【1-6】

「ヒロちゃん! 朝だよ。起きようよ」

 前日夜更かししたのにも関わらず早起きな縁が、まだ夢心地の富井の頬を叩いて起こす。

 ぺしぺしと叩かれても痛いとは思わないだろうが、目を覚まさせるには十分な刺激だった。

「……おはよう~ゆかり~」

 昨日の疲れが抜け切れていないのは歳のせいなのか? そう自分に問いかけながら時計を見る。

「……まだ五時前じゃないかぁ~」

 現在の時刻を知った富井の悲痛な声が口を衝いて出る。

 彼の疲れは睡眠時間が不足していただけだった。


「だって起きちゃったんだよぅ~」

 シェードで窓を塞いだ車内は暗く、一人で起きているのは心細かったようだ。

 天井に設置されたLEDライトへサブ電源から電気を供給し、明るくなった車内に笑顔を浮かべる縁を見ながら『今日は函館から移動しないで早目に寝よう……宿で』と車中泊の旅二日目にして考え始めるであった。



「縁、朝は何を食べたい?」

 着替えを終えて尋ねる。

「う~んとね……パンが食べたい」

「そうか、パンが良いか」

「うん! それから昨日のちーずケーキも食べたい」

 確かに日持ちするとの事でラウンド売りのチーズケーキを買ったのがまだ残っている。

 早く起きたので朝市で市場飯を食べるのもありだと思っていたが、それはオッサンへの入口に立つ自分の好みであって三歳児の趣味じゃないだろうと諦める。


「この時間だから、コンビニのパンでも良いかい?」

「ゆかりね、ぶんぶんのめろんパンが食べたい」

 ぶんぶんとは、疑いようもなくセ「ブン」イレ「ブン」の事だが、これは「ひろちゃん」と同じく彼女にとって発音しやすい音だけが残った「ゆかり言葉」である。

「ああ、ぶんぶんのメロンパンはおいしいよね~」

 まだ眠気が抜けず目をこすりながら富井は同意した。

 予定を繰り上げて七時四十分の便に乗って函館へ向かう事に決める。既に早くホテルにチェックインしたいと思いつつ……



 展開していたベッドを元に戻し準備を済ませると道の駅「ゆ~さ浅虫」を後にし、途中、コンビニに寄ってトイレと朝食の買い物を済ませてフェリーターミナルに向かう。


 フェリーターミナルに到着したが、まだ受付開始前だったので先に車内で朝食を済ませてしまう。

 歯磨きを終え、デザイナーが妙に頑張ってしまった感のあるターミナルビルに向かうと、六時十分の受け付け開始時間を待って手続きを済ませてから車に戻る。



 乗船開始時刻が来て車ごとブルードルフィン号に乗船する。



「おっきなお船だね~」

 船体に近づいて改めてその大きさに縁が声を上げる。

「そうだね~」

 富井としては船腹の高い場所にある車両搬入口を目指してスロープを登って入るものと思っていたのだが、ブルードルフィン号は船尾の低い位置に車両搬入口があるので何の傾斜もなくあっさりと乗り込んでしまい「乗り込んだぞ!」とテンションが上がるような事もなくちょっとがっかりしながら答えた。

 だが彼自身も全長百メートルを超すような大型船は初めてで、船に乗った経験と言えば釣り船と湖の遊覧船くらいだった。



 船内に入った富井は最低限の荷物だけをもって車を降りると、早くスタンダードグレードの雑魚寝部屋で仮眠を取りたかったのだが、初めてのフェリーにはしゃぐ縁がそれを許さなかった。

「こっち~!」

 何か見つける度にグイグイと富井の手を引いて走り出す。こんな小さな体のどこにこれほどの力があるのかと思うほどトルクフラな走りだった。


「テーブルがたくさん置いてあるね」

「ここはプロムナードだね」

 船内案内図を見ながら説明する。

 単に廊下の窓際にテーブル席を並べただけなのにプロムナードと呼んで良いのか疑問だったが、それを口にはしない大人の配慮はあった。

 しかし縁から「ぷらむな~の?」と聞かれると答えない訳にもいかず「お散歩する道の事だよ」と答えた結果「おさんぽ~?」と三歳児とは思えない悩まし気な表情を浮かべた後「ろーかだよ」と言葉のド直球を投げてきた。

