【2-2】
『それでは富井の身体の件は彼自身が人体の知識を集めつつ、自分でおいおい改良していくとして。今日は我々の味覚の件について話し合おうではないか』
二郎さんがそう切り出す。彼らにとっての本命はこちらだったのだが幽霊は生きている人間よりも少し気が長かった。
『そもそも何で俺以外の幽霊は味覚が無いんですか?』
『むしろ何で君だけが味覚を持っているのかを我々は知りたいよ』
冨井としては当然の疑問なのだが、それは持つべき者の余裕とも取られ、洋三は顔を顰めながら答えた。
『嗅覚があるのに味覚が無いのは全く理解出来ないんです。この二つは色んな意味で五感の中で他のどれよりも近い感覚ですよね?』
『まあ、そうなんだけどね』
正論で来られては洋三も言い返せなった。
『それこそイメージの力で何とかなるんじゃないですか?』
『無理じゃよ。儂も四百年幽霊をやっていて、せめて酒の味が分かるように必死に努力してきたが駄目だったんじゃ……』
二郎さんは求め続け手に入れらなかった数百年の時を思い俯いて肩を震わせる。
『二郎さん虐めるなよ。二郎さんの四百年はお前が想像するよりずっと長いんだぞ』
『そりゃあ、四百年の長さなんて俺には実感出来ないさ』
ショウ──浩太朗の言葉に富井は肩をすくめた。
『富井君。幽霊と人間とでは同じ時間でも長さがちがうのだよ』
『そりゃあ、幽霊は寝ない分一日が睡眠時間だけ長いですよね』
『そういう事じゃないんだトミー。何度も言うが幽霊は精神的な存在だ。だから実体化しない限り物理的な制約を受ける事はほとんどない。人間が脳を使って情報伝達を行い思考活動を多なうのと違って、何かを思い出すのも計算するのも一瞬の出来事だ。だからどんなに考え込んでも時間は過ぎないんだ』
浩太朗の言葉に富井は思い当たる事があった。
ヒグマと遭遇して戦い、自分とヒグマの死体を処分して車に戻るまでの時間が短かった事。眠れぬ夜に頭の中で幾ら考え事をしても時間は経過せず口の中で小さく数えて暇を潰す羽目になった事。
『幽霊は一度考え込むと際限なく深く考え込んでしまう。だから多くの幽霊はあまり物事を深く考えずにいるくらいだ。オーラの消費を抑える目的でもボケっと暮らしていればむしろ生きていた頃よりもずっと時間の流れは速く感じられるくらいだ。だが二郎さんは必死に考え込んだ』
『ちょっと想像出来ないスケールの時間だ』
富井も一つの問題とそんなに向き合えるのかと驚く。
『儂は酒を味わいたい一心で、頑張ったが駄目だったという話じゃぞ? 何か違っていやせんか?』
『それは良い話にもっていこうとしてるんだから黙っててくださいよ』
西門洋三。浩太朗の幼馴染の親友として聊かも不足が無い男であった。
『それほど考えても答えが出ないという事はつまり、答えが存在しないか問題解決へのアプローチ法に問題があるかのどちらか──そういえば浩太朗。幽霊は流行に左右されやすいとか、一から新しいものを考える事が出来ないとか言ってたな』
富井が頭を回転させながら話し始めた。
『ああ、俺達は新しい事を考えるのが苦手だから、生きてる人間の流行に乗っかるんだよ。別に頭が悪いわけじゃないからないぞ。学者連中は、理論上だけなら実用可能レベルの核融合炉の作製も技術的に可能だと言ってたくらいだからな』
『核融合炉!?』
『ああ、可能らしいぞ』
『だったら発表しろよ』
反射的に富井は突っ込むも、彼の頭の中にあるのは電気代が安くなるくらいのものだ。
『その場合はお前は大変なことになるけど良いのか?』
『俺が?』
『そうだろ。基本的に俺らは生きてる人間と言葉をやり取り出来ないから、それを発表するとしたらお前を通すしかないだろ。世界が一変しかねないほどの技術だ。その発表を行ったのはお前だ。例えばある国で物好きにも追試を行って成功したとしよう。その結果、その国はお前の身柄をさらおうとしたり、もしくはお前の姪を──』
『分かった。それ以上何も言うな。俺は自分の平穏な生活が大事だからな』
『凄い掌返しじゃな』
『発表するのは後々何かいい方法を見つけてからで良いじゃないですから、いつかきっとそんな日が来ます』
都合の悪い話はさっさと流してしまう富井。
