【1-7】

 北海道上陸十五日目────


 明日のフェリーで北海道を離れる予定であり、函館への移動日に富井は──ヒグマと対峙していた。



 道沿いのトイレのある展望スペース(景色の良い場所にある駐車可の標識のある広い駐車帯)に立ち寄り、縁と二人で用を足し車に戻ろうとした時に強い風が吹いて縁が被っていた麦わら帽子が飛ばされて柵の向こう側に落ちてしまった。

 富井は縁を車に乗せると「拾いに行くから中で待っててね」と告げて、ドアを閉めて柵に駆け寄ると下を覗き込むと、展望台の平面のスペースを支えるコンクリート製の擁壁の風化してザラザラとした壁面に麦わら帽子は引っかかっていた。


「届くかな?」

 手を伸ばせばギリギリ届きそうな位置だったので、アスファルトの地面に左手と両膝を突いて柵の隙間から下へと手を伸ばすが、どう頑張っても麦わら帽子の鍔は伸ばした指先の三センチほど先にあった。


 立ち上がり何かないかとあたりを見渡す富井の数メートル先に枯枝が転がっていた。

 拾い上げてみると、かなり真っすぐで長さも太さも十分以上だった。

「これならいける!」

 枝を片手に自信満々に再び四つん這いの姿勢になった富井は数秒後、下へと落ちる麦わら帽子に「あぁぁっ!」と情けない声を上げるのだった。



「結構下に落ちたな」

 五メートル以上も下の草むらの上に水色の麦わら帽子を見つけると、枝を置いて柵を乗り越えてコンクリートの壁面を滑り降りる。

「上手い事、草むらの上に乗ったから汚れは無いな」

 麦わら帽子を拾い上げて確認している最中、ふと視線の端に見たくなかったモノを見つけてしまう。

 大木の樹皮に刻まれた熊の爪痕。

「おいおい、展望台は熊が出ない安全な場所に作れよ」

 当然安全な場所に作った。しかし後に安全ではなくなった。そしてそれが今だという事だった。

「糞っ、冗談じゃねえぞ!」

 背後に気配を感じて振り返る富井の目に飛び込んできたのは岩のように大きな黒い塊。


「最悪だ」

 富井の背筋に冷たいものが走る。

 背後のコンクリートの壁面に足を掛け、蹴って伸び上がれば柵に手が届く自信はあるが、壁に向かって助走してからでないと壁に足を押し付けて摩擦を得る力が得られないが、当然助走の距離をとる暇も与えられそうもなかった。


 富井の脳裏に中学時代の思い出が過る。それは「走馬燈の様に」というべき奴だった。

 彼は父親の仕事の都合で中学時代の三年間を過ごしたのは北関東のS県。

 平成の世も終わろうとしている時代に、未だ平成よりも昭和が幅を利かせている日本のガラパゴスともいうべき不思議な土地。そして必ず最後に決して埼玉県ではございませんと言われる場所。


 中学校では彼は空手部に所属していた。

 その顧問であり恩師──否そんな上等なモノではない。「おんし」と呼んで「怨師」と書くべき男の言葉が脳裏を過る。

「お前ら程度でも上手く立ち回れば、ツキノワグマ程度なら無傷で撃退することは出来る。命をやり取りする覚悟がなら仕留める事も出来るかもしれない。所詮は山菜取りの爺さん婆さんに撃退されるニュースが毎年の様に報じられる程度の生き物だ。だがヒグマはそうはいかない。生息域が同じならツキノワグマを好んで餌とするような奴だ。お前らじゃどう足掻いたってヒグマの命に手は届かない。だから回避出来る距離なら慎重に回避しろ。それが一番だ。もし回避が無理でも距離があるなら全力で逃げろ。山ならば後先考えずに下れ、命の限りを尽くして下へと走れ。走るのも木に登るのも熊の方が速いが、唯一斜面を下る速さだけは熊に勝てる可能性が残されている。そこに手前ぇの命を一点賭けしろ。そして逃げられないなら小細工せずに正面から立ち向かえ。ヒグマと言えど自然界では計算高くなければ生き延びられない。野生の本能は一定以上の怪我は避けるよう獣へ命じる。だから一発目でヒグマが、こいつはヤバいと思うような一撃を食らわせてやれ。お前らの戦力を見透かされる前に危機感を煽り捕食の意図をへし折ってやれ。一番割の合わない賭けだがそれしかねえ」