 これには近くにいた清掃スタッフも苦笑いだった。


 結局、三時間四十分の船旅のほとんどを船内探検に費やし、スタンダードルームは一度、入口から中を覗いてみただけで中には一度も立ち寄る事は許されなかった。

 下船準備を知らせるアナウンスが入る前に電池が切れた様に活動を停止した縁を背負って車へと戻る富井の胸中には納得の出来ない気持ちがぐるぐると渦巻いていたのは仕方のない事であろう。


 そして車中の待ち時間にその思いを写真に込めてインスタにアップするのであるが、元々カメラは持ってきていたのだが、今までこれと言って撮影ポイントが無く、旅を開始して以来、食事の写真を除けば搭乗前のフェリーの外観と船内の写真しか撮っていなかったので全く反響は無かった。


「ほっかいどう~でっかいどう~!」

 チャイルドシートの中から最後の力を振り絞って発せられた縁の眠たそうな掛け声とともに北海道上陸を果たす。

 そして彼女は自分の仕事は終わったとばかりに満足そうに眠りに落ちるのであった。

「このやるせなさは父さんも母さんも、兄貴も義姉も通った道なのだ。諦めるんだ裕」と自分に言い聞かせるしかなかった。



 フェリーでの移動中に一睡も出来なかったので今日は移動する気が無いので二日目にしてホテルを利用すると決意した富井。

 紅葉の時期も過ぎ、しかしまだ冬とは呼べないオフシーズンに当たるこの時期の函館のホテル料金は結構安い。大人二人でツインルーム食事なしが下手なオートキャンプ場を利用するよりも安上りになるほどで、むしろオートキャンプ場の料金設定に疑問を感じるのだった。

 函館は北海道民にも人気観光地で周辺には人気のある温泉地も多く、車中泊の旅でカギとなる国道沿いの道の駅が混雑しており車中泊が難しいというネットの書き込みもあった。


「折角だから贅沢に行こう! ラビスタ函館ベイ。君に決めた!」

 有名観光地なら幾らでも美味しい店があるので、無理にホテルで食事をする必要はないというが富井の持論だが、それでも日本で何位とか具体的な数字を出されると持論なんて関係なくなってしまう男である。


 当然の様にネット予約で一部屋大人一名幼児一名で予約を入れようとするが、人気ホテルは当日予約は無理だった。

「……まあ、そうだよな。テレビで紹介されて俺も知ってるような朝食の美味さでは日本で三本の指に入る人気ホテルがオフシーズンとはいえ当日予約なんて無理だよね~」


 だがこの結果は予想していたのでそれほどショックではなかったようだ。

「しかしだ、同じく朝食の美味しさランキングで日本で五本の指に入ると言われながらラビスタから近すぎる立地条件のせいで何となく負け犬感が漂ってしまう函館国際ホテル。君に決めた」

 失礼なことを言ったせいで罰があったのか? いや単に必然的に満室だった。どちらにして人気店なのは変わりないのだから。


「どっちかには泊まれると思ったのに」

 今回は富井もショックを受けた様だ。函館のホテルと聞いて真っ先に思い出した──テレビで紹介されて覚えていたのはこの二軒のみ──二つとも外してしまったのは痛かった。

 ネットでホテルを探している内に、どうせホテルに泊まるなら奮発して美味しいものを食べようと自分で勝手に期待のハードルを上げただけに余計にショックだったのだ。


 改めてネットで探してみると、この手のランキングには北海道のホテルが沢山ランクインしているが、他にランクインしているホテルは一番近くて小樽。そして多くのホテルが札幌で、その他は道東にある。

 日本人の一般的感覚としては「単に県の東側でしょう?」と思うかもしれないが、函館から道東エリアは自動車で通れるルートでは最短でも遥か四百キロメートル以上彼方である。


