【1-8】

「……縁?」

 意識を取り戻した富井の第一声は姪の名前だった。

「何じゃこりゃ!」

 第二声は、真っ裸で立ち尽くす自分の姿への驚きの声。

 そう彼はパンツ一枚つけず、裸足であった。

「何なん何だっ!」

 第三声は、仰向けに倒れているヒグマの死体の上に被さるように倒れている──どう見ても自分の姿への驚きだった。

 恐る恐る近づいてみる富井。うつ伏せになっていて顔は見えないが背格好、服装、髪型は間違いなく富井のものだった。

 しかし富井にとっては深く引き裂かれた背中や首の傷はかえって現実味を感じられなかった。


「誰だこいつ?」

 様々な不安や疑問を感じつつも、目の前で倒れている……多分死体であろう男を自分だとは思うことなく、その顔を覗き込んで、そのまま腰を抜かしたかの様に尻餅をつく。

「お、俺? 俺の顔!」

 紛うことなき己自身の顔。

 人の顔を憶えるのが苦手な性質の富井だったが、流石に自分の顔を見間違えるはずもなかった。

「何だっていうんだ!」

 状況を飲み込めない富井は、死体の身体を詳しく確認していく。

 どう見ても、否触っても作りものではなく人体かつ死体と判断せざるを得なかった。

 さらに手の甲の傷痕や首元の黒子の位置からイチモツの皮の余り具合まで自分の身体である事は疑いようもなかった。


「これが俺の身体だというなら俺は一体何なんだというんだ? ……俺は俺だ。こんなに考えても分からないもの考えても仕方ないか」

 ほんの一瞬黙り込んだだけで「こんなに」とは精神に異常を来したのかもしれない。

 話も妙に悟りきったようなことを口にしており、まるで人が変わったかの様に一瞬前までその顔に浮かんでいた苦悩の色が、無いとは言わないがほとんど感じられない。

「この死体が俺だというなら、この死体は発見される訳にはいかない……だが埋めるのは無理だな」

 人一人なら埋めるのも無理ではないが、ヒグマの死体、しかも普通の死に方ではない。その近くに何かを埋めた跡があれば掘り返され確認される可能性が高いのでヒグマの死体も埋めるとするとどれほどの時間がかかるか分からないだろう。

 こんな状況で、富井は冷静にそこまで判断した。



 富井は自分の死体のポケットからスマホを抜き取り、地図アプリを使って周囲の地形を確認する。

「この先は崖だな……よし捨てよう」

 仮にも自分の死体を捨てるという判断をありえないほど即決。やはり頭のネジが何本も飛んでしまったのだろう。

 そのまま自分の死体に手を伸ばすと、着ている衣服や靴をすべて脱がせて、破れて血塗れな上着やシャツを除き、躊躇う素振りすら見せずに淡々と身に着けていく。


 全裸の変態から上半身裸の不審者にレベルアップした富井は、ヒグマの死体に近づくと「さてどこを掴めば引きずりやすいか……」と呟きながらも全く動きを止める事無く、ヒグマの頭の方に近づくと顔へと右腕を伸ばして、ヒグマの左眼窩に人差し指から薬指の三本を突き刺し、眼窩の鼻梁側の縁に指を掛けよ──突然、ヒグマの身体が跳ね上がり吠えた。