『それでだ。俺に味覚がある以上は他の幽霊達にも味覚はある可能性が高い。だから味覚を阻害する何かがあると仮定して考えるべきじゃないか?』
強引に話を元に戻した。
『それはトミーに対しては阻害しなかったって事だな』
『我々には無い味覚と触覚だが、触覚に関しては実体化した身体を持つから触れて感じられたと考えれば自然だろう』
『そうだな……』
『ちょっと待ってくれ! 実体化した身体を持つから感じられたとするなら、味覚も食べ物を舌に触れる事が出来たから感じられたとは思えないか?』
『そうか五感は触覚も味覚も直接触れる事で感じられるが、視覚も聴覚も嗅覚もそうではない。この辺りに何かあるという事じゃな』
『そりゃあ、おかしいよ二郎さん。聴覚は空気の振動を直接鼓膜で受ける事で感じてるし、嗅覚も臭いの元になる細かい粒子が鼻の奥の嗅覚細胞とかに触れる事で感じるんだろ。この分類は意味が無いよ』
そう突っ込む浩太朗に、洋三が反論する。
『そんな事が分かったのは科学が進歩したここ百年くらいの話だ。二郎さんの時代にはさっきの分類が常識的だろう』
『あれ? それじゃあもしかして──』
『何だ富井君?』
『幽霊に味覚が無いというのはずっと昔からの話ですよね。それとも昔は感じられたとかは?』
『無いのう。儂なんかよりずっと古い千年越えの連中もそんな事は一言も口にしたことは無いはずじゃ』
『そうなら昔の幽霊達は、味覚と触覚は触れられないから感じられない。視覚と聴覚と嗅覚は最初から触れなれないから幽霊でも感じられると思い込んだのだとしたら?』
『それがずっと引き継がれてるとでもいうのか? トミー、流石にそれは違うと思うぞ』
『もう一つ聞きたいことがある。幽霊の情報ツールがガラケーから今のスマホに変化したのはどういうタイミングなんだ?』
『それはある日いきなり──あれ?』
富井の質問に答えた直後、浩太朗の表情が固まる。
『何でいきなりなんだ?』
幽霊歴一年で、その辺の事情を知らなかった洋三も疑問の声を上げる。
『そ、それは固定電話の頃から、ポケベル併用の時期を経て、ガラケー時代までも全てある日いきなりだったから……』
『それは理由になってない? 俺はどうしてお前がそれを普通に受け入れたのかを知りたいんだよ』
『最初は、いきなり流行に乗っかったように、いきなりポケベルが出てきたんだよ』
『お前はそれを変だとか思わなかったのか?』
『普通に便利な世の中になったもんだなぁ~って』
『アホか!』
これをきっかけに睨み合う二人の間に富井が割って入る。
『これは浩太朗が馬鹿かどうかなんて考えるまでも無いどうでも良い様な話じゃないんだ』
『おい!』
『それは流石に言い過ぎだろう。少しだけな』
浩太朗の味方はこの場にはいなかった。
『問題なのは浩太朗。お前がそうやって疑問に思わなかった時、他の幽霊達はどうだったかだ』
『特に文句や疑問を口にする奴なんて……どうしていなかったんだ?』
そう答えて状況の異様さに初めて気づく浩太朗。
『もしかして誰かにマインドコントロールされてる?』
『誰が? 浩太朗は神様の存在を信じてるタイプ?』
『いや幽霊がいるんだからそういうのも否定出来ないだろ』
『それにしてもいきなり神様は無いだろ。可能性は他にもある』
『例えば?』
『それこそ思い込みだ』
『富井君。流石にそれは無理が無いか?』
『単に個人の思い込みじゃなく、幽霊全体としての思い込みと考えたらどうです?』
『それはユングの集合的無意識という奴かのう?』
『さあ、ユングもフロイトも名前くらいしか知りませんので、しかし気になるのは常識、道徳、法律、信仰、文化などの人間が共有する知識では説明出来ない。例えば幽霊は無意識下の奥底で繋がりあっているという可能性です』
『それは流石に……ある日、全ての幽霊の手にポケベルが届き、それを不思議に思う事も無いのか、あり得なくもないし神様を持ち出すよりは説得力があるか』
真面目に考えさえすれば幽霊と言う存在は話が早い。
『しかしのう、もしそうじゃとするならば幽霊全てが繋がった巨大な無意識が変わらない限りは、ここで我々が原因を突き止めても味覚を手にする事は出来ないのじゃろ?』
『それじゃあ絶望的じゃないか』
『甘いなサイモン。巨大な無意識か何か知らないが、それをひっくり返す方法はある』
『何だって!?』