「そんな遠いのか殺す気か! もう良い明日の朝は朝市だ。縁と一緒に生け簀でイカ釣ってそれをイカソーメンにして食べるんだ!」

 三歳の子供がイカソーメンで喜ぶのか? むしろ明日も朝はパンと言い出すのではないか? そんな疑問が浮かぶような余裕はもう彼には残っていなかった。



 結局は函館駅近くの普通のホテルのシングルルームを予約する。

 しかし現在時刻はまだ正午少し前だったので、チェックインの前に昼食を取る事にするのだった。


「昨日寿司を食ったし、明日は朝市で海鮮になるだろうから肉だな……北海道で肉と言えばジンギスカンだけど函館でジンギスカンが美味いとかは聞いたことない。まあ焼き肉系のランチバイキングで良いか」

 大人の富井と三歳の縁の組み合わせの場合、意外にバイキングが丁度良かったりする。

 普通の店で注文すると縁の食べる量が少なすぎて二人前を注文出来ず、富井が大盛りで注文して縁と分けるのは大人と子供の食べ物嗜好の違いから、富井ばかりが妥協することになり、毎度毎度では辛さが募るばかりである。

 その点、バイキングならそれぞれが好きな分、沢山の種類を食べることが出来るので二人の嗜好の違いが問題になる事もなく栄養面でも安心出来た。

 また三歳の縁の場合は通常料金の半額の子供料金の更に半額の幼児料金になる場合もあり料金面でのメリットもある。

 その上、その手の店は最初から子供連れ歓迎である事が多いので気分的にも楽だった。


 フェリーターミナルから数百メートルのところにある焼き肉バイキングの店で昼食を済ませたが、チェックインの時刻にはまだ間があったので観光名所の函館山へと向かう。



「うわ~高いねヒロちゃん」

 その感想に、やはり風景自体をどう感じるかまでの感性はまだ育ってないのだろうと思う。

 だが育っていないから景色を見せる必要はないではなく、育てるために色んな景色やモノを見せていかなければならない……そんな事まで「縁ちゃんQ&A」には記されていたのだった。

「義姉さんは一週間の旅の間に俺に何をさせる気だったんだろう?」

 真剣に悩むのだった。


「ここみたく、あっちの広い場所から飛び出た小さな島の事を、陸繋島というんだよ」

 感性を育てるというのは自分には荷が重いと分かっている富井は先ず知識を教えることにした。

「りくけいとう?」

「そうだよ。陸から繋がった島って意味なんだよ。そしてこの山とあっちの陸を繋いで左右を海に挟まれたあの辺はトンボロというんだよ」

「ドロンボー?」

「トンボロ」

「トンボーロー」

「惜しいトンポーローだね。よく知ってるね偉い偉い……って違うよ。トンボロだよ」

「そうか~」

 笑顔で答える縁だが、単に叔父に構ってもらえる事が嬉しいだけで話自体にはそれほど意味は感じていないのは富井も理解していた。

「今は分からなくて良いよ。次に誰かから聞いた時、そういえばどこかで聞いた事のある言葉だなと思えればそれで良いんだ」

 全ての知識を深く理解し正確に憶えるのが理想だろうが、知らないのと思い出せないのは全く違う。

 人間は忘れていて思い出せなくても、関連する知識に触れれば心の底で何かが引っかかる事に気づく事が出来る。

 何かが心に引っかかり疑問に持てば改めて調べる機会を得ることが出来る。そして疑問を持って調べた知識は一生ものであると富井は信じる。


 知らないという事は、様々な状況で目の前に存在する問題点に対して疑問すら抱くことが出来ないという事だ。

 例えば誰かが自分に対して嘘を吐いた時に、忘れている記憶の中にその嘘を否定する知識があったならば、明確に否定出来なくても相手の発言に疑問を抱くことが出来る。

 だからこそ、忘れたとしても様々な知識に触れておく事は縁の人生にとって意味のある事だと思うのだった……そういう事にしておこう。


「う~ん、頑張る」

 縁から頑張ると言質を取った以上は、野付半島に連れて行って砂嘴も見せておくのが教育なのだろう……という口実で、単に自分が視界の左右どちらも海。しかも橋などと違って視点と海面の高さが近い道を走ってみたいだけだった。