 間髪入れずに身体を右回転で捻りながら振り上げた左腕が唸りを挙げて富井の左太腿の外側に襲い掛かるが、彼は全く動じた様子もなく、軽く左の膝を上げて避けて見せた。


 あり得ない反応速度だった。

 一般に人間は状況を認知してから四肢が動き出すまでにコンマ五秒がかかると言われている。

 周囲の状況に気を配り、発生し得る可能性を想定し、それに対する行動を予め決めて身体に憶え込ませたとしてもそれを半分にする事は難しいだろう。

 だがそれ以上ともなれば第六感などのオカルティックな世界の扉を開く必要がある。


 だが富井の示した反応速度はオカルティックの一言で済まされる領域ではなかった。

 ヒグマが動き出した瞬間、富井の顔が驚きの表情を作り出そうとするよりも先に身体は反応していた。

 つまり、予測も無しにラグタイム無く反応して見せたのだった。


 空振った左手が地面に激しく叩きつけられると同時に、左脚の膝から下を鋭く振り出しヒグマの砕けた鼻に再び蹴りを入れた。

「?」

 速さは申し分無いどころかそれ以上だったが、その一撃は軽かった。どちらも蹴った本人が驚くほどに。


 痛み以外に何のダメージも与えていないと判断した富井はその場を素早く飛び退く。

 ヒグマは鼻は潰れ、喉からの出血で呼吸もままならない状況でありながらも立ち上がった。

「これだから獣は」

 人間相手の理が通用しない事に、そう悪態を吐きつつも自分の身体の異変を自覚せざるを得なかった。

 身体が軽い。体調が良い事の比喩的表現ではなく物理的に軽いと確信している。

 しかし、そんな馬鹿気た事を口にする事はアラサーの彼には恥ずかしくて出来なかった。出来ない代わりに悪態を吐いた。


 その後も、ヒグマの攻撃を避けつつ、攻撃を加える事を繰り返すが、この状況を打開する糸口さえも見つからない。

 就職してからは忙しさにかまけて、山登りどころかジョギングもスポーツジムで汗を流す事も全くしてこなかった彼なのに未だ息は切れていない。


「どうするんだ? ちくしょう!」

 決して追い込まれている訳ではないのに次第に富井の心に焦りが募っていた。

 縁を車中に残し離れてからの時間が気になっていた。

 ヒグマと相打ち状態で意識を失っていた時間。そして自分の死体を発見して混乱していた時間、それらがどれくらいになるのか? 待ち疲れた縁が車を出てこちらに来たら? 最悪の自体が頭を過り、目の前のヒグマに集中する事が出来なくなってきている。


 自分よりも先にヒグマの動きが鈍り始めてきたのを感じた富井は、攻撃を止めて回避に専念する。

 自分の軽い攻撃が全く効果が無いのなら、より多くヒグマに攻撃をさせて体力を奪い、より動きを鈍くさせる作戦。

 これが最も早く勝負を決する方法だと判断したのだった。

 そしてその判断は正しかったのだろう、少しずつ動きが緩慢になっていくヒグマを展望台の下の擁壁の傍へと誘導すると、隙を見て擁壁へ走り、飛んで三歩駆け上がって右手を伸ばし、展望台の縁から僅かに顔をのぞかせている麦わら帽を引っ掛けて取ろうとした枝を掴むと壁を蹴って後方へと跳んだ。

 ヒグマの頭上を飛び越える瞬間、ヒグマの後頭部の毛を掴んで勢いを殺し、その背中に着地すると同時に右手の中の枝の先をヒグマの右目へ突き入れた。


「くそっ!」

 枝先に硬い何かがぶつかった感触に叫ぶ。

 ぶつかったのは眼底骨の部分だが、人間の眼底骨とは比較にならない強度を持つ。

 人間の眼底骨の薄い部分を下から突き上げるように突けば、骨を貫通し脳に達するが、ヒグマの場合は木の枝程度の強度で貫ける部分の先には脳はない。


「なら鼻だ!」

 富井は骨が砕け肉が熟れた柿のようになった鼻へと枝先を向けて一気に突き入れ、更に枝の反対側の先を力の限りを込めて掌底を打ち込んだ。


 ヒグマは大きく身体をビクンと振るわせると身体中から力が抜けたように地面に沈んだ。

 多くの哺乳類にとって最も脳にアクセスの良い器官は鼻である。一部の寄生虫は鼻から入り嗅神経を伝って脳に寄生するほどであり、細菌・ウィルス・寄生虫に取って、ここまで不用心な脳へのルートは他には無い。