 これは毎年夏に行われる空手部の合宿で、富井が毎年空手部の顧問の大島から聞かされた熊への対処法だった。


 ちなみに合宿場所は良く熊の出る山の中で、富井は実際に顧問の大島がたった二撃でツキノワグマを殺す場面を見たことがあった。

「人間じゃない──もともと人間だと思ってなかったけど」

 富井はその所業に恐れ戦きそう呟くしか出来なかった。



「まさか、奴の教えを実践する事になるなんて……」

 富井は腹を括った。

 富井がここでヒグマに殺されたとしても車の中の縁は安全でいられるかもしれない。

 だが戻ってこない富井を探しに車を降りれば命はないだろう。そしてその可能性はかなり高い。

 縁を守るためには命を懸けてでもヒグマを確実に撃退するしかないと覚悟するしかなかった。


 富井を警戒しつつもゆっくりと距離を詰めてくるヒグマ。

 ヒグマとしては大型ではないが、それでもツキノワグマとは比較にならない重量感を受けて体中の毛が逆立つ。

 だが恐怖を感じつつも、その場を一歩も動かずにヒグマから視線を外さない。

「狙いは一瞬」

 自分に言い聞かせる。

 ヒグマは富井を自分の間合いに入れると足を止め、力を蓄えるように身体をさせる前傾させた。


 次の瞬間、大砲で打ち出されたかのようにヒグマの巨体が前へと出る。

 富井の頭の中でイメージが浮かぶ。

 それは古来より戦場の決戦兵器として近代に入るまで君臨した重騎兵による突撃を、たった一本の槍で受け止める槍兵の姿。

 石突に取り付けられたピックを地面へ突き刺し、更にピックが突き刺さった地面を片足で踏み押さえ槍を前に構える。

 そして人馬一体。一個の塊として突っ込んでくる圧力にも屈せず、その場を一歩も引くことなく穂先を向けて立ち向かう。

 そんなイメージのままに己の右足の親指の付け根で石突のごとく大地を捉え、繰り出す脚は右足の付け根から左足のヒグマの鼻を捉えた踵まで、まるで槍のように一直線に伸びた。


「くっ」

 一センチと後退することなくヒグマの突進を受け止めた。

 その代償は股関節、左大腿骨の大腿骨頭の根元部分が折れ、また同じく左の踵骨に亀裂が入った。

 一方、ヒグマのダメージは己の全力により生み出した前へと突進する力のすべてを鼻の一点で受け止めたに等しいものであり、その衝撃力は頭蓋骨の上顎部分に富井の左足の踵がめり込むほどに砕いた。


 作用と反作用、それは富井とヒグマの双方に重大なダメージを与えたが、致命的という意味ではヒグマの方がより深くダメージを受け、自然界での今後の生存は望めないレベルであった。

 それは富井にとって完全に誤算である。


 ヒグマが本能として避けるべき怪我の範疇を大きく振り切っており、生き残る為の計算など必要のない段階へと大きく踏み込んでいた。

 ならばヒグマには、その煮えたぎる様な怒りを目の前の相手に叩きつける以外の選択肢は残されていなかった。


 目の前の、己にとって最後となるだろう不遜な餌を食い殺さずにはいられない。その感情が命じるままに、受けたダメージなどすべて無視し、素早く後ろ足で立ち上がると右腕を一閃した。

 そして富井の損傷した脚にはその攻撃を避ける脚力を生み出すことは出来るはずもない。

 ヒグマの爪の鋭い一振りは富井の胸を切り裂く。

 鮮血が宙を舞い、同時に抉り取られた皮膚と肉が飛び散った。


 富井の頭の中に再び中学時代の記憶が蘇る。

 顧問の大島は最悪の教師であったが、指導者としての能力は優れていた。

 生かさず殺さずを地で行くような過酷な指導ではあったが、指導を受けた部員達も中学生にして人間を超えた領域に片足を突っ込みかけているような連中ばかりであった。

 そんな中で富井は同級生の中で一番弱かった。

 大島からは「間抜けだ」「うすのろだ」「才能がない」とありとあらゆる罵声が飛んだ。

 それでも富井は空手部を辞めなかった。大島も彼を辞めさせなかった。

 それは単に校則で部活は強制で、一度入った部からは抜けられないという理由だった……何処にも良い話になる要素が無かった。


「こんな時に、何を思い出してるんだ俺は!」

 自分への怒りと、くだらない校則への怒り、S県に転勤させられた父への怒り、父を転勤させた会社への怒り、顧問の大島への怒りと顧問の大島への怒りと顧問の大島への怒り……が爆発する。

 怒りにより復活した気力が、倒れそうな身体を踝が砕けた左脚一本で踏み止まらせる。

 怒りに我を忘れて両腕を振り回すヒグマに対して、身体を地面に投げ出し、全く利かない左脚を抱え込んで前転して距離を詰める。そして回転力を利用し背筋のバネで起き上がり様に両腕を胸の当たりの毛皮を掴んだ。

 そして何とかいう事を聞いてくれる右脚の脚力に腕力と背筋力を上乗せして、ヒグマの下顎の先端へと頭突きを食らわせた。


 下顎の先端に加わった突き上げる衝撃を受け止めるはずの上顎の先端の骨は砕けており意味をなさなかった。。

 砕けていない上顎の根元部分の骨が視点となり、下顎の先端に加わった衝撃は作用点である顎関節へと達すると、顎関節は骨折する事こそなかったが脱臼、つまり顎が外れた。


 一方で富井も代償を支払う事になる、額は大きく割れて頭蓋骨に砕けていた。

 薄れていく意識の中、富井は右腕を伸ばして、閉じることすら出来なくなったヒグマの口の奥へと突き入れる。

 伸ばした指が口腔内から食道へとカーブする喉の壁面に触れると、人差し指と中指の二本を立てて指剣を作るとその肉の壁を貫く。

 そして肉の中に埋まった指先を曲げて引っ掛けた肉を引き千切りながら引き抜く。

 閉じられなくても痛みに暴れた事で腕を何度も牙で抉られても、止めることなくその動作を何度と繰り返している間にヒグマは溢れかえった血によって呼吸を遮られ抵抗する動きを止め、後ろへと倒れ込んだ。


 最後に富井の胸に去来するのは、大島に無理だと言われたヒグマを倒し縁を守れたという達成感と──

「……早く、戻らないと……縁が……寂し……が…………俺が……縁をまも……………」

 ヒグマと折り重なるように倒れる富井、その背中や首の後ろには何条もの爪痕が走り、彼が立っていた場所には流れ落ちた大量の血液によって血だまりが出来ていた。

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