 富井は展望台からの風景や、ロープウェー写真を撮ってネットにアップしておく。

 特に函館山と言えば函館市街地を一望する例の写真ばかりなので、様々な方向をとっておけば何かの素材として使う奴もいるだろう……いると良いな~と思っているのである。


 函館山を堪能したが、まだチェックイン開始時刻には少し間があった。

 やはり景色だけでは三歳児の間を持たせることは無理かと思う富井自身、すでに風景はお腹一杯だった。


 下山途中で斜面の下にちらりと見えた近世ヨーロッパの息吹を感じさせる尖塔を持つ建築物が気になったので暇つぶしに下山路を出ると左回りに山裾を移動する。


「へぇ~オーソドックスか、函館というとトラピストとかカトリックのイメージだったんだけど」

 函館ハリスト正教会の文字にそう呟く。

 キリスト教と言われてカトリックとプロテスタントを挙げられても、オーソドックス──東方正教会の名前を挙げられる日本人は少数派だろうが、富井は元の職業柄東欧にも古美術等の買い付けに同行する機会があったので知って当然でなければならなかった。


 東方正教会は各国毎に組織が独立しておりロシアで発展したのがロシア正教会である。そのロシア正教会から初代主教を迎えて誕生したのが日本正教会、日本ハリスト正教会であり、その発祥の地が函館ハリスト正教会……と言われている。


「わ~お城みたいだね」

 白い壁に緑色の屋根の聖堂と尖塔状の鐘楼。聖堂の屋根の上には装飾としての意味しかないだろう小さな塔が突き出していて、その塔の上には玉ねぎ型の屋根が乗っている。

 イスラム教のモスクやロシアの首都モスクワの赤の広場から見える修道院をイメージさせるが、それらに強く影響を与えた東ローマ帝国のビザンティン建築様式であり、この一見するとか可愛らしいとすら感じる建物はビザンティン建築様式なのである。


 構造上、防御拠点としての機能は一切感じられないので城には見えないので「そうだね、綺麗な建物だね」と濁す富井。

 肩車で自分の肩の上に座る縁には、そもそも教会というものがよく分かっていないのだろう。

 これを見て城ではなく教会だと思えるようになるのは何時の事だろうと未来に思いを馳せる──「まだまだ先だな」と呟く声には、大変だなという気持ちと、こんな時間が長く続くようにゆっくり成長して貰いたいという気持ちの両方がこもっていた。