驚く洋三と二郎さんに浩太朗はスマホを取り出し叫んだ。
『こいつで全ての幽霊に情報拡散してやれば一発だよ』
『確かに、そうすれば俺達が思い込んでいた味覚に関する常識も揺らぐだろう。だけどそれだけでひっくり返す事が出来るのか?』
『誰が情報公開だけでひっくり返すと言った?』
『それじゃあ何を?』
『情報の後に、俺達三人もこの事を理解し味覚は必ずあると強く確信して試したら味を感じられたと言えば効果倍増じゃない?』
『嘘かよ! お前』
『嘘も方便だよ。ほ~ら送信!』
止める間もなく、浩太朗は送信ボタンをタッチした。
『うわ、馬鹿お前っ!』
叫ぶ洋三のスマホも浩太朗のメールを受信する。
『こ、こやつ、本当に一斉送信するとは』
呆然とする二郎さんに『これって不味いんですか?』と富井が尋ねる。
『これが成功するしないに関わらず常しえに語り継がれるほどの暴挙じゃよ』
『普通、0チャンネルにスレ立てするだろ』
実際、自分の件もそう発信されたので冨井も肯く。
『これは全世界同時メール配信だから意味があるの。こんなもの送られて来たら全員何事かと確認する。そこに意味があるんだよ』
『確かに繋がった巨大な無意識に強い影響を与えるならこの方法が正解だが……お前、これは仮説に過ぎないって理解してるのか?』
『……えっ?』
そう言って浩太朗は硬直する。
『えっじゃねえよ。これは間違いだった。永遠にお前の名前の上に「馬鹿」が付く事になるぞ。そんなのに俺を巻き込むな』
『もう少し、話をつめてからやって貰いたかったの』
二郎さんが肩を落とす。
その結果は彼らは味覚を獲得していた。
『しょっぱくて、しょっぱくて、醤油の味がこんなにも嬉しいなんて』
『生きていた頃には想像も出来なかった感動だ!』
そんな浩太朗と洋三に対して二郎さんは『これが、これが憧れの醤油の味なのか!』と小さく静かに感動している。
幽霊歴四百年を優に超えるに二郎さんは醤油以前の「たまり」さえも味わった事が無かった。
日本人にとって伝統の味とすら呼ばれる醤油の味すら知らずに過ごした彼の幽霊としての日々は苦渋と言うべきものだったのだろう
感動に打ち震える姿は静かだが、その思いの深さは二人の比ではなかった。
『頼むからそろそろ、テーブルの上で四つんばいになって小皿の醤油を舐めるのは止めてくれないか? 気持ち悪いんだ。凄く気持ち悪いんだ』
ちょっとしたホラーな光景に、富井は自分も幽霊なのに嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
『止まらん!止められないんだ!』
『この舌からガツンと伝わるしょっぱさという電気信号が脳に伝わる快感を俺には止められないんじゃ!』
『こんなに美味いものだったのか、みんなにも味わせてやりたかった』
『最初は、どうせならちゃんとした食べ物を出せとか文句言ったくせに』
『そうだ! こんなところで醤油なめてる場合じぇねえ! もっと美味い物を味わいに行くぞ!』
そう叫んで飛び出していった浩太朗に二郎さんと洋三も後を追って飛び出して行った。
余りにも素早い三人の行動に富井も制止が間に合わなかった。
その後、僅か一日も経たずに幽霊には味覚があるという認識は世界中の幽霊達に広まるのだった。
同時に触覚も獲得できるようになった幽霊達だが、触れないのに触った感覚と更にすり抜けた時にも感じてしまう感覚に不評だった。
数か月後、幽霊が多く出没するポイントが以前の匂いを楽しむための酒類を提供する店から、食事を提供する店全般に広がった事で、多くの人達には何の影響も無いのだが、ごく一部の幽霊が見えてしまう人間達がネットで騒ぎ始める事になった。
酒場なら酔っていたで済まされた話が、素面の相手に通じなかったのだ。
しかし、それだけならまだ良かったのだが味わう事に夢中になり過ぎた幽霊達は、気合が入り過ぎて物理的干渉をも引き起こして、手も触れていないのにグラスの中の酒が不規則に波立ち始める動画などが投稿サイトに幾つもアップされる様になり、テレビなどのメディアも取り上げたために心霊現象が大きく社会現象化してしまうのであった。
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