるのだからこうなるのは必然であった。
しかし幾ら眠らない幽霊ではある富井にとっても一日が二十四時間という世界の法則は突破する事は無理なので世界各国の各地域版のグルメブログの更新など不可能である。
SDカードによる幽霊専用スマホからパソコンへのデータの移動出来る様になった事で楽になったとはいえ、投稿された情報を利用しつつも、それから記事に仕上げるには富井自身の手による入力作業が必要となり、現状でも富井の元に寄せられる情報の全てをさばき切れていないのに、全世界というのは無理にもほどがあった。
『富井君が無理なく対応出来るような負担を可能な限り減らしたプランを自分達で考えて用意する。それが大前提だ』
冷静さを失った浩太朗に代わって洋三が、突き放す様に告げると海外勢は項垂れ、日本の幽霊達は喜色を浮かべて肯いた。
富井への負荷が大きくなって『幽霊日誌』の更新に支障が出る事が、日本の幽霊達にとって何よりも恐怖だった。
一方でアメリカの幽霊達は足の引っ張り合いを始めてしまう。
『全部なんて無理なんだから場所を絞ろうぜ、そもそもウェストバージニア版なんて必要なのか?』
『山ばかりで人どころか幽霊だっていないぞ』
『オメエら一々ウェストバージニアを馬鹿にするでねぇ! 母なる山に詫びろ』
『また母なる山ってカントリーロードネタか。それしかねえのかよ』
『全くだ州都の人口が五万人の人は黙ってっぺ』
『オメエはワイオミングもんでねえか! オメエに田舎もん扱いされる筋合いはねえ!』
『なんだっぺ? オラの州都は六万人よ』
『うわぁっ目糞鼻糞』
『『ああ~?』』
海外幽霊達の中のアメリカ勢は明らかに足並みがそろっていない。
また世界的に見て多くの幽霊は味覚を得た事を喜んでいるが、グルメ情報云々の話に盛り上がってるのは一部の幽霊だけだった。
その理由は、幽霊全体の七割以上が食事とは生きるための作業の一つと割り切っていたのだ。
食べ物を美味い不味い言うほど余裕があるのは先進国を除けばごく一部であり。更に言うと先進国でも安い飯は不味く、相応の対価を払わなければ美味い飯にはありつけないというのが常識だった。
ワンコインのランチで美味い不味いを偉そうに語るグルメ気取りは日本人くらいだろうと思っている。
しかし安くて美味いを要求する厳しい社会で磨かれた日本食だからこそ、海外でラーメンなどが人気になる。
そしてラーメン一杯が日本国内に比べてかなり高い価格帯でも彼等にとっては『相応以下の対価』に過ぎないのだろう。
日本の幽霊達が強く反対した事と、海外勢もしょっぱい甘いを感じられるだけで満足と言う多数派も「功労者である彼に負担を押し付ける形になるのは可哀想だろ」というスタンスだったので、海外版の話は一時凍結という事で決着する──富井自身が全く知らぬ間に。
しかし、妥協点として海外の幽霊達も『これなら文句はないだろう』と日本でグルメレポート活動する事になり、結局は富井の一日に更新する件数が増える事となった。
『海外版を作れっていう外人さんは居なくなったけど、最近外人さんからの情報提供が多い気がするんだけど、どうして?』
などと本人は全く気付いていなかった。
その結果、更新数の余りの多さから富井のブログのフォロワーからは「本当にちゃんと調べるのか?」という質問が多く寄せられる事になり。
「一軒一軒ちゃんと調べてますよ。幽霊達が」と誠意をもって包み隠さず説明するも当然ながら炎上した。
そんな事がありながらも、情報の正確さは変わらなかったのでランチ漂流者達には大人気となりアクセス数は伸びに伸びた。
最近では、女性幽霊からの情報提供が増えた事でメインの「オッサン達の昼の狩猟場」と分けて「淑女達の憩いの場」を作った。
間違っても「淑女ってどこにいるの?」とは思っても言わない。無力な富井には女性幽霊達の言うがままにタイトルを付けるしかなかった。
お陰でスイーツの情報も充実し、お洒落な店の情報もブログで紹介するようになると、再び読者達からの疑問が寄せられる。
余りに情報が多岐に渡りすぎていて、再びブログの人間読者から「あんた何者?」という意見が増え、答えるのが面倒になった富井は「幽霊」とだけ答えて、やはり大炎上した。
「ふっ、これぞ炎上商法。俺は自分が怖いわ」
結果的に炎上の度に彼のブログへのアクセス数はうなぎ登りで、アフィリエイトによる広告収入も順調でに伸び、既に貯金を切り崩しながらの生活は卒業した。