 チェックインの手続き開始時刻になったのでホテルへと向かう。

 ロビーのチェックインカウンターで手続きを済ませ客室にたどり着いた富井は床に荷物をベッドに縁を下すと、寝転んでいる縁の隣に倒れこんでそのまま眠りに落ちる。


 目を覚ますと室内は闇に閉ざされていた。

 目に入ったベッドのヘッドボードの時計を確認すると午後の六時半だったので、翌朝でなくて良かったと富井は胸をなでおろす。


「縁~起きて~」

「うにゃぁ~」

 揺する富井の手から寝返りをうって逃れる縁だがすぐにベッドの縁へと追い込まれた。

「抵抗せずおとなしく起きなさい」

「やぁ~、あと五分だけってお父さんも言った!」

「余計な姿を子供に見せやがって何してんの?」

 亡き兄へ抱いていた敬意が一割ほど失われた。



「うわぁ~なんだかよくわかんない!」

 それは正論であり、富井も同じ感想だった。【幸運の道化師】それはとてもハンバーガーショップとは思えない内装だった。

 二十店舗以上のチェーンを展開するがそれぞれ異なるコンセプトで内装を施されている。

 わかりやすく例えるなら、アメリカンな色合いが強いハンバーガーならぬハンバーグ専門店【驚愕するロバ】をイメージするのが良いだろう。

「もう一度函館に寄るから、その時は総本店に寄ってみるけど、もっと凄いみたいだから楽しみにしような」

 富井自身、写真でしか見た事の無いが総本店については凄いは凄いでも「凄く意味が分からない」という感想しかもっていなかった。


「ねえここで食べないの?」

「うん、持ち帰って車の中で食べようね」

 店内で食べないのには理由がある。テーブル席の客達がハンバーガーの大きさに手こずり口や手を汚しているのを見て、縁がそのままかぶりつくのは無理と判断したのだった。


 ぶら下げた袋の中には人気上位三品。つまりハンバーガーが三つ入っているだけだが、そのずっしりとした重量感は袋ごと振りかぶって背後から後頭部に叩きつけたなら成人男子でも一撃で昏倒させる凶器と化すだろうと確信出来た。

 そんな物騒な事を考えながら駐車場のキャンピングカーに戻る。

 車内に取り付けられた小さなギャレーでハンバーガを分解し、バンズと具を一口大に切り分けて皿に盛り付け、はちみつを入れたホットミルクと一緒にテーブルの上に置く。

 バラさずに最初は何等分かに切ってサンドイッチ用のピックで突き刺した洒落たスタイルで出そうかと思っていたのだが、ハンバーガーのサイズが大きすぎて百円ショップで買ったピックでは長さが足りなかった。


「ハイどうぞ」

「いただきま~す!」

 既にハンバーガーとは呼べないシロモノをフォークで食べる縁を見ながら、冨井は縁に提供したのとは違う四分の一にカットしたハンバーガーを摘まんで口の中に押し込む。

「美味いな」

 とんかつバーガーは予想よりずっと分厚いとんかつが強く自己主張しており、バンズがそれをしっかりと受け止めていた。

「おいしいね」

 ソースで汚れてしまった縁の口元をぬぐいながら、もう一切れ口に放り込む。

「とんかつバーガーの肉が分厚く、そして美味いな」

「ぶあついな! うまいな!」

 同意する縁だが、彼女が食べているのは一番人気のハンバーガーの具材である鶏のから揚げであった。



 食事を終えるとそのまま温泉へと向かう。

 ホテルには客室のユニットバスとは別にそこそも大きな共同の浴場があったが、富井にとっては旅と言えば温泉。これでは外せなかった。

 函館とその近隣市町村には冨井にとって魅力的な温泉がいくつもあった。

 彼が好むのはファミリー層に人気の、設備が充実し清潔で使いやすいスーパー銭湯が温泉になったような施設ではなく、秘湯感が漂う鄙びた温泉である。

 高校大学と登山部に所属していた彼は、山に登った後に地元の人たちが訪れる様な鄙びた温泉で汗を流すのが堪らなく好きだったのだ。

 特に露天風呂から登った山の頂を眺める事が出来たなら感慨も一入であった。


 そんな彼にとって函館で温泉と言えば、どうしようもないほど一度は入っておきたいのが野趣溢れるというか溢れかえっている「水無海浜温泉」であるのだが──

「水無海浜温泉はない」

 そもそもこの温泉は、海岸近くの海底から湧く温泉であり、温泉の周りに囲いを組んで強引に浴槽を作っただけで、入浴可能なのは干潮時の数時間でそれ以外は水没してただの海になるのである。

 温かい海水に浸かるようなものなのに上がった後にシャワーを浴びられるわけでもなく、三歳児連れには難易度が高いのである。


 水無海浜温泉に限らず彼の嗜好に合致する温泉は一般人にはきつい。きつ過ぎてネットでチェックして何時か行こうと思っていた温泉と既に行った事のある温泉がどんどん廃業していくくらいである。


 結局、今晩の温泉は無難に谷地頭温泉になった。

 決して悪い温泉ではなく地元民に親しまれる泉質も良い温泉である。それ故に秘湯感は欠片もなかった。

 しかし縁は満足していたので良しとする事にした。



 ホテルに戻ると、今日は車の移動中に寝る間があまりなかったので、すぐに縁は眠りに就いた。

 富井はビールを飲みながら今日一日撮影した写真を選別し、動画を編集してネットにアップする。この手作業は顧客向けのプレゼン動画作成で手慣れたものだったので早目に就寝する事が出来た。