 それは物理的な攻撃に対しても同様であり、ヒグマにとって分厚い頭蓋骨にも筋肉にも守られていない脳への直線ルートで最短はなのは鼻腔穴である。

 そして、その事は空手部顧問の大島から聞かされていたのだった。




 ヒグマと自分の死体を崖の下へと処理し終えた富井は車へと戻る。

「流石にアレはきつかった」

 自分の死体が発見されても身元が分からなくなる様に顔面を岩に叩きつけて砕き、更に可能な限り歯を集める作業の事の事だが、作業の内容自体よりも淡々としている自分のメンタル面のタフさに驚きを感じていた。



「ヒロちゃん! おそいよ!」

 車に近づくと車の中から窓を叩きながら縁が頬を膨らませ口を尖らせ怒っている姿が、富井にとっては肩の力が抜けるほど微笑ましかった。

 笑って手を振ると、後ろに回ってリアゲートを開けて、待ち構える縁の頭に麦わら帽子を乗せた。

「ヒロちゃんどうして裸なの?」

 ヒグマに引き裂かれて血だらけのTシャツや上着は丸めて左手で抱えている。

「いや、帽子を取ろうとして降りた時に転んで汚れたから脱いだんだ。すぐに着替えるから離れててくれないと縁も汚れちゃうよ」

「……うん」

 今にも飛び付こうとしていた縁は不満そうだが納得はしたようで小さく頷いた。



 着替えを終えて運転席に座った富井が固まる。

 彼の視線は時計に釘付けであった。

『……時間がおかしくねえ?』と口にせずに胸の裡で呟いたのは褒めても良いだろうと自分を褒める。


 展望台の駐車場に車を停めて、降りる時に見た時刻と今確認した時刻の差が二十分間しかなかった。

 縁と富井自身がトイレで費やした時間は七・八分間といったところだろう。

 戻ってきて着替えた時間は、道から見えないように車の陰で手早く着替えたが三分間は掛かっただろう。

 他にも麦わら帽子を拾おうと格闘した時間を一分間として、ヒグマと自分の死体を処理する時間に五分間以上。

 ヒグマとの戦いは精々三分間なので、二十分間という数字に問題はないように思える。


 しかし、富井にとってはこの数字には大きな問題があった──『おかしい、結構悩んでたよな? 縁の事も忘れるくらい本気で、かなり悩んだはずだ……ヒグマにやられて死んだ後、この身体になって目覚める間の時間がゼロだったとしても、十分やそこらじゃ足りないほど悩んだはずだ』

 つまり彼の認識では最低でも十分間以上の時間が消し飛んでいるのだった。


「ねえ、何かあった?」

 移動中、珍しく寝ずにいる縁が、不思議そうに首を傾げながら尋ねる。

「ん、どうして?」

 富井は動揺しつつも、何とか顔に出さず返事をした。

「なんか違うの」

「違うって、どういう風に?」

「わからない~の!」

「じゃあ、俺もわからない~の」

「マネしちゃダメ~!」

 怒る縁を愛でつつ、話が逸れてほっとする富井だったが、こんな状況が何時までも続くなどと楽天的な事は彼には考えられなかった。

 死んだはずの自分と物理的に本来の体重の半分もないだろう身体。

 これが奇跡だとするなら、そんなものは長くは続かない。神か悪魔が与えてくれたのか知らないが、この身体を維持し得る残された時間を縁の為に有効に使わなければならないと思うのだった。


 このまま車で帰るのも時間の無駄だと判断した富井はこのまま千歳に行って、空港に車を乗り捨てて飛行機で東京に戻ろうと決意する。

「縁、帰りは飛こ──」

「フェリーに乗るね? また探検しようね」

「そうだね」

 期待に目を輝かせている姪に対してNOを言えない駄目な大人だった。

「こんどは南の方に行くんだよね楽しみね~」

 これで車を途中で乗り捨てて空港から飛行機で帰るとも言えなくなってしまうのであった。

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