もっとも時期的に重なっただけで炎上とアクセス数の伸びは全く関係なく、情報の量と正確さに支えられての事で彼自身の功績と言える部分は殆どない。
幽霊達から聞いた身の上話や幽霊マメ情報、集めて来たグルメ情報におんぶにだっこ状態だった。
『これって俺いらない子状態じゃない? 俺のやりたかった知られざる幽霊の事実を伝えるという主旨は省みられる事無く、昨今の幽霊ブームに乗っかってサイト立ち上げた癖に、今じゃただのグルメサイトじゃんとか言われてるんだぞ!』
『いや、お前がいないと俺達が本当に困るから、現状に疑問を持たず、このままお気楽に生活してろ。ついでに言うと疑い様も無くグルメサイトだからあきらめろ』
浩太朗の言葉に富井は反論しようとするも洋三に遮られる。
『富井君。我々と違って君は人間社会で暮らしていくためには金が必要だ』
『それだけじゃないぞ。このままずっと富井 裕と生きていける訳でもなかろうて』
聞き捨てならない二郎さんの言葉に『どういう事ですか?』と返す。
『今は良い……今は良いだろうが、これから七十年も経ったら君は百歳近くだ。そして九十年後、百二十近くになった君がただの人ではいられると思うのかね』
そんなご長寿になれば国も黙ってはいない。健康診断などで彼の健康管理すべく行動を開始するだろう。
『そんなこと言われも』
『人間社会で生きていくためには、一度戸籍上死んで別の人間として新たな戸籍を得なければならないだろう。その為には一定以上の経済力と権力を持っている必要がある』
『……いや別に、その前に成仏するという選択──』
『ふざけるな小童!』
二郎さんから怒鳴りつけられる、
こんな風に怒鳴りつけられるなど大人になって初めての経験であり富井も唖然とするしかなかった。
『お前は自分が我々幽霊にとってどれほど貴重な存在か理解しているのか?』
『いや、俺は自分と縁にとって特別な存在であれば良──』
『そんな我儘が通ると思っておるのかっ!』
『わ、我儘なのか!?』
『我儘に決まってるだろう! 小僧、お前が成仏したいというのならば自分の代わりの見つけてからにしろ。それまでは成仏など儂の目が黒い内は許さん!』
勝手な言い分に人としても幽霊としても大先輩に対する敬意は何処か遠くに飛んで行ってしまったのだろう『爺、あんた既に死んでるからな』と呟いた。
だがこの話は冨井としても、後々まで考えずにいられない話だった。
何十年かを生きて普通に成仏するのもありだろうとも思うが、何か成仏したく無いと思う理由を見つける事が出来たならばどうするべきかを──
富井の頭を悩ませる者達はまだ別にいた。
自分達の情報が生きてる人間達に与える影響を面白がって幽霊達なので、グルメ情報のみでは無く0ちゃんねるの情報全般などをどんどん人間用のネットへの放流をやってくれという要望が多い。
しかし、幽霊達の情報をそのままネットに流すのは大いに問題がある。
特に問題なのは科学技術系の情報である。
幽霊達の学術研究は、ほとんどの分野において生きている人間の研究よりも先を行っている。
演算能力はコンピューターですら物理的ステップを必要とする分、幽霊には及ばない。
知っている事なら思い出そうとしたと同時に全てを思い出す事が出来、考えて答えが出る問題なら一瞬の間もなく答えが出る。
幽霊とは一瞬より短い時間に、自分が蓄えたオーラがある限り考え続ける事が可能な存在なのだ。
もっとも非常に消耗するのでそこまではやらない。
科学的分野に限定すれば幽霊の技術水準は人類の三十年から五十年先を進んでいる。
だが百年以上先を行くような研究を幽霊達がする事は決してない。
その理由の一つは、幽霊は実際に実験を行う事が出来ない。
同様の研究を行ってる各国各研究所に侵入して得た実験結果等の情報をデータベース化しているが、実証試験が出来ない以上は理論上の成果に過ぎないが、それでも幽霊達は自信をもって我々の方が進んでいると断言するだろう。
だが幽霊にはどれほど頭の回転が速くても、全く新しい視点で研究分野を開発する様な創造力、発想力は備わって無いという問題がある。
幽霊という存在は影響力に関しては一方的に受け手でしかなく、だからこそ幽霊は自ら先頭に立って影響力を発揮するパイオニアという立場に強い憧れを持つ。
それ故に、同じとは言えないが幽霊であり、幽霊に味覚を獲得させた立役者の富井に強い敬意と憧れを抱くのであった。