 七時に富井が目を覚ますと、縁は富井の腕にしがみつくようにしてぐっすりと眠っていた。

「さて今日はどこへ向かうか……縁に本当の城を見せるならば松前城……縁の頭の中にあるのは西洋風のお城だね……ならば五稜郭……確かに西洋式だけどそんな武骨な奴じゃないんだ美しい尖塔が幾つも……まあいい。朝飯を食べてから、五稜郭タワーからの景色を堪能からの五稜郭散歩だ。そして大沼公園を散歩して、鹿部町で間欠泉を見て地球の神秘に触れる情操教育」

 彼は姪を第二のタモリさんにでするつもりなのだろうか?

 山と温泉を愛し、父の影響で釣りを嗜んだ結果、川も海も好きな彼は必然的に地形マニアでもあり、学生時代は登山・温泉・釣りのために全国各地を電車での移動する事が多かったので鉄道にも詳しいので、自然とそうなってしまう可能性は捨てられなかった。




 北海道上陸三日目 小樽市 おたる水族館。

「ヒロちゃん。この子かわいいね!」

 頭上の透明なアクリル製の渡り廊下を走る、全身が可愛いで出来ると言っても過言ではないコツメカワウソ達の姿に縁は興奮して、自分を肩車する富井の頭をペシペシと叩く。

「下して、近くで見たいの」と言われて床に下すと、床下の水中トンネルの中を泳ぐ姿に「はぅ~」とうっとりし溜息を漏らすのであった。



 北海道上陸四日目 札幌市 モエレ沼公園

「うわぁぁぁぁぁぁっ!」

 目の前で吹き上がる噴水の迫力に驚いて悲鳴を上げて富井の後ろに隠れる縁。

 実際かなりの迫力であり富井も冷静を装うが、内心ビビッていた。

 故イサム・ノグチの遺作「海の噴水」生命の誕生と宇宙をモチーフとした直径48メートルの巨大な噴水。

 吹き上げられる水の高さは最大二十五メートルにもなり、ライトアップされた夜の噴水は幻想的な美しさがある。

「こ、これじゃあ間欠泉意味ないよ」

「おい!」

 怯えながら間欠泉をディスする姪に、地形マニアは大人げなく結構本気で怒る。


『こうなったら、日光の川俣温泉の……いや、タイミングによってはこの噴水に勝てるレベルのモノは見られない。ああ全盛期の諏訪湖間欠泉なら、このガ……お子様を黙らせることが出来たのに……俺も見た事ないけどな』

 間欠泉は突然出来て、数十年程度なくなってしまう場合も多いが、日本の場合は間欠泉の上に屋根をかけて熱水が飛び散らないようにしている場合も多くガッカリさせられるのであった。



 北海道上陸五日目 旭川市 旭山動物園

「ワンちゃん可愛いね」

「あれはオオカミだから」

「おおかみっていうワンちゃん?」

「……そうだね、オオカミっていうワンちゃんだよ」

 くじけてしまった富井に、近くでやり取りを聞いていた女性客が「弱っ!」と小さく声を上げた。



 北海道上陸六日目 湧別町 国道238号線 サロマ湖湖畔

 車の左側を塞ぐ様に立ち並ぶ林が切れてサロマ湖が姿を現す。

「海だよヒロちゃん!」

「残念、あれは湖。サロマ湖っていうんだよ」

「うっそだ~!」

「嘘じゃないよ。海の先を見てごらん海の上に一本の線に見える、それが砂州──」

「知ってる。水平線だよね。ヒロちゃんあれが水平線だね」

「…………」

 眩しいほどのドヤ顔で言われてしまった為に、言えなかった日本で三番目に大きい湖なんだよという蘊蓄。

 日本で一番大きな汽水湖なんだよという雑学知識。

 砂州によって海から切り離された場所を潟湖(せきこ)ともいうんだよという教科書知識。

  その全てを三歳児の無邪気な言葉に封殺されてしまったのだった。

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