話を戻すと、現状としては生きている者達が新たな発想で先鞭をつけない限りは、彼等の研究は一歩たりとも動き出す事は無い。
だが一方で現在大学や企業で研究中のテーマの中には幽霊達の手よって「理論上」は完成された技術であるモノは少なくない。
そして現在は、新たなテーマの開発や有望な実験データ待ちの状態で幽霊達は暇を持て余してしまっている。
そこで富井に完成された技術を公表させる事で、生きている者達に現在の研究を諦めさせ、新たなテーマの研究を始めさせたいと思っている。
『スゲエ自己中心的な話だな』
富井がオブラートに包むことなく客観的事実を告げる。
『大体、幽霊達の研究成果を発表する事で、先を越された形になる多くの研究者が職を失う事にもなるだろう。それにそんな事を繰り返したら研究職を志望する学生も減って、結局は自分の首を絞める事になるだろ』
『トミー、死んだとはいえ俺達も人間だ。その中には色んな奴等がいる。そして幽霊になってまで研究者を続けるような奴はかなり偏った連中だ。しかも生きているなら社会と言う柵の中で生活していれば挫折や妥協……世の中とは厳しく儘ならないと思い知らせるが、そこは幽霊だからもう自我が拡大する一方な奴等もいるんだよ……マッドとか言われるようなのが』
『だからトミーは止めろと言ってるだろ!』
久しぶりに苛っときたのか富井が怒る。
『おいおい○カラトミ―だなんて、もっとオブラートに包めよ』
富井はオーラを込めて浩太朗をぶん殴った。
『でもやっぱり実用レベルの核融合技術位は早く確立させた方が人類全体の為には良いと思うんだよ』
面倒事は嫌な癖に、こんな事を考えてしまう辺りお人好しな部分でもあるが、ひとえに収入が安定してきた面もあるのだろう。
人間は余裕があると、許せる範囲内で綺麗事を口にしたくなるものである。
『それはヤバイって事になっただろ?』
『それはそうなんだが、何とか俺の身元がバレずに済む方法は無いのか?』
『幽霊にだってIT技術者は少なからずいる。はっきり言って腕利き揃いだ。だけどなどんな手段で発信元を隠しても、十分な時間と人手と金を掛ければ必ず突き止められるというのが、奴等の見解だ』
『幽霊でも無理なのか……』
『連中自身が直接ネットに介入出来るなら、百年だろうが誤魔化せるとは言っていたが、実際は君にソフトウェアを提供するくらいしか出来ないだろ。技術情報のリーク元も、それを誤魔化すための手段も全部君に集約するわけだから流石に無理だという事だ』
諭し言い含める様に洋三が説明した。
『そこがネックかよ! ……でもさ俺を通さなくても、幽霊だって無理すれば声を出す事も出来るんだろ?』
『無理過ぎるわ! 一言発するだけで、どれだけ消耗すると思ってるんだよ』
軽く物に触れるだけでもかなりオーラを消費するのに、空気を離れた相手の耳に届くほどの振動させるのは幽霊にとって命懸けである。
『あ~あ、核融合技術を誰か上手い事三行でまとめてくれないかな?』
『君も無茶苦茶言うな。大体、この情報はネット上に拡散するから意味があるのであって、何処かの大学とか研究機関に送り付けても一部の連中がその情報を自らのものとして利益の独占を計ると人類全体の為とはならないだろう』
『駄目か……』
富井個人としては何とか公開した情報だが、そもそも富井という貴重な存在を失う事を幽霊達が認めるはずが無い。
もし一部の研究者達が富井に働きかけて情報を流させようとしても、他の幽霊達に消滅するまで殴られ続ける事になるだろう。
『お前の正体を知った上で協力してくれる生きている人間が居れば何とかなるかもしれないけどな』
『……そうだな~両親と俺の死ぬ順番が逆だったら良かったにな』
浩太朗の含みのある言葉に気まずそうに明後日の方向を向いて答える。
『そうじゃなく生前、親しく付き合いのある女性がいれば良かったと言ってるんだよ。この甲斐性無し』
『分かってて話を逸らしてんだよ!』
『会社が倒産して時間が出来たからって、キャンピングカーで姪と二人旅に出ちゃうような奴には無理な話だったよね~』
富井は全力のオーラを込めて浩太朗を蹴り上げる。質量も空気抵抗も無い幽霊である彼は、天井をすり抜けて上空高く飛ばされた。
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